脳裏清掃員

Gmy

序章 白の世界

完全な静謐せいひつと、見渡すかぎり――ただ永遠と”白”だけが続く世界。



混濁した意識はぼんやりと視界を霞ませ、覚めきらぬ思考のままに『今回の依頼も大変そうだなぁ…』と、ため息をこぼす。


白の世界にいるのは私――鹿野真衣しかのまいと、少し離れた所で膝を抱えたようにうずくまったはかなげな男の子。


依頼主の息子だ。



<ーー…ちゃん。……ねえちゃん?あ、あ~テステス。ねえちゃん聞こえる?>



ぼやけた頭の中で、声変わり前の少しガサツそうな少年の声が響き渡る。

同時に少しずつ、霞んだ視界も晴れていった。


<ーーアキラ。接続は良好。依頼対象のバイタルはどう?>


<ーーお、繋がった。脳波シグナルに異常はないよ。安定はしてるけど、逆に情報も全っ然なぁ~い。>



真面目さの欠片すらも感じられない、間延びした語尾。

緊張感の無いその反応に、多少”イラッ”とする――が、言い出し始めたらキリがない。苦心してほこを収める。



<ーーじいちゃんの診断通り、珍しいけど小児期発症しょうきはっしょうの統合失調症なのかなぁ。自分の殻に閉じこもってるって感じ。こっちから現状得られそうな情報は全くないね~。そっちは?>



予想はしていたが、これほど男の子に関する”情報”が少ないとは…

暗澹あんたんたる気持ちは簡単に形となり、深い吐息として漏れ出てゆく。



<ーーはぁ…。こっちもダメね。見渡す限り真っ白。結構重度な統合失調症と見ていいかもね。>


<ーーえ?まぁじかよぉ…んまぁ、いいや。なら依頼人のおばさんに聞いてみるね>



頭の中に居座っていた気配が、段々と遠ざかっていくのを感じる。


アキラが依頼主のに、”情報”を聞きに行ったのだろう。

そんな姿を冷えた目で私は見送る。心の中に『――後で、クソガキには再教育』というメモを添えて。



「さて…と」



伸びをしながら声を出すことで、気持ちを入れ替えていく。

――ここからは、仕事の時間だ。



ゆっくりと、私は白の世界を歩き出す。

静寂が支配した水面みなもには、雨粒の落ちるが如く――靴底の下からゆるやかに、白い波紋が拡がってゆく。


だが、その動きに音が付いてくることはない。

無音と秩序の世界には浅い呼吸音だけが異質に取り残され、まるで切り取られた写実のように浮いた存在感を強調する。


そんな幻想的かつ神秘的な光景にも、私の心が揺れ動くことは一切無い。

数少ない貴重な”情報”を得るため、ただ依頼対象にのみ意識を向け続ける。



(…動きだした)



距離が縮まるにつれて、蹲っていた男の子もこちらに気付いたようだ。


立ち上がると、背丈は大体胸の辺り。十歳くらいだろうか。

その表情は少しの不安に彩られ、あまり歓迎されていないことが分かる。


だが、それも仕方のないことだろう。

『知らない人が自分を見ている』と気づけば、誰だって多少の警戒はするはずだ。


とはいえ――それが現状、であるのも、また事実。



「おねえちゃん。だれえ?」



あどけない無邪気な声と小首を傾げる仕草しぐさ


純粋無垢じゅんすいむくな反応に思わずショタコン全開に抱き寄せたくもなったが――違和感。



――このくらいの子がする仕草にしては、幼すぎやしないだろうか?



(どうしたものかな…)



現状を整理すると、情報は皆無。重度の統合失調症に少しの警戒心。そして恐らくは知能指数の幼児退行。


今の状況を例えるなら文字通り、”暗中模索あんちゅうもさく”といったところか。まったく、頭の痛いことだ。


警戒心を解くためにも、まずはファーストコンタクト第一印象が最重要だ。

ここで信用を失ってしまうのは避けたい。失敗すればあらゆる手段をもって、から排除せんと動き出すことだろう。



(はぁ…辛子饅頭食べたいなぁ…)



現状を分析する程、状況の悪さに気持ちは萎えてゆく。


だが、こちらにもこういった場合の秘策は用意してあるのだ。


心に一瞬浮かび上がった、は握り潰す。

今はそれ以上に、相手の警戒心を解くことが急務なのだから。



(がんばれ私…演技も仕事のうちだぞ!)



