第7話 だってずるいと思ったから
「散歩の時、なにかあったの?」
まとめと称した最後の追い込みも終わり、勉強会も締めくくった後。私たちは順にお風呂に入って、時間も時間だからと床についていた。佐伯──海羽先輩は自室。私たちは客間……と呼べばいいのか、あまり私用で使われていなさそうな、生活感の薄い部屋に通された。生活感が薄いと言っても手入れはされていて、むしろ他の部屋よりもきれいな状態に見える。
違う布団で隣同士。背中越しに、四条から声をかけられる。やはりと言うかなんというか、鋭い。
「別に、なにもないけど」
「ふたりとも顔つきが違ったよ。佐伯先輩はなんかスッキリした感じだったし、秋原はちょっとモヤついてる感じだった」
「そこまでわかるんだ」
「やっぱ嘘じゃん、さっきの」
「ごめんごめん」
四条の観察眼は、最近磨きがかかっているようにも思える。前よりも、人の心を見る精度が上がっている気がする。もはや、私の表情が乏しいとか関係がなくなるんじゃないかな。仏頂面をしていても、四条なら気持ちを分かってくれそうな感じがある。そうだとしても、私はこのままじゃダメだ。私は自分の絵をより良くしたい。そのために、表現を多く学ぶ。……先輩は、そういうのじゃなくて作品に込める意味が大切だと言っていたけれど。何もその意味を分かっていないままより、分かっている何かを詰めたほうが美しいはずだ。
「でも、別に悪いこととか変なことじゃないよ。将来のこと」
「気が早くない?」
「私もそう思う。ま、そう焦る話でもないかもだけどさ。……先輩に、一緒の美大に来ないかっていわれたんだ」
四条からの反応はなかった。今、彼女には背を向けているし。それに、見たところで今はわかる気がしない。
「私も、さ、考えたことはある。自分の絵を、仕事にすることを」
絵は、好きでも嫌いでもない。これが、当たり前。そして多分、私は絵を嫌いになることはない。私には、これがあまりにも馴染みすぎた。だから仕事にしたところで嫌いになんてなるわけがないという、そんな自信すらあった。
「けどやっぱり、悩んでる。もしかしたら、海羽先輩はそういうのを見抜いていたのかもね。私が、そういう悩みを抱えているって」
仕事にしても嫌いにならない自信はあるが、そもそも自分の絵を仕事にできるという自信はなかった。下手だからとか、そういうのじゃない。もっと、別の問題。イメージができない。私が……私の逃避行が許されて、認められて、お金を落とすまで人を魅了するなんて。イメージのできないものは、描けない。創作は、おしなべてそういうものだ。
「偉いね、秋原は」
そこで、四条が口を開いた。同時にもぞもぞと動いているのが衣擦れの音で分かった。背中に手がそっと添えられて、すぐ後ろに四条がいることがわかる。
「私は、そんなこと考えたこともないや。一日一日を生きるので精一杯で、目の前のことにしか目を向けられない。私は、そういう人間だから」
「偉いわけでもないよ……」
私の絵は、逃避行だから。それが、私の思考に枷をかけていた。未来だとか、将来だとか、私は見ているようで見ていない。いつも今という現実から逃げて、なんとかここまでやってこれた。それだけ。
「ま、いいでしょ、私の将来の話なんて。明日も朝イチで振り返りを軽くやるみたいだし、早くねよ」
「秋原は、先輩と同じ美大に行くの?」
「ん、いや、まだ美大に行くと決めたわけじゃないし……」
「行くとしたら、同じところ?」
やけに押しが強かったけど、深く聞くことはできなかった。
「それもわからないよ。確かに、先輩の選ぶところなんだから間違いはないんだろうけどさ、まぁ、それも候補の一つには挙がるだろうね」
「そっか」
四条に添えられた手のひらが暖かかった。じんわりと、その温もりが移ってくる。同時に、私の鼓動も伝わっているんじゃないかと、ちょっと恥ずかしくなる。早鐘を打っているとかそういうことはないが、それでもなんだかむず痒い。
ブランケットを深く被り直そうとした。その隙をついて、四条が潜り込んでくる。ほんの僅かに浮かせたブランケットに入ってきて、私に抱きついてきた。
「ちょっと……」
「私は演技をするとき、時々不安になるの」
引き剥がそうとしたけど、させてくれなかった。確かに、四条の力と私の力じゃ勝負にならないというのもあるが、そうじゃない。むしろ逆で、全く力が入っていなかったから。しがみつこうとしているってよりも、甘えるような感じ。なんだか、いたたまれなかった。
「私の演技はちゃんとできてるのかなって、伝わってるのかなって……秋原に指摘されたときは、めっちゃビビった」
「それは、ごめん」
