日本における産業技術標準化期

■ 概要


日本における「産業技術標準化期」は、明治後期から昭和初期(およそ1890年代〜1930年代)にかけて展開した。


この時期、色はもはや自然の現象でも宗教的象徴でもなく、「製造・流通・管理される人工的現実」として社会の中に定着した。


合成染料、印刷インク、写真、電灯、ポスター、広告、建築塗料など、あらゆる分野で色が産業的に再現されるようになり、「色を作る」「測る」「揃える」という三段階が社会制度として定着した。


一方で、産業美術運動(クラフト・アーツ・デザイン)の興隆により、美と技術の融合が模索され、色は経済的価値と美的価値を同時に担う存在へと変化した。


ここにおいて色は、「近代日本の視覚秩序」の中心に立つ。すなわち、光と物質の管理を通じて、社会そのものが「色によって統一される」時代であった。



■ 1. 自然観 ― 人工自然としての色


19世紀末から20世紀初頭の日本では、自然観が根本的に転換した。それまでの「自然を写す」態度に代わって、「自然を再構成する」技術的自然観が支配的となった。


合成染料の導入(アニリン染料・ナフトール染料など)によって、自然界には存在しない鮮烈な色彩が容易に再現可能となり、「自然の模倣」から「自然の再設計」へと意識が移行した。


印刷や写真の分野では、光学的原理に基づいた三色分解法(赤・青・黄)の理論が導入され、

光を物質化する「再現の科学」が日常化した。光はもはや超越的でも現象的でもなく、「制御可能な資源」となったのである。


一方で、岡倉天心や柳宗悦らの思想には、こうした人工自然への懐疑が見られる。彼らは産業的複製がもたらす自然感覚の喪失を批判し、手仕事の中にある「生きた色」「土の色」の倫理を再評価した。


したがって、この時代の自然観は、「技術的自然」と「精神的自然」の二重構造を孕んでいたといえる。



■ 2. 象徴性 ― 産業文明の視覚記号


産業技術標準化期の色は、宗教や伝統に代わって「文明」「進歩」「近代性」の象徴となった。


鉄道の赤と黒、郵便ポストの朱、街灯の白光、ビルの灰色――それらはすべて、近代社会の秩序と速度を可視化する記号である。


都市空間は、ガス灯・電灯・ネオンによって光の層を増し、夜の風景は「人工的昼」と化した。


光は労働・娯楽・広告・交通を統合する社会装置となり、色はその中で「情報の可視化手段」として働いた。


また、企業や国家が独自のカラースキームを採用し、ナショナルカラーの概念が定着したのもこの時期である。


日本郵船の濃紺、帝国陸軍のカーキ、国旗の紅白、東京駅の赤煉瓦――それぞれが制度的色彩として社会記憶に刻まれた。


このように、色は「意味の言語」から「社会の構造体」へと変化した。すなわち、色そのものが文明のシンボルであり、

国家・企業・都市の機能を支える「制度化された視覚言語」となったのである。



■ 3. 技術水準 ― 合成染料・印刷・写真・照明の革命


日本の産業技術標準化期における最大の革新は、色を大量生産・複製・制御するための技術体系が確立したことであった。


明治後期から大正期にかけて、ドイツやイギリスから輸入されたアニリン染料と、国内での合成化学の発展が染色文化を一変させた。


東京帝国大学理学部や工部大学校では、化学者たちが染料合成と顔料分析を学び、 やがて日本独自の染料工業(後の日本化薬・小野田化学など)が興隆する。これにより、天然素材に依存していた染色文化は「化学的再現の時代」へと移行した。


印刷では、明治末から昭和初期にかけてオフセット印刷や多色石版印刷(クロモリトグラフ)が普及し、写真術の進化(ダゲレオタイプからカラー写真の初期実験)と相まって、「量産化された視覚文化」が生まれた。


さらに、電灯と照明技術の発展も決定的であった。白熱灯から蛍光灯への移行は、色を自然光から独立させ、昼夜の区別を曖昧にした。都市の夜景は、光のスペクトルが社会を覆う「近代の舞台装置」となった。


こうして、色は化学・機械・電気という三領域の融合によって完全に人工化され、もはや「自然の光」ではなく「技術によって作られた光」として経験されるようになったのである。



■ 4. 社会制度 ― 工業・教育・デザイン体系の確立


明治後期から昭和初期にかけて、色は国家と産業を支える社会制度に深く組み込まれていった。

国家は工業教育と職業訓練の制度化を進め、色彩理論・調和・素材学を学ぶ場としての工芸学校・高等工業学校が各地に設立された。


東京美術学校(現・東京藝術大学)では、シュヴルールやオストワルトの色彩理論を教科書化し、色彩は職人技から科学的知識へと転換した。バウハウス以前にあたる段階で、すでに「教育可能な色彩理論」が日本に根づいていたのである。


また、産業界では製品の色規格・商標・広告デザインが整備され、鉄道・郵便・軍服・官庁・学校など、公共の場に「制度的色彩」が導入された。


赤信号・白線・青図など、視覚情報としての色が社会秩序の中に位置づけられたのもこの頃である。


都市計画においても、建築やインフラにおける色の役割が注目され、「国土を見えるように整える」という意味での「色の制度化」が進行した。


つまり、色は文化的記号から行政的装置へ――それは近代日本が「視覚による統治」を確立した時代でもあった。



■ 5. 価値観 ― 産業美学と近代感性


この時期の価値観を支えたのは、「実用と美の融合」という近代的理念であった。産業製品が市場に大量に出回る中で、色は単なる機能ではなく「感性を刺激する商品価値」となった。


明治以降に成立した広告・ファッション・インテリア産業は、色を「売る」ための言語として用い始めた。


一方で、柳宗悦や濱田庄司らによる民藝運動は、こうした産業的色彩に対して「手仕事の倫理」を掲げ、自然素材と手の痕跡を残す「生成の美」を唱えた。ここに、産業化と手工芸、理性と感性のせめぎ合いが見られる。


また、都市の光と広告の増加は、人々の知覚そのものを変えた。モネや印象派を受容した日本画家たちは、人工光と自然光の対比の中に「生の瞬間」を描き出そうとした。


色はもはや永遠の理念ではなく、「変化する現実」を体験するための知覚的メディアとなった。


この時代における「美しい」とは、均整や聖性ではなく、「効率・機能・流通」に調和することであり、


色は近代的合理精神の象徴として位置づけられた。そこには、感性と生産、芸術と産業が初めて交わる「視覚経済」の萌芽がある。



■ 締め


日本の産業技術標準化期は、色彩が「科学・産業・社会制度・美学」を横断して制度化された最初の時代である。


色はもはや自然でも象徴でもなく、「社会が生産する現実」となり、工業製品・広告・建築・教育のすべてに浸透した。


この時期に形成された「標準色」「量産」「機能美」の思想は、のちのモダニズムへと連続し、さらに20世紀後半のデジタル社会における「情報としての色」へと転化していく。


したがって、産業技術標準化期とは、色が人間の理性と市場の力によって完全に制度化された時代であり、光が「信仰」でも「観察」でもなく、「生産の論理」として支配され始めた決定的転換点であった。

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