緊張を解すように浅く息を吐き、もう一度吸い込む。

そしてぐっと身体全体へ力を循環させていき――



「やぁやぁはじめまして!おねえちゃんはねぇ~、君と遊びにきた妖精さんだよん☆」



――まるで晩秋に吹き抜けるような空風が、二人の間を通り過ぎていった。



(ふぅ……さてさて、やっちまいましたな……)



私は目を閉じ、諦観混じりの笑みを浮かべる。

いや、一応予定通りではある。

だが勢いのままに、”横向き猫ちゃんポーズ”までキメてしまったのは、どう考えても恥の上乗せだった。


でも、まずは聞いて欲しい。これは必要なことだったのだ。

この世界の主人公は彼――つまり『反応が幼すぎる男の子』である。


彼の信頼を得るためには、”このやり方”が一番簡単だったのだ。

そのためならばこの程度の羞恥心しゅうちしん、グッと握りつぶしてしまおうじゃないか。



(……いや、でも流石に反応無しは結構キツいかも)



固まった猫ちゃんポーズから抜け出すきっかけが掴めず、私の胸中は早くも後悔に陣取られてしまった。

だが、その後ようやく見られた男の子の反応を機に、取って代わった喜色は限界突破していく。



「うわぁ!!ようせいさんだ!なにしてあそぶのぉ?」


(……フフッ――ほぅら見なさい!こうなることは、最初から分かってたのよ!)



羞恥心からバトンタッチした自尊心が胸をくすぐり始め、きらめくようなガッツポーズが炸裂した。



(…ンンッ)



――――――――――



軽く咳払いをすることで気持ちを入れ替え、今後の展開を予想する。



まずは症状の重さからだ。

相手の反応から見ても、相当な幼児退行は確定だろう。


問題はそうなってしまった原因が何なのか――全く分からないということ。

今後の受け答えを見て、より重症そうであればアプローチの仕方を変える必要がある。



「そうだねぇ~。まずは君が普段どんな遊びをしてるのか、教えてくれるかな?」


「うん、いいよ!かけっこに~、かくれんぼでしょ?それから――」



――彼が言葉を発するたび、白が支配した世界には”色彩”が芽生え始める。

やがてその色彩は形を成していき、彼の心象風景しんしょうふうけいとして、白のスクリーンへと映し出されていった。


学校、砂場、街灯に照らされた公園、両親の顔、暖かそうな料理、ヴァイオリン。

――そして、顔元が黒く塗りつぶされたような子供たち。


泡沫うたかたのように消えゆく心象は、一部が残滓として漂流し――次第にの背景として染みつく。



(残ったのは学校、料理、ヴァイオリンか。)



おそらく、彼の心象に深く根差したものなのだろう。

それが良い方向なのか、悪い方向なのかは定かではないが。


泡沫のように出続ける彼の心象をぼんやり眺めていると、空席だった頭の片隅に"気配"が戻ってきた。



<ーーねえちゃんお待たせ~。おばさんからこの子について色々聞いてきたよ。>


<ーーアキラ、いいタイミングね。今ちょうど、依頼対象と接触したところ。>


<ーーお?ほんとだ。依頼対象の覚醒レベルが上がってるじゃん。ねえちゃん何したの?>



――絶対に、コイツにだけはさっきの秘奥黒歴史を言ってはならない。


「ねえちゃんねえちゃん」言いながら、三ヵ月はうざったく付きまとうオチが目に見えている。


先ほどの”恥ずかしい姿”を客観視してしまった私は、胸の奥がチリチリと疼き始めていた。

頬が、耳が、身体が熱を抱え込み、次第にそれは大きな波浪となって打ち寄せ、火照る顔が理性と共に爆発してゆき――



「うっさいわね!そんなのどうでもいいでしょ!?」



――思わず、羞恥を振り払うかのように声を荒げてしまった。


そしてそれは当然、目の前の男の子からも見られているわけで……

思いっきり地団太を踏み込んだところで丁度、呆気あっけにとられたような少年の顔と目が合った。



「・・・。」


「おねえちゃん。どうかしちゃったの?」


(や…やっちゃったぁ!!)