「私が演技を始めた理由、知ってる?」
それは、聞いたことがなかった。私と四条は、もう知り合ってからかなりの密度の日々を過ごしてきた。それでも──最後の一枚壁があった。それは、四条の『演技』だ。決して本心を見せない彼女の姿勢。それがあって、私は迂闊に聞けなかった。四条の本心というのは、私の認識の中ではパンドラの箱。触れるに触れられない箇所だった。彼女の方も、私が絵を描く理由を聞いてこなかったからというのもある。聞いてくれれば、自然に聞き返せたのだけれど。
そこで言われて、私は初めて気になった。四条が演技を始めた理由。私は現実逃避のために、海羽先輩は世界を染め上げるために。作り手は、作り手なりの事情を持っている。四条は、とても小さな声で話し始めた。
「私の本音は、人を傷つけるから」
四条の手を、私は握った。何故か、そうしたくなってしまった。
「小さい頃から、私は人の気持ちがよくわかる子供だった。どういうことが楽しくて、どういうことで喜んでもらえて……どういうことがコンプレックスなのかも、わかっちゃった」
子供が、それを察して回避しろというのは難しい。太っていることで悩んでいる人に「太ってるね」なんて、子供なら言ったって不思議じゃない。そして多分、四条が言っているのはもっと高度なことだ。どのくらい小さい頃かはわからないけれど、例えば走るのが遅いとか、絵が下手とか、歌が下手だとか──気にする人もいれば、気にしていない人もいる。四条は、その気にしている人の方を見抜けてしまった。
「最初は善意のつもりだったんだけどねぇ。こうすればお歌うまくなるよーとか。ダメだったみたい。うるさい! って追い返されて……一人ぼっちになっちゃって……」
その後は、だいたい私と変わらないだろう。だけど、感じた痛みは私と比べ物にならないはずだ。私は、絵があれば何でも良かった。それがあるだけで、私は私の世界に逃げ出せた。そもそも、他人なんてどうでも良かった。絵があればいいのだから。けれど四条は、人の気持ちがよく分かる。それは、自分の気持ちもよく分かることと同義なはずだ。痛みを、より繊細に受けてしまう。その辛さは、私には計り知れない。
「ま、だから『演技』を始めたんだ。他人の欲しい方だけを選んで、言っちゃいけないことは言わないようにして。それで、自分を取繕ってみた」
ねぇ、秋原──その声と同時に、私は仰向けにさせられた。巻き付いていた腕を引っこ抜くとき、四条が私の身体を絡め取った。そのまま、彼女が馬乗りになる。私のお腹のあたりに跨っている。ちょっぴりだけ、重かった。けれど、苦しくない。四条と目線があう。月明かりだけの、暗い部屋。あまり良く見えないけれど、それだけじゃない。
「私の
わからない。ちっとも。だからこそ、分かった。これは、四条の本心だ。きれいな顔なのに、きれいじゃない。今まで見てきた表情と大差ないのに、私はその感情を汲み取れない。今、四条は何を思って何を感じている? 今まで知ろうとしていたその答えが、目の前にあるのにわからない。
笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか──その全部?
「どんな、って」
前かがみになった四条の髪が、カーテンみたいに私を取り囲んでいる。私たちだけが世界から切り取られたみたいで、逃げられない。何かを言おうとしたその直前に、キスを落とされる。暑い。髪で小部屋を作られて、熱が籠もっている。顔が、熱っぽい。
「ちょ……しじょ……」
「私は、本心を見せるのが怖いよ。トラウマがあるから。早く乗り越えろって、話かもだけど」
乗り越えられない気持ちは痛いほどよく分かる。私だって、過去のことを引きずっている。言おうとしたけど、また口を封じられる。目を閉じるしかなかった。外からの情報が多すぎて、ちょっとでも減らしたくなった。でも、手を強く握られる。逃がしてくれないちょっとした怖さと、それ以上の大きさでやってくる安心感。私の情緒がどうにかなりそうだった。
「でも、秋原なら……って思うときがいっぱいある。秋原も、多分、私みたいにトラウマを持ってるんでしょ? だから、少し安心してるんだ。仲間みたいで」
四条なら、そういうこともわかるのだろう。どこで気がついたのかはわからない。少し前のマラソンのときか、あるいはそれよりもずっと前か。四条なら、どこで気づいていても納得できた。
「案外、秋原って感情豊かだよね。見てて楽しいよ?」
「しら、ない」
