第9話 封鎖区の影
夜の街は、息を潜めていた。
昼間のざわめきも、車のエンジン音も消えた。
風だけが灰を運び、街灯の光を曇らせている。
封鎖区の北端――医療班のテントが立ち並ぶ区域の外れで、加賀美は街の様子を観察していた。
遠くの非常灯が、灰の靄を照らしてぼやけて見える。
その中心には、見覚えのある女の姿があった。
白衣に防護服を重ね、ヘルメットをかぶって指示を飛ばしている。
「……白石ユリ、か。」
彼女の声は、夜のざわめきを裂くように通る。
「酸素! まだボンベ残ってる? 感染者は触らないで、まずバリアを張って!」
的確な指示。迷いがない。
加賀美は思わず感心していた。
だが、その光景のすぐ向こう――灰色の靄がうねっていた。
まるで生き物のように動き、形を変えている。
人の形を模して、這い出してくる。
「……やっぱり出たか。暴走体。」
発生源は、封鎖区の中心だ。
灰が濃縮され、核を作っている。
通常の自然発生ではありえない――何者かが“灰”を動かしている。
加賀美はため息をつき、手袋をはめ直した。
(派手な魔法は使えない。人前だ。……バフと体術だけで行く。)
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医療班の若い看護師が、灰の動きに気づいた。
「先生! なにか……動いてます!」
ユリが振り返る。
靄が、人の形を保ったままゆっくりと立ち上がった。
その姿を見た瞬間、ユリの顔色が変わる。
「全員、後退! 酸素遮断、ブロワー最大出力!」
彼女の指示が飛び、風が巻き起こる。
しかし灰は止まらない。風に乗って、医療テントに近づいてくる。
加賀美はバリケードの影から飛び出した。
靴音ひとつ立てず、一直線に駆ける。
「――《身体強化・短》」
呟きと同時に、体が軽くなる。
人間にはただの息の音にしか聞こえない詠唱。
血流が速くなり、筋肉の反応が鋭くなる。
灰の腕が伸びる。
俺は地を滑るように潜り込み、肘を打ち上げる。
鈍い衝撃。
灰が崩れ、粒子が舞った。
手応えは肉ではなく、詰まった砂のようだ。
「硬いな……」
崩した灰はすぐに再生する。
体の中心に黒い塊――“核”が見える。
そこが奴の心臓だ。
灰の腕が再び振り下ろされる。
俺は間合いを詰め、足を軸にして体をひねる。
「っ――」
拳が核の外側に触れ、重い感触が伝わる。
核が一瞬揺らいだ。
「《圧点》。」
低く呟き、指先で一点を突く。
光も音も出ない。だが、内部の灰が沈黙した。
核が鈍く鳴り、崩れる。
体が砕け、地面に広がる。
だが終わらない。
砕けた灰が、再び寄り集まる。
核が分裂して再構成を始めていた。
(Lv3……自律型か。面倒なタイプだ。)
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医療班のブロワーがうなり、灰を押し戻す。
ユリが手際よく遮断シートを張る。
その間にも、灰の欠片がテントへ這い寄っていく。
「おい……そっちに行くな!」
俺は思わず声を上げ、再び走り出す。
路上の廃材を掴み取る。
鉄パイプ一本。
見た目はただのゴミだが、手に馴染む重さがある。
灰がテントに触れる瞬間、横から叩きつけた。
金属音と共に、灰が砕け散る。
振り返ったユリの目に、一瞬だけ俺の姿が映った。
「……誰!?」
その声に、近くの隊員が反応する。
「先生、あの人――」
ユリは即座に切り替えた。
「今は患者が先! あの人は後で確認します。記録係、今の映像と時間を押さえて!」
「了解!」
そう言い切ると、彼女はすぐ負傷者へ向き直った。指示の声が途切れない。混乱を広げないための選択だと、背中が語っていた。
灰の核が、再び動く。
黒い脈が地面を走り、俺の足元に到達した。
(やべぇな……感染媒介型だ。)
すぐに膝を上げ、灰を蹴り飛ばす。
霧のように散った。
呼吸を止め、喉を覆う。
灰を吸えば、死人でも反応が出る。
手首の護符が熱を持ち始めた。
呪いが共鳴している。
この灰――ただの自然発生じゃない。
強制的に“灰化”させられた魂の残滓だ。
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核が再び動き、俺を包もうとした。
テントの灯りが暗くなる。
灰が覆いかぶさる――瞬間、俺は低く息を吐いた。
「《瞬歩》。」
一歩。
距離が一瞬で消えた。
灰の渦の裏側へ抜け出し、鉄パイプの先で中心を突く。
鈍い感触。
核が砕ける。
周囲の灰が爆ぜるように舞い、風が逆巻いた。
静寂。
残ったのは、灰の山と小さな黒い欠片。
それを拾い上げ、瓶に封じる。
【感染核の灰(Lv3)を入手】
危険度:高 用途:呪詛分析・媒介封印(要設備)
アイテムボックスへ収める。
封印率が、またわずかに上がった。
【封印解除率:31% → 33%】
副次効果:身体強化(微)/理性干渉域 拡大
咳がこみ上げる。
灰の臭いが喉に張りついて、息が熱くなる。
護符が焼け落ち、皮膚に黒い痕が浮かぶ。
(……少し吸い込んだ。処置が要るな。)
アイテムボックスから小瓶を取り出し、喉に流し込む。
解呪液が冷たく喉を通る。
体の内側で、何かが軋む。
呪いの反応が弱まるのを感じた。
静かに息を吐く。
「……戦うほど、俺はまだ“生きたい”と思ってるのかもな。」
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医療テントでは、ユリがまだ現場を指揮していた。
患者の手を取り、声をかけ、誰も見捨てない。
その背中を見ながら、加賀美は思う。
(あの女医……やっぱり、ただの医者じゃねぇな。)
灰に触れても、恐れない。
普通の人間なら一歩引く場面で、前に出る。
その瞳には、迷いがなかった。
だが、彼女が見ているのはまだ表面だけだ。
この灰の奥にある“呪い”を知ったら――どう思うだろうか。
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封鎖区の奥から、再び風が吹いた。
灰が舞い上がり、夜空を曇らせる。
その風の中で、ユリが声を張り上げている。
「圧迫止血! 搬送ルート確保! ……その人、呼吸浅い!」
「記録係、さっきの人影は別経路で確認して。背丈百七十前後、マスク着用、鉄パイプ所持。危険性は不明、接触は保留。」
「了解!」
生者の声だ。
命を繋ごうとする声。
死人の俺には、届かない場所の響き。
だが、悪くない。
「……俺は影でいい。」
灰の中を歩きながら、加賀美はひとりごちる。
助けることに理由はいらない。
救えなかった命の数を、少しでも減らせるなら――
それでいい。
街の灯りが遠ざかる。
封鎖区の外れ、人気のない道。
加賀美は一度だけ振り返った。
医療テントの白い光の中に、ユリの背中が小さく見えた。
その姿を確かめ、踵を返す。
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夜風が、灰をさらっていく。
加賀美は静かにステータスを開いた。
【状態:死人(デッド・マギア)】
封印解除率:33%
副次効果:理性干渉域拡大/灰耐性(微)
警告:灰吸入による呪詛反応(軽)/経過観察
備考:共鳴対象(白石ユリ)感知域内に接触 心拍様反応(弱)
空を見上げる。星は見えない。
灰が降る空の下で、死人の賢者は静かに息をついた。
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