覆水、もはや盆に返らず。


沸騰した頭は思考の舵を有らぬ方向へと取り、『ここまで来たら恥には恥で、やらぬ後悔よりやる後悔か』などというトチ狂った考えすらもよぎっていく。


もはや正常な思考力など、欠片ほども残ってなどいない。

そう――今ここにアキラ煽り名人がいることなど、私の頭からはすっぽり抜けてしまっていたのだった。



「あ…あはははぁ…今、おねえちゃんはねぇ?君が楽しくなるおまじないをかけたんだよぉ~…」


<ーー何言ってんだねえちゃん。>



そんな心ない愚弟カスの言葉によって、私は満面なる笑顔のままくっきりと額に青筋を浮かべた。



(……アハハッ。そうかそうかぁ。奴ぁどうしても死にたいらしいなぁ。)



なんだか、怒りによって心の声に乱れが生じてしまった気もする。

だが、もはやそんなことすらどうでもいい――望むならば戦争である。



<ーーあんた。次仕事と関係ないこと抜かすようなら朝食1週間は抜くからね。>


<ーーはぁ?元々はねえちゃんが変に怒ってきたからじゃんか!>


<ーーはい1週間抜き~。>


<ーーんだよ!ズリィよそんなの!絶対じいちゃんに言いつけてやる……>



孫子も裸足で逃げ出すような権謀術数けんぼうじゅっすうを前に、はみるみるうちに士気を下げていく。

尻すぼみに消えゆく語尾、ふて腐れ始めて静かになった天守閣――私は勝利を確信した。

脳内では城に見立てたアキラの脳天めがけ、力いっぱいの征服旗を振り突き立てる。


姉に勝てる弟など存在しない。これは世の理なのだ。それを反逆すはどんな末路を辿るか――ヤツはよく思い知ったことだろう。

私は胸の内で高らかに、傲然と笑い声を響かせてやった。



しばらくは、そんな勝利の美酒に酔いしれたいところではあったのだが――視線を戻せば、反応のない私に飽きてきたのか、男の子が指遊びを始めたようだった。


この時間的猶予は、タイミングとしてもちょうど良い。

尾を引く”余韻”は早々に切り上げ、アキラが入手した情報を擦り合わせることにする。



<ーー冗談よ。それで?依頼主から聞いた情報は?こっちは学校と料理、それにヴァイオリンが心象に強く映ってる。>


<ーー…家の中では活発で聞き分けのいい子だったってさ。習い事にも積極的で先生からも良く褒められてたって。>



少しばかり、先ほどの”ふて腐れ”が残っているのか――ボソボソっと頬をむくれさせたようなアキラの声。

そんな可愛らしい弟の姿を幻視した私は、”余韻いたずら心”がちょっとだけ刺激される。



<ーーあら。あんたよりよっぽど優秀そうな子ね?>


<ーーねえちゃん。さっき仕事と関係ない話しはするなとか言ってなかった?>


(おっとぉ…これはこれは珍しくも的確なご指摘)



少しばかり驚きを胸にした私は、続く言葉に詰まる。

しかたない。ここは降参の意も込めて、しっかり謝罪するとしよう。



<ーーはいはい悪かったわ。ごめんなさいね~。それで?>



もちろん。素直に全面謝罪などはするはずもない。



(…え?何故って?そりゃあねだから。)



それに対し、アキラは小さな声で「そんなんだからモテないんだよ」と迎撃ミサイルを撃ってきた。

だが、そんな小癪こしゃくな発言にも、私は琵琶湖よりも広い心で受け流してみせる。


大人である”おねえちゃん”にとっては、子供じみた言い争いなど児戯にも及ばない。故にノーダメージなのだ。決して図星で返す言葉を失ったわけではない。それを肝に銘じておくように。