そんなことを言われたのは初めてだった。私のこの仏頂面を突破できる、四条だからわかること。顔を隠したかったけど、四条に手を塞がれてしまっている。なんだか、今は見られるのが恥ずかしい。全てを読まれてしまっている気分で、裸でいるよりも、ずっと恥ずかしい。「手、はなして」自分でも驚くほど細い声だった。でも、四条はそれを聞き取って、手を離してくれた。ようやく自由になったと思うと、四条は顔ごとその手を下に持っていった。彼女の舌が首をなぞると、思わず声が出そうになった。くすぐったくて、どうしようもない。鎖骨を触られたときも、なんだか手つきがいやらしかった。撫でるのとは少し違う。肌を指の腹でなぞるかどうか。かすめるように、薄く、薄く触ってくる。
「まって」
やっぱりくすぐったくて、身を捩る。けど、逃がしてくれない。背中に腕を回されて、四条の胸に収まるしかなかった。私より大きいから、すっぽりと入ってしまって動けない。首元に、顔をくっつけられる。顔で首元をまさぐられる感じ。何を考えているのか、全くわからない。顔を見てもわからないけれど、見られないとなるとそれはそれで少し不安になる。顔が見たくて、引き剥がそうとした。
「だーめ」
耳元で、湿っぽい声が落とされた。あの時が思い出される。四条と、擬似的な恋人になって恋の演技の練習をすると決めたあの日。あの時も、こんな感じの声で囁いてきた。暑い。まだまだ、夏を感じる季節だ。
それなのに、これだけ密着して、目元を塞がれている。あの時とはまた違う感じ。なんというか、言葉を選ばずに言うのならやっぱりいやらしい雰囲気だ。空いた手で、四条は私の手を握る。
「……まぁ、でも、やっぱり、こうやって強がってみてもさ、秋原相手でも本心を見せるっていうのは勇気がいるんだ。どこまで許されるのか。どこまで、受け入れてくれるのか」
その言葉を、疑いたくなる。本当にそう思っているのなら、ここまでやらない。そう、ここまで──
私の手を握っていた彼女の手が、そっと離れる。優しく、指が、私のパジャマのボタンにかかった。一つ、二つと取っていく。それ以上は、重みが違ってくる。ちょうど心臓の上辺り。そこに、とうとう四条の指がかかった。もしかしたら、ボタン越しに私の心臓の音が聞こえているんじゃないかと、少し心配になる。どうか、バレていませんように。なんて、四条なら、きっとわかっているのだろうけど。
「ねぇ、秋原」
声だけが、聞こえる。彼女の手が顔を覆ってしまっているから、私に彼女の顔を見ることは叶わない。もとより、見たところで汲み取れない。私は、作られたものしか知らない。だからこそだろうか、胸元に添えられた手の震えが、はっきりと分かった。
「私は、どこまで……」
くしゃ、と言葉の尾が潰れた。
「どこ、まで……許されて、いいのかな……?」
その問いが、何に向けられているのか、私には定かではなかった。この、四条が私の許容を確かめる行為の先のことなのか。……だとしても、私にはわからない。嫌だ、と強く言えない。なぜかも、わからない。
だけど、そんな目の前のことよりも、四条はとても後ろ側にあるものを指さしているように思えた。背負っているトラウマ。消せない過去。封じ込めた、本当の自分。それを取り繕うために、彼女はひたすらに演技を続けてきた。トラウマも、過去も、本当の自分も、最初からなかったみたいに振る舞おうとした。それが、楽だから。
──だとするのなら、誰が、本当の四条を認めてあげられるのだろう。
なかったことにされている彼女を掘り起こせる人なんて、そうそういるわけがない。私だって、今ようやくこうして対面することができるようになったのだから。どこまで許されていいのか。その言葉は、泣くことを我慢している子供のようにも聞こえた。自分にも重なって見えた。私は、未だに私の逃避行を許せていない。それが、世間一般で言う正しい選択だと呼んで良い気がしなかったから。
だから、私は四条を抱きしめた。不意をつかれたからか、彼女はとても驚いていた。目を見開いて、でも、逃げようとしていないのが、愛くるしかった。私は、四条を強く抱きしめる。
「……私は」
何を言うべきなのか、逡巡した。でも、自ずと答えは出てくれた。
「中学の時、いじめられてた。もともと、絵に熱中していたから、それを気味悪がられたのかも」
人とは違う人を弾く。それは、人間のわかりやすい心の動きだった。
「いつからか、私は人の気持ちを知ろうとすらしなくなった。絵があればよかった。他人の気持ちなんて、絵に比べれば些末なものだった。私の気持ちなんて、そこにいくらでも吐き出せた。……吐き出し続けているうちに、今みたいに感情表現のできない人間になっちゃんたんだけどね」
それが、私のオリジン。
