38,886の灯(ともしび)―さくら通りの共生録―

共創民主の会

第1話 統計の街に灯をともす

【2025年9月5日 午前8時46分】


 エレベーターが六階に着くまでに、私は三度、手帳の見出しを書き直した。「岡山県・外国人材支援推進計画」。文字数は少ない。重さは、ズシリと胸に沈む。


 労働雇用政策課の前で靴音を殺し、扉を引いた。窓際、係長の机に置かれた「外国人相談センター」の多言語パンフレットが、エアコンの風でパラパラと音を立てた。まるで、誰かが私の名前を呼び止めているようだった。


「――38,886人です。昨年比▲12・4%の増加ですよ」


 係長は、マスクの下で息を吐いた。モニターに映る円グラフは、オレンジ色の「特定技能」が急角度でせり上がっている。ベトナム、インドネシア、中国。色分けされた帯は、まさに鉄の帯のようだった。


「過去三年で、技能実習から特定技能への『移行』は二千二百人。法改正の追い風ですが、現場の受け皿は……」


 そのとき、廊下側のガラス越しに、黒いスーツの男たちが何事かを押し問答しているのが見えた。手にしている赤い名札は「入管庁」。彼らの背後で、フィリピン語らしき母音の連なりが、エレベーターホールの冷たい壁に跳ね返っていた。


 私はボールペンを走らせた。「受け皿不足」「移行ラッシュ」「労災隠し」。どれも、紙面では「正義」の言葉だ。しかし、パンフレットの表紙に写っている女性の笑顔は、あまりに整いすぎていて、胸がヒヤリと冷える。


【同日 午後1時15分】


 県庁を出ると、空は鉛を溶かしたような色だった。タクシーの運転手は、ラジオの音量を上げた。国会中継。与党の若手議員が、外国人労働者の「五年後の帰国義務」を力説している。アナウンサーが「日本語能力試験N4」を連発するたび、運転手の眉間に皺が寄る。


「さくら通り」は、商店街の看板アーチが雨に煙っていた。足音が、コンクリートに吸い込まれる。私は傘を畳み、タイムズの赤い看板を目印に歩いた。会長の本田義郎さんは、すでに店先のイスに腰かけ、古びた蛍光灯の灯りを見上げていた。


わけの記者さんかね」


 杖をつき、立ち上がる背中は、かつての商店街繁栄を背負って湾曲している。隣の乾物店のシャッターは、半分下りきったままだ。レトロな文字で「営業時間短縮中」と書かれた紙が、風で身悶えする。


「三十八千人……だっけ。うちの町に、そんなにいるのかね」


 私は、手帳の数字を読み上げた。38,886人。うち岡山市が1万6千。倉敷、玉野、笠岡――。義郎さんは、耳を澄ますように瞬きをした。


「数字は、あんたの仕事かもしれんが、ここでは目に見えるもんを語らせてくれ」


 そのとき、商店街の奥から、カラカラと段ボールを引きずる音がした。振り返ると、ベトナム人らしき青年が、両手に乾電池の箱を抱えて近づいてくる。額に汗の粒が光り、Tシャツの襟元が雨にでも濡れたように黒い。


「スミマセン、スミマセン」


 青年は、日本語だけでなく、頭を下げる角度も必死に覚え込んだふうだった。義郎さんは、私の肘を軽くつついた。


「あれだよ。朝の六時に、商店街の電灯の点検に来る。日本語は、挨拶だけで精一杯。でも、『スミマセン』の響きが、ここに刺さる」


 彼は、自分の胸の真ん中を、杖の柄で示した。肋骨のあたりが、カクンと音を立てて凹む。


「特定技能ってやつかね。履歴書は、コピー屋のおばちゃんが書いてやったらしい。日本に来る前、両親に『三年で家を建てる』って誓ったそうだ」


 青年は、電柱の下で作業用ベルトを締め直した。ブランコに乗る子どものように、腰を浮かせて手を伸ばす。古い蛍光灯が外れ、新しいLEDがまる。途端、商店街の灯りが、白く鋭く生まれ変わった。義郎さんは、薄目を開けてその瞬間を見つめ、小さくため息をついた。


「――オフレコでいいかね」


 私は、手帳のペンを止めた。雨足が、シャッターの溝を這い上がる。


「あの若者、先月、仲間の過労死に遭った。同じ工場だ。線路向こうの、物流倉庫。親元に電話で『日本は安全です』って繰り返してたそうだ。遺体が帰国する日、工場長は『心臓発作』って書類を作った。実際は、百時間を超える残業だったらしい」


