第9話「溶け始めた心の氷」
カイル様の城での生活は、驚くほど穏やかだった。
あれから毎日、彼は僕の部屋に顔を出し、短い言葉を交わしていく。
そのぶっきらぼうな態度は相変わらずだったけれど、僕はもう彼が怖いとは思わなくなっていた。むしろ、その無骨な優しさが心地よく感じられるようになっていた。
体調が回復してきたのを見て、カイル様は僕が部屋から出て城の中を散策することを許してくれた。
「ただし、俺の許可なく城の外へは出るな」
その言葉だけは、有無を言わせぬ厳しい響きを帯びていた。
初めて城の中を歩いてみて、僕はその広さと質実剛健な美しさに目を見張った。磨き上げられた石の床、壁に飾られた武具や紋章。すべてが、ヴァルトシュタイン家の長い歴史を物語っているようだった。
城で働く人々は、皆、口数が少なく真面目そうな人ばかりだった。彼らは僕を見ると、少し戸惑ったような顔をしながらも丁寧にお辞儀をしてくれる。カイル様が、僕のことを客人として扱うように命じているのだろう。
僕が一番気に入った場所は、城の最上階にある図書室だった。
壁一面に天井まで届く本棚がずらりと並び、古書の持つ独特の匂いが部屋を満たしている。公爵家の書斎とは比べ物にならない蔵書の数に、僕は心を躍らせた。
本を読んでいる間は、自分の境遇や未来への不安を忘れられた。物語の世界に没頭していると、あっという間に時間が過ぎていく。
そんなある日、図書室で本を読んでいると、不意に背後から声をかけられた。
「…面白いか」
振り向くと、いつの間に来たのか、カイル様が立っていた。
「カイル様!い、いつからそこに…」
驚いて立ち上がると、彼は「今来たところだ」と短く答えた。
彼は僕が読んでいた本に目をやる。それは、古代の竜についての研究書だった。
「竜に興味があるのか」
「は、はい。とても神秘的で、美しい生き物だと思うので」
僕は、彼が黒竜に乗って現れた時のことを思い出していた。あの荘厳な姿は、今も目に焼き付いている。
「…そうか」
カイル様はそれだけ言うと、僕の隣の椅子にどかりと腰を下ろした。
そして彼も近くにあった本を手に取り、静かにページをめくり始める。
奇妙な沈黙が流れた。
でも、それは気まずいものではなかった。
ただ同じ空間で、同じ時間を共有している。そのことが、不思議と僕の心を安らがせた。
家族と、こんなふうに穏やかな時間を過ごしたことなど一度もなかったから。
しばらくして、僕が読んでいた本のページに、ある花の挿絵を見つけた。それは、僕の部屋に飾られていた月光花だった。
「あっ…」
思わず、小さな声を上げる。
カイル様が、僕の方に視線を向けた。
「どうした」
「いえ、この花…僕の部屋に飾ってくださった花と同じだと思って」
僕が指さした挿絵を見て、カイル様は少しだけ眉を動かした。
「月光花か。…昔、母が好んでいた花だ」
「そうだったのですか…」
「温室で放っておかれていただけだ。お前が喜ぶなら、ちょうどよかった」
ぶっきらぼうな言い方。でも、その言葉の裏にある優しさが、僕にはちゃんと分かった。
彼は、僕が喜ぶ顔を思い浮かべて、あの花を摘んできてくれたのだ。
胸の奥が、また、じんわりと温かくなる。
「ありがとうございます、カイル様。とても、嬉しいです」
素直な気持ちを伝えると、彼はまた、ふい、と顔を背けた。
「…礼を言うな」
その横顔が、少しだけ照れているように見えて。
僕は、思わず小さく微笑んでいた。
この城に来てから、僕は初めて心から笑えたのかもしれない。
カイル・ヴァルトシュタイン。
氷のように冷たいと噂される彼は、本当はとても温かい心を持った人なのだ。
その温もりに触れるたび、僕の中で固く凍りついていた何かが、少しずつ、少しずつ溶けていくのを感じていた。
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