「いつからか現実逃避をするように絵を描いてた。人の気持ちから逃げて、自分から逃げて、現実から逃げた。だから、私には絵を描くことしかのこらなかった。私が絵を描き続けるのは、そういうこと。私には、それだけが──私を助けることができる方法だったから」
それが、私の絵を描く理由。四条が話してくれたのだから、話すべきだと思った。四条が本心を見せてくれたのだから、答えるべきだと思った。私は、抱きしめる力を緩める。そっと彼女から腕を離して、顔を見てみた。けれど、全くわからない。あれだけ望んでいた彼女の本心は、まだまだ私には早かったみたいだ。……次は、絶対に。決意を胸に、私は小さく笑ってみた。下手くそだと笑われるかもしれない。
「全部許すなんて、そんな無責任なことは言わないよ。言うだけなら、誰にだってできる」
だけど、私にできる限り──こんな、ちっぽけな私にできることがあるのなら。その限りを尽くしたい。
「だから、今日みたいに……もうダメだーってなったら、一緒にいてあげる。その時は、ハグでもしようか。私、ハグ、実は好きなんだよね」
不思議と、恥ずかしくなかった。前に似たようなことを言ったときは、後から少し後悔したくらいには恥ずかしかったのに。でも、四条なら大丈夫って思った。四条が、私なら大丈夫かもって本心を見せてくれたから。
「そうやってさ……ハグとか、今日みたいに、演技ちょっとやめてみたり……色々やって、どんどん四条自身と私が許せることを増やしていこうよ。一個ずつでも、ほんの少しずつでも良いから。いつか、きっと、全部許せるようになるだろうから」
私は、その言葉に自分で驚愕していた。本当に自分の言葉なのかと、耳を疑った。本来の私は、こんな人間じゃないから。私は過去、他人をどうでもいいと切り捨てた。自分の世界に入り込むために、現実の不必要なものを切って切って、掃いて捨てた。だから、四条を専属モデルにしたのもそういう他人を意に介さないからこそできた所業だ。けれど今は違う。ここまで四条に入れ込んでいる事実に、驚きと──ほんの少しの、安心感。
どういうことだろう。この、胸の奥にある安心感は。正体を掴もうとしても、するりと私の感性が抜けていく。その気持ち自体から避けているように、避けられているように。
四条からの返答はなかった。代わりに、またハグをされた。さっき私にやってきたときとは違って、ぎゅうと締め付けるような強い力で。だけど、心地よかった。その圧迫されている感じが、分厚い気持ちの表れみたいで。
私も、そっと腕を回した。
「……じゃあ」
ようやく、四条が口を開いた。子犬みたいに、小さく身体を縮めている。私よりもずっと大きいはずの彼女が、今は同じくらいに見えた。
「私のこと、名前で呼んで」
そんなことでいいのなら、と私は四条の身体に顔を埋めてから、言った。これで、四条が少しでも許されてくれるのなら。
「おやすみ、桜」
「うん……おやすみ、みのり」
□□□
「おはよー」
「「おはようございます……」」
翌朝、私と四条はすっかり寝不足のまま起床することになった。寝ぼけ眼をこすりながら、私たちよりずっと早く起きていた海羽先輩を見る。すっかり着替えも身支度も終わっているみたいだった。何なら、少しメイクもしている。どれだけ余裕があったんだ。今日は土曜日の朝八時なんだけど。まさか、平日と変わらない時間に起きてたりするのか?
「……夜ふかししたな?」
「してないです」
「表情が分かりづらいからって嘘が何でも通ると思うなよ」
バレた。
「秋原が嘘を吐くときはよく口角が落ちるんですよ」
「なんでそんなこと知ってるの……」
四条の観察眼は恐ろしい。警察にでもなったら、すぐに犯人を見つけられるんじゃないだろうか。私たちを大して気にもせず、海羽先輩はちゃっちゃと食事の用意を始めていた。お母さんと仲良さそうに談笑しながら、盛り付けている。チラと四条の方を見ると、視線が合った。
「……本当に、あんなのでよかったの?」
昨晩のこと、四条が「私を名前で呼んで」と言ったから。もちろん今日から呼ぶつもりだけど、本当にそんなことでよかったのか気になってしまった。もっと、なにかすごい要求をされても飲むつもりだったんだけど。
「いいのいいの、だって──海羽先輩だけってのは、ずるいからね」
そういって笑う彼女の演技こそ、ちょっとずるいんじゃないか──私は、視線をそらしながらそう思った。なぜ視線をそらしてしまったのかは、まだわからない。これから少しずつ、私は桜を知っていきたい。それが、きっと、私のためになるのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます