第8話「封鎖の夜」


 日が沈むと、街の空気が変わった。

 昼間のざわめきが嘘のように消え、代わりに重い静寂が満ちる。

 気温は下がっていないのに、肌寒さだけが増している。

 空気そのものが淀み始めていた。


「……瘴気の濃度、昨日の三倍か。」


 加賀美は、団地の屋上から街を見下ろした。

 霧のようなものが街灯の光をぼやかしている。

 風が止まり、空気が動かない。

 それは、世界が息を止める直前のようだった。



---


 市北部――駅前から続く一帯が封鎖されていた。

 黄色いテープとバリケード。

 警官と自衛隊員が並び、立入禁止区域の外では報道カメラが並んでいる。


> 『現在、市内で拡大する感染の影響で北部地域を立入禁止としています――』




 街頭モニターからニュースが流れ、

 通行人たちが立ち止まって不安そうに見上げていた。


「……“感染”って言葉を、ついに使ったか。」


 加賀美は小さく呟いた。

 通り魔、錯乱者、暴行事件――そんな言葉でごまかしていたニュースが、

 ついに「感染症」と報じ始めた。


 だが、真実は違う。

 これは病ではない。

 魔王の呪いの残滓――“灰病(はいびょう)”。

 瘴気が人間の魂を侵し、理性を奪う。

 現代の科学では治せない“死の呪い”だった。



---


 人通りの途絶えた通りを歩くと、

 鼻を突くような鉄臭さが漂った。

 血の匂い。しかも新しい。


 加賀美は足を止め、周囲を探る。

 微かな魔力反応。

 ポケットから指先ほどの水晶を取り出し、呟く。


「《ライフ・サイト》。」


 淡い光が広がり、視界に魔力の流れが浮かぶ。


魔力反応:中/非生者波動:1体(変異段階B)


「……いたな。」


 狭い路地裏。

 自動販売機の前で、男が膝をついていた。

 四十代ほど。

 首に噛み傷があり、皮膚が灰色に変色している。

 目は焦点を失い、体は小刻みに震えていた。


 発症から十二時間以内。

 まだ助けられる。


 加賀美は静かに歩み寄り、手をかざした。


「……間に合うはずだ。落ち着け。」


 呪文を唱える。

 「《スヌーズ》。」


 淡い光が男を包む。

 震えが止まり、濁っていた瞳に焦点が戻っていく。

 唇がかすかに動いた。


 「……た、すけ……て……」


 「もう大丈夫だ。理性は戻った。」


 加賀美は短く息を吐き、安堵しかけた。

 だが次の瞬間、男の体が大きく痙攣した。

 血管が浮き上がり、皮膚が裂ける。

 灰色の線が体の中を走り、口から黒い血がこぼれ落ちた。


 「……っ、まさか――」


 加賀美は歯を食いしばる。

 「理性は戻ったのに、肉体が持たねぇのか……!」


 男は苦しみながら、かすれた声を漏らした。

 「……ありがとう……」


 そのまま、崩れ落ちる。

 灰が体の表面に広がり、ゆっくりと形を失っていく。


 加賀美は手をかざし、静かに目を閉じた。

 「……すまない。苦しまないようにしてやる。」


 「《沈魂(レクイエム)》。」


 淡い光が男を包み、灰色の粒が風に散る。

 残ったのは靴と財布だけだった。


【感染核の灰(Lv1)を入手】

危険度:低 用途:呪詛分析・媒介封印


 加賀美は小瓶に灰を封じ、アイテムボックスへ収めた。

 次の瞬間、ステータスがわずかに変化する。


【封印解除率:29% → 31%】

副次効果:魔力伝達効率 上昇(微)


「戦うたびに、力が戻っていく……。

 皮肉なもんだな――死人の俺が、人を救うほど“生者”に近づくとは。」


 加賀美は小さく笑い、空を見上げた。

 その空には星一つなく、灰色の雲がゆっくりと流れていた。



---


 その時、遠くで爆発音がした。

 空気が震え、地面がかすかに揺れる。

 加賀美は反射的に魔力を探る。


【感知スキル:マナ・ディテクト】

新規反応:感染核の灰(Lv3)/位置:封鎖区北端

状態:暴走(臨界)


「Lv3……!? 進行が早すぎる。」


 通常の灰は自然発生してもLv1止まり。

 人為的に触れなければ、ここまで上がらない。


「……誰かが“灰”を扱ってるのか?」


 封鎖区の方角に、赤い閃光が走った。

 無線の音が風に乗って届く。


> 『北部封鎖線、異常発生! 灰が――灰が動いてる!』

『避難を――! うわぁっ!』




 ノイズが途切れ、沈黙。

 加賀美は顔をしかめる。

 「……やはり、誰かが利用してる。」


 灰は、素人が触れれば命を落とす。

 だが、理論を理解した者が使えば“兵器”にもなる。

 この世界に、そんな知識を持つ人間がいるとは――。



---


 加賀美は封鎖区の北側へ向かった。

 人通りのない道を進み、バリケードの影に身を潜める。

 周囲は静まり返っていた。

 ただ、風に乗って灰の粒が舞っている。


 遠くで、警察車両のライトが明滅している。

 救急隊の影が動く。

 そして、その中に――見覚えのある姿があった。


 白衣を羽織り、ヘルメットをかぶった女性。

 真っすぐな姿勢で現場指揮をとっている。

 白石ユリだった。


「……やっぱり、あの女医も現場に来てるのか。」


 加賀美は眉をひそめる。

 彼女の足元にも灰が降っている。

 それに気づかず、周囲の医師たちに指示を出していた。


(あの濃度じゃ……長く浴びれば、感染する。)


 助けるべきか、見捨てるべきか。

 死人の自分が、生者の世界に干渉していいのか。


 その逡巡の最中、再び地面が震えた。

 封鎖区の奥から、黒い霧のようなものが立ち上る。

 灰が渦を巻き、人の形を作り始めていた。


「……動いたな。完全暴走体か。」


 加賀美は静かに手をかざした。

 右掌に光が灯る。

 「《リジェネ・フィールド》展開。」


 柔らかな光が地面を走り、灰の霧を押し返す。

 その瞬間、暴走した“灰の塊”が彼の存在に反応し、

 獣のような咆哮を上げた。


「おいおい……人間をやめた奴の相手か。」


 加賀美は深く息を吸い込み、歩み出す。

 光の中へ、ゆっくりと。

 封鎖区の闇の中で、死人の賢者が再び戦場へ向かった。



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