<ーー後は最近よく行ってた公園にも出なくなって、家にいることが多くなったってさ。学校で仲良かった子とも、あんまり遊びいかなくなった~って言ってた。>


<ーー上出来よ。ありがとね>



しょうがないので、謝罪の代替として褒めてやることにした。



(まぁ、実際?現状欲しい情報は簡潔に集めてくれていたし。)



まったく、手のかかる弟だと呆れながらも――冷静な脳の片隅では、今得た情報の整理を開始する。


問題はここからだ。

アキラが集めてくれた情報は結局、”依頼主の主観”でしかない。

男の子が実際、どんな”本音”を現状に対して抱いていたのか。


――それらはまた、別の話になるのだから。



――――――――――



アキラとのやり取りをしている間、心象には公園の砂場が新たに現れていた。

どうやら男の子は、そこでお城を作り始めたようだ。


砂場に足を踏み入れると、しっかりとした砂の感触が靴底から伝わり、続けて”シャクッ”という砂を踏みしめる音も聞こえてくる。



(学校や友好関係については曖昧。家庭環境は良好そう。であれば――)


「――すごいねぇ~綺麗なお城作ったね!」


「えっへへぇ。そうでしょ!りっくんとよくこのこうえんでつくってたんだ!さいきんは…あんまりあそべてないけど…」



白の世界が少し暗くなり、どんよりとした重圧プレッシャーのようなものが肩に圧し掛かる。

心象に変化が生じた影響だ。あまりいい影響とは言えない。


幸先の悪い滑り出しに、思わず舌打ちが出そうになる。


だが、本人の口から友人関係の話が出た――ということは、”大きな地雷”ではないのだろうか。



(…いや、それはまだ決めつけが過ぎる。)



空転する思考は一旦後に回し、ひとまず無難そうな選択肢から切り出してみる。



「そっか。そういえばそろそろお腹が空いてきたんじゃない?お母さんがお夕飯作ってるって言ってたし、そろそろ帰ろっか?」



――私の言葉と共に砂場は消え失せ、舞台が廻る。



”白の世界”は急速に変化を始め、一つの部屋が私達を囲うように形作られていく。


普遍的な家電製品類、木製のテーブルと四つの椅子。

そして、少し奥まったところには台所付きのキッチン。


その部屋に、私は見覚えがある。依頼主の家にあったリビングだ。

気づけば私達は揃って食卓に着いており、目の前には美味しそうな匂いを放つカレーが用意されていた。



「おかあさんのカレーだ!いただきまぁす!」



目の前のカレーを、男の子は美味しそうに食べ始めた。

すると心象全体には、先ほどまで感じられなかった確かな温度が生まれ始める。それは日向の暖かさに包まれるような、安心感を覚える暖かさだった。



<ーー脳波シグナルの変化を確認したよ!オレキシン覚醒物質が増えてるっぽい。>



私の目の前にも、男の子と同じカレーが用意されている――これもいい傾向だ。


確かに、この世界で私がカレーを食べたところで、何の意味もありはしない。

しかし、『私にも用意してくれた』という事実は、男の子の心象に認められ始めている証拠でもある。


後は少しずつ、彼の現実への意欲を高めていけばいい。



「カレーが好きなんだね。おかあさんが作ってくれたの?」


「うん!おかあさんのおりょうりはすっごくおいしいんだ!ぼくいっつもたのしみにしてるの!」



男の子の発言と”心象の動き”は一致している。

家庭環境はアキラが調べた通り、悪くないところだったのだろう。


だが、それだけでは完全な覚醒には繋がっていない。と、いうことは――



(――学校か、ヴァイオリンか)



それが男の子にとっての地雷か、はたまた覚醒を押しとどめている原因となったシコリか。


全く関係ない心象の可能性も当然ある。

だが、心象に強く映し出されていた以上、男の子にとってがあることは間違いない。



シコリであれば問題はない。

対話の余地があれば、彼の悩みなどを聞き出し、丁寧にメンタルケアをしてあげることで現実へと戻る意欲にも繋がるのだから。


だが、地雷だった場合――”拒絶”にしかならない。


そして拒絶される。ということは、から排除されることに他ならない。



(仲の良い友達。公園遊びの減少。そして心象には顔元が黒く塗りつぶされた子供たちか…)



心象に見られる風景や匂い、音などは基本的に、心象本人の感じ方がそのまま反映される。


ただ、それが相手の顔を見るのが苦手。といった直接的なものなのか。

それとも顔を覚えるのが苦手。といった記憶的なものなのか。

嫌な事があった影響で、顔が塗りつぶされているのか。


それを推し量るのに、心象を見ただけで判断するのは極めて難しい。


対して”ヴァイオリン”に関しては、心象に強く映し出されているにも関わらず、それに関連するような泡沫の心象が出てきてはいない。



(…情報が足りなすぎる。)



私は宛てのない思考の海へと投げ出され、ゆっくりと舟を漕ぎ始めていた。

すると一瞬。さざ波のようなノイズが、この閉じられた世界に掠めていくのを感じ――沈殿した思考を切り替えることにした。



(時間は限られてる。あとは妄想で関連性を補完するしかないか…)



『家にいることが多くなる』ことと、『友達との遊びが少なくなる』こと。

これら二つは一見すると、関連性がないように思える。


だが、そこに『友達と仲が悪くなった』という仮定をしてみよう。

家庭環境の良さは既に、ある程度の”証明”ができている。

男の子にとって『家の中は安全』という認知バイアス心の偏りが作られていてもおかしくはない。

また、黒塗りになった子供達についても――『仲が悪くなった』という仮定の時点で十分説明がつくだろう。


一方で、『ヴァイオリンの習い事が忙しい』という仮定もしてみる。

習い事が忙しい――ということは、友達の遊びを断ることが多くなったのかもしれない。それは次第に、”罪悪感”を育てていくことだろう。

友達に顔を合わせるのが徐々に億劫となり、家から出なくなってしまってもおかしくはない。

学校でも友達の顔を直視できなくなり、”顔元が黒い子供達”という心象が残ってしまった――なんて想像も、またできてしまう。



(結局は堂々巡り…家庭環境は良好。習い事にも前向き――依頼主の主観を信じるしかないか…)



カチャン。という金属製スプーンの音に合わせて、私の思考は終わりを迎える。


――そろそろ、次の手を決めなければならない。



――――――――――



「ごちそうさまでした!おねえさんはたべないの?」


「うん。ありがとね。私は妖精さんだから、食べれないんだよ~」



男の子は食器を丁寧に揃えながら「ふ~ん。そうなんだ」と、軽く返答する。

飛ぶように椅子から下りると、そのまま鼻唄交じりのご機嫌な様子で食器を運んでいった。

流し台へと向かっているようだ。


依頼主が言う通り、普段から聞き分けの良い子なのだろう。

その動作は日常に溶け込んでおり、特別意識してやった行動のようには思えない。


――ある程度、”依頼主の主観”は信じる事ができそうだ。



(頼むわよ…うまくいって!)



緊張は柔和な笑みの裏に隠し、次なる一手に覚悟を決めた。



「そういえば、君のおかあさんから習い事をしてるって聞いたよ。ヴァイオリンをやってるんだってね!おねえさんも一曲、聞いてみたいなぁ」



言葉を口にした瞬間、緊張で乾いた喉は声を縛り付けるかのようだった。

張り詰めた声は私の意図に反し、硬質な音となって部屋中に反響する。


一瞬の静寂。


だが息を呑む間もなく――皿が割れる音と、金属製スプーンが跳ねる甲高い音が、世界の中心を引き裂いた。



突然の狂音。私は思わず目を見開く。

するとそこには、落とした食器の前で茫然と立ち竦んだ男の子。


影の差した横顔からは全ての表情が抜け落ち、目の前の虚空をただじっと見つめていた。



「ヴァイオ…リン?…」



男の子が乾いた機械音声のような声を漏らすと――糸が切れたように崩れ落ちてゆく。

喉は桎梏しっこくのようにきつく押さえられ、声にならない悲痛な絶叫が空間全てを埋め尽くしてしまう。


と同時に――リビングがぐにゃりと歪んだ。

床が沈む。空気が波打つ。息を吸うたび、世界が内側から裏返っていく。

私と男の子の間が音もなく、引き裂かれていく。

部屋は形を一気に失ってゆき、もはや立っているだけでも方向感覚が狂いそうだった。



――ほんの数瞬の出来事。

耳鳴りのような静寂だけが残り、気づけば男の子の姿は完全に消えていた。



<ーーねえちゃん!まずい!脳波シグナルがめちゃくちゃになって…>


「分かってる!クソッ、しくじった!心象が襲ってくる!多分”音”!それとなんでもいいから武器!」



脳内で返答するのもわずらわしく、私は声を荒げる。


頭の中の気配は「分かった!」と短く言葉を切り、カタカタとした打鍵音だけを通信へ返すようになった。


その間にも、不定形となった空間は目まぐるしく変化する。

遠近の感覚は一気に失われ、天地すらも反転していく。


次第に一連の動きが緩やかになり、収束した――かと思えば息つく間もなく、部屋の一点がガラスのように音を立て、ひび割れだした。


その罅は段々と大きくなっていき、まるで内側から何かが溢れ出さんばかりに膨れ上がっていく。

そしてついに、耐えきれなくなった空間の罅ははじけるように砕け――痕には深淵の漆黒を彷彿とさせる”黒い裂け目”を残していった。



――じとっとした嫌な汗が、額を流れ落ちる。


私は腰を落とした耐波体勢を取りながら、慎重にを待ち構えていた。

焦れるような一瞬の時間が経過したころ、漆黒の裂け目からはゆっくりと、何かの影が見え始めた。



――それは、顔が幾何学きかがく的な図形のようになった。人型の化け物だった。



人型の化け物は、まるで劇場のオープニングを飾るかのように優雅な一礼を見せる。

気品すらも感じさせる、見事な所作。

見惚れる程の流れる動きは、そのまま指先のヴァイオリンへと移る。狂奏の開幕は既に目の前へと迫り――



「アキラ!!早…」



――言い終わる間もなく、その弦は音を鳴らした。


それは、負の感情がそのまま濁流と化したかのように熾烈な不協和音。


優雅な動きと相反するかのように、演奏という名の絶叫を世界に轟かせる。


聞くに堪えない狂奏は物理的な破壊力すら持って空間に爪痕を残し、私は咄嗟に両手で耳を塞ぐ。

だが、濁流は手指の隙間から簡単に耳へと入り込み――その破壊力は、三半規管を容赦なくバットで殴りつけるかのようだった。


濁流はそのまま全身へと駆け巡り、耐えきれなくなった毛細血管が悲鳴を上げながら破裂していった。



「や…ば、こ、れ…!」



想像を絶する痛みに、私は嗚咽おえつを漏らしながら崩れ落ちる。


糸を引く唾液が少量の血と混じって滴り落ち――目からも血と涙の混ざったものが糸を引いた。

耳元にすら挙げられなくなった手は地面に横たえられ、既に脱力した身体を支えるだけで精一杯だ。

私は濁流に対抗する手段すらなく、全身が軋む音をただ聞いていることしかできなかった。


――だが、しばらくすると急激に不協和音は小さくなり始めた。


取り戻した感覚は、耳元に柔らかな感触を返す。

気力を取り戻した手が確認すると――そこにはポンポン付きの耳当てがあった。

寒い冬日に身に着け、遮音性が全く無さそうなその見た目に反し、効果は絶大。

先ほどまで鞭のように打ちつけていた”絶叫”は、分厚い壁で覆われたかのように小さくなった。



「…っそいわよアキラ!死ぬかと思ったじゃない!デザインしてる暇あったらさっさとしなさいよ!」


<ーーごめんねえちゃん!でもそれが一番簡単だったんだって!本当はもっとちゃんとカッコよくしたかったのに。>



こっちが死線を彷徨っているという時に、そんなことで悩んでいたのか――と思うと、小さく舌打ちしてしまいそうにもなる。

とはいえ、ポンポンがこちらを守ってくれているのも事実だ。その感覚は耳元から肌で感じられ、凪いだ怒りは一旦後回しとなった。



戦慄わななく手でへばりついた体液を拭いながら、未だ震える足に踏ん張りを込めてなんとか体勢を立て直す。

音の濁流はもはや微かにしか影響を及ぼさず、代わりに暴風と混じっていた怨嗟えんさの声が聞こえ始めた。



本人が心の内に秘めた、嘘偽りない不条理への本音――心象胸裏しんしょうきょうりだ。



「義務感に嫌気に懺悔ざんげといったところ?まったく、見事に二択を外したわね。」



ままならぬ現状に悪態を吐き捨てていると、唐突な身体が揺さぶられる感覚と共に、全身へと痛みが走った。



「アキラ!音波が見えない!」


<ーーもう作ってる!>



頭の気配が言葉を残すと、視界はフィルターがかったように少し暗くなる。

それと同時に、縦横無尽じゅうおうむじんな暴威をみせていた音波が捉えられるようになった。



「やるじゃない!」



見え始めた獣爪は避けつつ、安全な座標を目指して移動し続ける。


動きに慣れ、心に余裕ができ始めたところで、フィルターの位置が若干ズレていることに気付いた。



「……?」



――触るとなんだか妙な手触り。


訝しみながらも、フィルターを外して見てみる。

そこには今時ロックバンドでもつけないであろう、超前衛的デザインのサングラスがあった。


可愛らしいポンポン付き耳当てとは絶対に似合わない。100人中99人が口を揃えることだろう。

その無駄に洗練されたデザインを前に、私は一瞬という長い時間、掛け直すのをためらう。



「……」



私は心に蓋をした。


これがなければ”音波”は見えないのだ。選択肢など、元からあってないようなものだ。


とはいえ、不承不承ながら身に着ける心中が、穏やかなはずもなく――無表情を貼り付けた鉄仮面の下には、燃え滾るマグマが渦巻いていた。


限界が来ていたはずの身体も、この瞬間だけは痛みを忘れられた。

もしここまでが愚弟ヤツの計画通りだというならば、私は称賛と鉄拳の嵐を惜しみなく小僧に送ってやりたい。



「……あんた覚えときなさいよ。」


<ーーえ?ねえちゃんなんか言った?武器もプログラムが終わった!今そっちに反映させる!>



心から漏れ出てしまった小さな声はアキラへと届かず、右手には小さなハンドガンが電子ノイズと共に現れた。



(――こうなったら…こんな装備をさせた元凶に、このクソッタレな思いをぶつけてやるか。)



