第5話食卓の灯
***
### **第五話 食卓の灯**
泥だらけの夫が、無言で居間へ入っていく。
畳が軋む音。汚れた靴下の湿り気が、い草に染み込んでいくのがわかる。
私はハンカチで目元を押さえる振りをしながら、その背中を睨みつけた。
この男は、一体どうするつもりなのだろう。泣き崩れる妻を慰めるでもなく、ただのっそりと食卓へ向かうなんて。
夫の足が止まった。
視線の先にあるのは、私が用意した夕餉(ゆうげ)だ。
焦げたサンマ。茹で過ぎたほうれん草。そして、煮詰まった味噌汁。
三人分。
そう、三人分だ。
夫の肩が、微かに震えた気がした。
感動しているのだろうか。娘が死んだというのに、けなげにも三人分の食事を用意した妻の姿に。
馬鹿馬鹿しい。
ただの惰性だ。
毎日毎日、判で押したように三人分作り続けてきた手癖が出ただけだ。あの子が死んだと聞いた後でも、私の手は勝手に大根をおろし、勝手に椀を三つ並べていた。それは悲しみではなく、主婦という名の呪いのようなものだ。
「……夕飯の支度、出来とるやないか」
夫が呟いた。
その声の平坦さに、私は眉をひそめた。
何を言っているの?
「とりあえず、腹ごしらえや。それから風呂入って、それからや」
私は、演技を忘れて素で夫の顔を見返した。
正気か。
娘が死んだという報告を受けた直後だぞ。それなのに、「腹ごしらえ」? 「風呂」?
この男の神経は、腐った魚の内臓のようにどうかしている。
「ちょっと……ちょっと、あんた」
口元が引きつるのを隠すように、私は声を震わせた。これは怒りだ。
「なにいっとんの……? あづさが……あの子が死んだ言うてるのに、こないな時にご飯なんて……! 喉通るわけないやろ!」
私の剣幕に、夫は無表情のまま近づいてきた。
ガシッ。
太い指が、私の肩に食い込む。痛い。油の匂いと泥の臭いが、鼻先で混じり合う。
「なあ、和子」
夫の瞳は、濁ったガラス玉のように光を失っていた。何を考えているのか読めない、不気味な瞳。
「よー聞けや。これからもっと、たいへんなことになるんやで」
低い声。説教か。また、自分の理屈を押し付けるつもりか。
「警察行って、顔見て、葬式の段取りもせなあかん。……これから、メシも食えん、寝ることも出来ん夜が、なんぼも続くんや」
夫は顎で食卓をしゃくった。
「せやから、今や。今だけでも、ちゃんと食うとくんや」
ああ、そうですか。
あんたはいつでもそうだ。もっともらしい理屈をつけて、結局は自分の腹を満たしたいだけなのだ。戦いだの、段取りだの、格好つけた言葉で飾っても、本性はただの食い意地の張った野獣だ。
私は開いた口が塞がらなかった。
ひゅう、と喉から間の抜けた空気が漏れる。
反論する気力さえ失せた。この男と同じ土俵に立つこと自体が、汚らわしい。
夫は私から手を離し、よろめくように自分の席へ座り込んだ。
ドスン。座布団が重い音を立てる。
彼は箸を手に取った。
その所作は、まるで何かの儀式のように仰々しく、そして滑稽だった。
皿の上では、私が焼きすぎたサンマが、干からびた黒い眼窩(がんか)を虚空に向けている。
死んだ魚の目。夫の目と同じだ。
夫は箸の先を揃えると、その魚の頭部へ狙いを定めた。
グシャリ。
鈍い音がした。
夫が箸を突き立て、魚の頭をねじ切った音だ。
「ひっ」
短い悲鳴が私の喉から漏れた。
残酷。野蛮。
夫は無表情のまま、砕けた魚の頭を皿の隅へ追いやる。ミシミシと小骨が砕ける音が、静まり返った居間に反響する。
まるで、あづさの頭蓋骨を砕いているかのような、冒涜的な音だった。
夫は、黒く焦げた身をむしり取り、大きく口を開けて放り込んだ。
クチャ、クチャ、クチャ。
湿った咀嚼音が、雨音に混じって私の耳を犯していく。
私はその光景を、ただ立ち尽くしたまま、冷めた目で見下ろしていた。
この家にはもう、まともな人間は私しかいないのだと、確信しながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます