第5話食卓の灯



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### **第五話 食卓の灯**


 泥だらけの夫が、無言で居間へ入っていく。

 畳が軋む音。汚れた靴下の湿り気が、い草に染み込んでいくのがわかる。

 私はハンカチで目元を押さえる振りをしながら、その背中を睨みつけた。

 この男は、一体どうするつもりなのだろう。泣き崩れる妻を慰めるでもなく、ただのっそりと食卓へ向かうなんて。


 夫の足が止まった。

 視線の先にあるのは、私が用意した夕餉(ゆうげ)だ。

 焦げたサンマ。茹で過ぎたほうれん草。そして、煮詰まった味噌汁。

 三人分。

 そう、三人分だ。


 夫の肩が、微かに震えた気がした。

 感動しているのだろうか。娘が死んだというのに、けなげにも三人分の食事を用意した妻の姿に。

 馬鹿馬鹿しい。

 ただの惰性だ。

 毎日毎日、判で押したように三人分作り続けてきた手癖が出ただけだ。あの子が死んだと聞いた後でも、私の手は勝手に大根をおろし、勝手に椀を三つ並べていた。それは悲しみではなく、主婦という名の呪いのようなものだ。


「……夕飯の支度、出来とるやないか」


 夫が呟いた。

 その声の平坦さに、私は眉をひそめた。

 何を言っているの?


「とりあえず、腹ごしらえや。それから風呂入って、それからや」


 私は、演技を忘れて素で夫の顔を見返した。

 正気か。

 娘が死んだという報告を受けた直後だぞ。それなのに、「腹ごしらえ」? 「風呂」?

 この男の神経は、腐った魚の内臓のようにどうかしている。


「ちょっと……ちょっと、あんた」

 口元が引きつるのを隠すように、私は声を震わせた。これは怒りだ。

「なにいっとんの……? あづさが……あの子が死んだ言うてるのに、こないな時にご飯なんて……! 喉通るわけないやろ!」


 私の剣幕に、夫は無表情のまま近づいてきた。

 ガシッ。

 太い指が、私の肩に食い込む。痛い。油の匂いと泥の臭いが、鼻先で混じり合う。


「なあ、和子」

 夫の瞳は、濁ったガラス玉のように光を失っていた。何を考えているのか読めない、不気味な瞳。


「よー聞けや。これからもっと、たいへんなことになるんやで」

 低い声。説教か。また、自分の理屈を押し付けるつもりか。

「警察行って、顔見て、葬式の段取りもせなあかん。……これから、メシも食えん、寝ることも出来ん夜が、なんぼも続くんや」


 夫は顎で食卓をしゃくった。

「せやから、今や。今だけでも、ちゃんと食うとくんや」


 ああ、そうですか。

 あんたはいつでもそうだ。もっともらしい理屈をつけて、結局は自分の腹を満たしたいだけなのだ。戦いだの、段取りだの、格好つけた言葉で飾っても、本性はただの食い意地の張った野獣だ。

 私は開いた口が塞がらなかった。

 ひゅう、と喉から間の抜けた空気が漏れる。

 反論する気力さえ失せた。この男と同じ土俵に立つこと自体が、汚らわしい。


 夫は私から手を離し、よろめくように自分の席へ座り込んだ。

 ドスン。座布団が重い音を立てる。

 彼は箸を手に取った。

 その所作は、まるで何かの儀式のように仰々しく、そして滑稽だった。


 皿の上では、私が焼きすぎたサンマが、干からびた黒い眼窩(がんか)を虚空に向けている。

 死んだ魚の目。夫の目と同じだ。

 夫は箸の先を揃えると、その魚の頭部へ狙いを定めた。


 グシャリ。


 鈍い音がした。

 夫が箸を突き立て、魚の頭をねじ切った音だ。

「ひっ」

 短い悲鳴が私の喉から漏れた。

 残酷。野蛮。

 夫は無表情のまま、砕けた魚の頭を皿の隅へ追いやる。ミシミシと小骨が砕ける音が、静まり返った居間に反響する。

 まるで、あづさの頭蓋骨を砕いているかのような、冒涜的な音だった。


 夫は、黒く焦げた身をむしり取り、大きく口を開けて放り込んだ。

 クチャ、クチャ、クチャ。

 湿った咀嚼音が、雨音に混じって私の耳を犯していく。

 私はその光景を、ただ立ち尽くしたまま、冷めた目で見下ろしていた。

 この家にはもう、まともな人間は私しかいないのだと、確信しながら。

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