 義郎さんの声は、湿った空気に沈んだ。私は、スマホの録音ボタンをオフにし、代わりに心の中で「38,886」という数字を、赤く丸で囲った。


【同日 午後3時40分】


 地域コミュニティセンター「さくらプラザ」は、旧小学校の校舎を改修した建物だった。廊下には、まだ「三年二組」の金文字が残り、給食の匂いがベトナム料理の香りと混じる。ニョクマムの塩気が、私の舌の裏にまで染みた。


 体育館では、日本語クラスが行われていた。黒板に書かれた漢字は「働」「安全」「助け合う」。講師の女性は、紙芝居を広げながら「ダンドリ」と「マナー」を繰り返す。受講生たちは、エプロン姿のまま工場から直行したのか、髪の毛に切削油の匂いが混じっていた。


 私は、後ろのドアから外に出た。グラウンドの隅で、子どもたちがサッカーボールを追っている。チーム分けは、日本人・ベトナム人・フィリピン人の三つ。ルールは「日本語のみ」。でも、ボールがポストを叩くたびに、母国語の歓声がこぼれる。ネットの向こう、夕焼けが、工場の煙突を朱に溶かしていた。


【同日 午後6時22分】


 編集部に戻ると、デスクが原稿の締切を告げる赤ランプが点滅している。モニターには、他紙の速報が流れる。「中国籍実習生、残業百時間で急死」「入管庁、実態調査を開始」。スピーカーからは、社会部デスクの野太い声が響く。


「川口、人権問題より数字だ。38,886人の内訳を三行で。同情は三行で収めろ」


 私は、キーボードの上で指を震わせた。原稿用紙の白さが、蛍光灯の下で銀に光る。タイトルは「岡山県、外国人材計画を加速」。サブは「38,886人が支える地域経済」。でも、義郎さんの言葉が、耳の奥でリフレインする。


「若者よ、数字より人の目を見ろ」


 隣の記者が、ベトナム語辞典を引きながら叫んだ。


「『お願い』は『ラム・オン』だってさ。でも、『助けて』は『キュウ・ジョ』か? 違うのか?」


 私は、スクリーンショットを開いた。商店街で撮った写真――義郎さんとベトナム人青年が、はしごの両側から電灯を抱え込む瞬間。夕暮れのオレンジと、LEDの白が、画面の中でだけ共存している。キャプションを打ちながら、ふと指が止まった。


 この一枚に、38,886という数字の全てが詰まっている。でも、紙面では「統計の裏側」は、関係者の「コメント」として片隅に追いやられる。私は、削除キーを押し、代わりに新しい見出しを打った。


「『スミマセン』が響く商店街――38,886人の額に汗が光る」


【同日 夜9時05分】


 デスクが、もう一杯のコーヒーを差し出した。カップの底に、編集長の指が、二回、テーブルを叩く。


「記事、できたか」


 私は、プリントアウトした一枚を差し出した。文字数は2650。要件は満たしている。でも、見出しの下に、小さく写真のキャプションが添えてある。


――本田義郎さん(74)と特定技能のベトナム人青年が、商店街の電灯を交換する。青年は「スミマセン」とだけ日本語を話すが、義郎さんは「ありがとう」と答えた。言葉の数より、手の温もりが先に届いた。


 編集長は、メガネを押し上げて黙った。デスクの向こうで、ワイヤーの締切時計が、赤く秒を刻む。やがて、彼は赤ペンで「38,886人」の部分を囲い、横に一行、小さく記した。


「数字は、まだ動いている。でも、動かないものもある」


 私は、コーヒーを一口飲んだ。苦さが、舌の裏に残った。同時に、遠くの工場警報が鳴り響いた。夜勤の時間だ。誰かが、誰かのために、百時間を超える残業を始める時間だ。


 私は、パソコンを閉じた。モニターの反射に、自分の顔が浮かぶ。目の下に、黒い隈。でも、義郎さんの背中の湾曲が、まぶたに焼き付いている。統計数字を並べる記事ではなく、あの曲がった背中に、38,886人の重さが載っていることを、伝えたい。


 編集部を出ると、雨は上がっていた。商店街の方角に、新しいLEDの灯りが、一枚だけ、白く浮かんで見える。義郎さんと青年は、まだ作業を続けているのかもしれない。「スミマセン」「ありがとう」――言葉の交換が、夜の底に小さな波紋を広げている。


 私は、手帳の最後のページに、赤ペンで書き添えた。


「地域に根ざした支援こそが、真の多文化共生。数字は眠らない。でも、人の目は眠る。だから、目を覚ましてあげる仕事が、私たちにある」


 ビルの谷間を風が吹き抜け、新聞社の看板が軋んだ。明朝、紙面には38,886という数字が並ぶ。でも、その横に、小さな一枚の写真が載る。電灯を抱える二つの影。統計の裏側で、息をしている人々の影。


 私は、傘を畳んだまま歩き出した。空には、星が一つ、冷たく光っていた。

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