日本における近代造形合理主義期
■ 概要
日本における「近代造形合理主義期」は、1920年代から1970年代にかけて展開した。この時期、色はもはや象徴的・装飾的な意味をもたず、「構成」「機能」「理性」と結びつく造形要素として再定義された。
西欧モダニズム――バウハウス、デ・ステイル、ル・コルビュジエなどの思想が導入され、芸術・建築・工業デザイン・教育の各領域で、色は「感覚の秩序」として体系化された。
ここでの色は、個人の感情でも宗教的象徴でもなく、「普遍的造形言語」として位置づけられる。
カンディンスキーやイッテン、アルバースらの理論が翻訳・受容され、光と形、感覚と理性を統合する「構成的思考」が日本の造形教育とデザイン理念の基盤となった。
すなわち、近代造形合理主義期とは、色彩が初めて「理性によって構成される美」として制度化された時代であり、近代日本の視覚文化が世界的モダニズムの体系へと接続された時代である。
■ 1. 自然観 ― 抽象化された自然
この時代の自然観は、もはや自然を模倣するものではなく、「構造的秩序」として抽象化するものであった。
科学が自然を公式やデータで記述したように、芸術やデザインも自然を「法則の可視化」として再構築した。
戦前の東京美術学校や大阪工業学校では、光学・心理学・幾何学を基礎とする色彩教育が導入され、自然界の色は「明度・彩度・色相」という抽象的要素に還元された。
自然はもはや観察の対象ではなく、造形のための素材――つまり「抽象的自然」として再定義されたのである。
戦後のデザイン運動では、自然を「機能の体系」として理解する思潮が強まり、自然物の形態や色彩は、構造・目的・使用環境の関数として再設計された。
これは、伝統的な「自然の理(ことわり)」を科学的合理性へと翻訳する試みであり、自然を再現するのではなく、「自然の法則を思考で再構成する」態度が確立した。
■ 2. 象徴性 ― 普遍形式としての色彩言語
近代造形合理主義期の象徴性は、宗教や物語を排し、「形式そのものが意味を生む」構造的象徴へと転化した。
モンドリアンの赤・青・黄の三原色構成、バウハウスの基礎教育での色相関係、そして日本における構成主義美術の展開は、色を内容の表現ではなく「秩序の指標」として扱う思考の表れである。
日本では1920〜30年代に、山脇巌、桑沢洋子、丹下健三、長谷川三郎らがバウハウス思想を翻案し、「色彩は形態の中に内在するリズムである」という理念を共有した。
また、桑沢デザイン研究所や東京造形大学などの新教育機関では、イッテンやアルバースの理論を基礎とした「色彩構成」の授業が確立した。
こうして、色は「表すもの」ではなく「構成するもの」となり、象徴性は「神話の言語」から「理性の文法」へと変化した。
すなわち、近代日本の色彩思想は、内容を消去しながらも、秩序という新たな意味を付与する――「空(くう)の造形哲学」を帯びていたのである。
■ 3. 技術水準 ― 産業・教育・映像の統合
日本の近代造形合理主義期における技術的発展は、「科学・産業・教育・映像」の四領域を統合することで展開した。
戦前から戦後にかけて、色は理論的教育と産業生産の両方で標準化され、視覚の合理性を支える科学的基盤が形成された。
まず産業面では、印刷・塗料・照明・繊維の標準化が進み、日本工業規格(JIS)の制定(1949)によって、色は「計測されるデータ」として扱われるようになった。
マンセル表色系・CIE表色系が導入され、科学とデザインが共通の「色の言語」を得たことで、芸術・工業・建築・教育が同じ座標上で交流する環境が整った。
教育面では、バウハウス思想を継承した「基礎造形教育」が確立し、桑沢デザイン研究所(1954創立)や東京造形大学(1966創立)などで、色彩を心理学的・構成的に扱う体系的カリキュラムが整備された。ここで学ばれた「感覚の秩序」こそ、戦後日本デザインの骨格をなした。
映像技術の発達もまた、色の理解を刷新した。映画のカラー化、ポスター印刷の多色化、テレビ放送の普及によって、色は「静止した構成」から「動的な情報」へと拡張された。
照明デザインや舞台芸術、写真などもこの影響下で進化し、色彩は「構造的要素」であると同時に「時間の表現」として扱われるようになった。
こうして、産業技術と造形教育、映像メディアが相互に影響し合う中で、日本の色彩文化は「理性によって感覚を構築する」近代的統合システムを完成させたのである。
■ 4. 社会制度 ― 国際スタイルとデザイン体制
第二次世界大戦後、日本は復興と近代化の過程で、デザインを国家的産業戦略として制度化した。
経済産業省(当時の通産省)や工業デザイン協会(現・日本デザイン振興会)が設立され、工業製品・建築・広告・インテリアの色彩が国際的競争力の指標として扱われた。
「国際スタイル建築」(ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエの理念)を継承した日本の建築家たち――丹下健三、前川國男、吉阪隆正らは、白・灰・黒を基調とする機能的色彩を採用し、「合理的秩序としての美」を体現した。
この「無彩色のモダニズム」は、戦後の国際的建築ネットワークの中で「理性の日本美」として評価された。
同時に、企業デザイン(コーポレート・アイデンティティ)の概念が普及し、色は企業理念や製品イメージを統合する視覚的記号となった。
SONYの青、NECの赤、オリンパスの黄青など、戦後企業は「色彩によるブランド認識」を戦略的に導入した。
また、1964年の東京オリンピックは、デザイン制度の成熟を象徴する出来事である。
亀倉雄策のポスターや丹下健三の建築群において、色は民族的象徴でも装飾でもなく、「普遍的秩序の中に調和する構成要素」として表現された。ここに、「造形の合理性=国家の知性」という理念が可視化されたのである。
■ 5. 価値観 ― 理性化された感覚の美学
近代造形合理主義期の価値観を一言で表すなら、「理性による感覚の組織化」である。
美は主観的感情でも宗教的理念でもなく、形式・構造・透明性に宿るとされた。それは、普遍性を志向しながらも、感性を排除しない「冷たい情熱」としての美である。
バウハウス的な比例・構成の美学に基づき、色は形態・空間・機能と同列に扱われた。アルバースの『Interaction of Color』が翻訳・紹介されると、色は単独で意味を持たず、関係性の中で変化する「現象的真理」として捉えられた。
この思考は日本の美意識――「間(ま)」「調和」「空(くう)」――と深く共鳴し、合理主義の冷たさに温度を与える独自の色彩哲学を生んだ。
しかし1960年代以降、ポップアートやミニマリズムが登場すると、この「秩序の美」は次第に相対化され、消費社会の中で「色の自由」「感覚の爆発」へと転換していく。
それでもなお、理性化された感覚の理念は、日本の建築・グラフィック・プロダクトデザインの根底に生き続けている。
■ 締め
日本の近代造形合理主義期は、色が初めて「感覚・理性・構造・機能」の交点に立った時代である。
ここで確立された「普遍的造形言語」と「色彩教育の体系」は、戦後日本のデザイン産業を支える思想的インフラとなり、同時に、東西の感性を統合する美学的中核を形成した。
この合理主義の理念は、のちの情報化社会において「データとしての色」「操作される光」へと転化し、現代のデジタル美学を準備することになる。
したがって、近代造形合理主義期とは、色彩が「思想としての秩序」を持ち、人間の知覚を構造的思考へと昇華させた――日本色彩文化史における「理性化された感覚の頂点期」であったといえる。
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