第12話「不吉な影」

 辺境での穏やかな日々は、僕が今まで望んでも得られなかったものだった。

 カイル様とレギウスと共に過ごす時間は、孤独だった僕の心をゆっくりと癒していく。

 しかし、その平穏は、ある日突然破られることになった。

 その日、カイル様は朝から険しい顔をしていた。

 城の騎士たちが慌ただしく出入りし、城内にはピリピリとした緊張感が漂っている。

「カイル様、何かあったのですか?」

 朝食の席で、僕は思い切って尋ねてみた。

 彼は一瞬、僕に話すべきか迷うような素振りを見せたが、やがて重々しく口を開いた。

「…魔の森の様子がおかしい。最近、凶暴化した魔物が増えている」

「凶暴化…ですか?」

「ああ。通常の個体よりも遥かに強力で、知性すら感じさせる。何者かが、森の奥で魔物を操っている可能性がある」

 その言葉に、僕は背筋が寒くなるのを感じた。

 追放される時、護送馬車を襲ってきたゴブリンウルフたち。彼らも、ただの魔物ではなかったのかもしれない。

「調査のため、今日から数日、森の深部へ入る。城のことは副団長に任せてある。お前は決して城から出るな。いいな」

 念を押すように言うカイル様の赤い瞳は、いつになく真剣だった。

「はい。お気をつけて…」

 僕にできるのは、彼の無事を祈ることだけだった。

 カイル様はレギウスに跨り、数人の精鋭騎士を連れて、森の奥深くへと飛び立っていった。

 彼のいない城は、しんと静まり返っていて、どこか心細い。

 僕は図書室で本を読んで気を紛らわそうとしたが、どうしても内容が頭に入ってこなかった。

 窓の外に広がる、暗く鬱蒼とした魔の森。

 あの闇の向こうで、今、カイル様は戦っている。

 どうか、ご無事でありますように。

 何度も、何度も、心の中で繰り返した。

 カイル様が出発してから、三日が経った。

 城内の緊張は日増しに高まっている。森へ偵察に出た騎士が、何人か傷を負って帰還したという話も耳にした。

 僕の不安も、限界に達しようとしていた。

 そして、四日目の夕暮れ時。

 ついに、カイル様たちが帰還した。

 城門に駆けつけると、そこにいたのは満身創痍の騎士たちだった。皆、疲労困憊の表情を浮かべている。

 そして、その中に、カイル様の姿はあった。

 彼自身に目立った怪我はなさそうだったが、その表情は今まで見たことがないほどに厳しく、そして暗い。

 だが、僕が息を呑んだのは、彼の隣にいるレギウスの姿だった。

「レギウス…!」

 黒竜の巨大な体のあちこちに、おびただしい数の傷があった。特に、右の前脚と翼の付け根の傷は深く、夥しい量の血が流れ落ちている。

 彼は苦しげに息をし、立っているのがやっとという様子だった。

「レギウス!しっかりしろ!」

 カイル様が必死に呼びかけるが、レギウスの黄金の瞳は虚ろで、力なく閉じられようとしている。

「伯爵様!このままでは…!」

「治癒魔法師を呼べ!今すぐにだ!」

 騎士たちの怒声が飛び交う。

 すぐに城の治癒魔法師たちが駆けつけ、レギウスに治癒魔法をかけ始めた。しかし、彼らの魔法の光はレギウスの深い傷の前ではあまりにも弱々しく、傷口は一向に塞がろうとしない。

「だめだ…傷が深すぎる。我々の力では…!」

 魔法師の一人が、絶望的な声を上げた。

 その言葉に、周りの誰もが顔を曇らせる。

 カイル様は血の気の失せた顔で、相棒の体を撫で続けていた。その手が小さく震えているのを、僕は見た。

『そんな…レギウスが、死んでしまうなんて…』

 信じたくなかった。

 僕に懐いてくれた、優しくて誇り高い竜。

 カイル様にとって、何よりも大切な相棒。

 彼が、いなくなってしまうなんて。

『嫌だ…!』

 強い衝動に駆られ、僕は人垣をかき分けてレギウスのそばへと駆け寄った。

「リアム様、危ない!」

 誰かが制止する声が聞こえたが、僕の耳には届かなかった。

 僕は、瀕死のレギウスの、血に濡れた体にそっと触れた。

 温かい。まだ、生きている。

 助けたい。

 ただ、その一心だった。

 あの日、小鳥を助けた時のように。

 僕は無我夢中で、心の中で強く、強く願った。

 ――レギウス、死なないで。

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