私は無表情のまま口元だけを鋭利に湾曲させ、そう決意した。



――――――――――



「アキラ!こうなった以上、心象の切除によって依頼対象の記憶を制御する。サポートして!」


<ーー分かった。攻撃座標の予測と創造は任せて!>



音の波は絶えず、心象生物しんしょうせいぶつから放たれる。


その縦横無尽な攻撃は、アキラの座標予測を元にギリギリの距離で回避していく。

とはいえ、全てを避けきれる程、軋んだ身体はキレを取り戻してはくれない。

歯を食いしばり、更なる痛みに備える――と同時に、アキラが小さな障害物を身体に纏わせることで弾いてくれた。


まさに死角のない完璧なサポート。しかし、その分アキラの演算負荷は計り知れない。

戦闘が長引けば、アキラの集中力も必ずどこかで途切れてしまう。


精緻を極めた舟歌へと応えるため、荒れ狂う音波と肉薄しながらも攻撃を挟む。


小さな弾丸はイメージ通りの軌道を描きながら、確かな手応えをもって心象生物に傷をつけていく。

痛みを感じるのか、奇怪な鳴き声をあげる心象生物。

確かな手応えは感じられるのだが――行動不能となるような損傷には全く繋がらない。


火力が低すぎるのだ。



<ーー身体全体を覆うような耐音波プロテクターも今創造してる!サポートしながらだからちょっと時間はかかるよ!>


「それよりも武器を創造して!サポートも一旦しなくていい。この武器だと心象の切除には時間がかかる!」


<ーーでもねえちゃん、さっきダメージ結構負ってたじゃん!一旦立て直しの時間あった方が……>


「あんたの落ち度はねえちゃんがカバーしてやるっつってんの!時間が経てばこの空間も依頼対象もどうなるか分からない。迅速な切除が一番安全!>


<ーー…ごめん。分かった!>



一転して塩らしい反応をするアキラ。


最善を尽くしての速さだったとはいえ、自分の遅れによる責任があったことを自覚したのだろう。

こうなると少し、可愛げもあるものだ。


強い武具はそれだけ複雑な創造となり、簡単な武具の比ではない演算処理が必要になる。


サポートを受けながらでは、アキラの負荷も並大抵のものではなくなるし、何より本人が言っていた通りプログラミングに相当な時間がかかる。


サポートを拒否した分、確かに危険は比べられない程大きくなる――が、それがどうしたというのだ。



「さぁて。おねえちゃんの、腕の見せ所ね。」



頼りになる弟にも聞こえないような、小さな呟きで気合を入れる。

先ほどのハンドガン創造と共に、ポケットにはカートリッジが創造されている。

手早くそれを取り出し、慣れた手つきでリロードを行う。


目標は制圧武器創造までの時間稼ぎと――可能な限り、心象生物の弱体化。



「それならっ!」



変わらぬ優雅な演奏を繰り広げる”奏者”は、その獣爪を絶え間なく生み出し続ける。


横に連なった指向性のある音の波は、大きく跳躍することで天井付近まで避ける。

アキラのサポートによる正確な座標指示がない今、回避は大振りにならざるを得ない。



しかし避けた相手は音波。壁に当たると威力を減衰させながらも反射し、範囲を拡大させて追跡してくる。


それをみて、私はもう一度天井を足場にすることで斜め前方へと跳躍する。

威力の減衰した音波は、距離が生まれる程影響力が落ちる。

柔い波となって届いた音を背中に感じながら、私は奏者の右足元へと接近した。


相手は心象生物。それも複雑な行動パターンを持たないような”単純思考系”だ。

”奏者”は双眸そうぼうすらもない、幾何学的な図形の顔をこちらに向け直す。

そのまま軽く握られたヴァイオリンの弓を動かし、もう一度その獣爪を鳴らさんと指を動かしていく。


だが――



「この距離なら、はずさないわよ?」



――その試みは一発の弾丸で防がれる。


優雅な演奏のために、緩く持たれていた弓の手元。その指先一点目掛けて、小さな弾丸が滑り込む。


まるで金属に当たったかのように、弾丸は澄んだ音を響かせる。

弦へと辿り着く瞬間。弓は弾かれ、”奏者”の手元から零れ落ちていった。



「この距離なら、その弓で殴った方がまだマシだったかもね?」



話しかけた皮肉には意も介さず、落ちた弓を拾いに動き出す。

私はそれを低くなった姿勢のまま回転することで回し蹴りを繰り出し、落ちた弓を遠くへと弾き飛ばした。


相手は単純思考の心象生物。手元から唯一の武器がなくなってしまえば、後は容易い。


律儀にも、”奏者”はその転がった弓を拾いに行く。

アーティストとしての優雅さを保つためなのか、その思考回路すらないのか――走ることもせず、ゆっくりと。


丁度そのタイミングで、頭の中からは興奮した声が響き始めた。



<ーーねえちゃんできたぞ!これなら絶っ対一撃だぜ!>



ふんすふんすと、鼻息荒いアキラの声が私の脳をぐわんぐわんと揺らす。


一体どんな兵器を渡されるのか辟易へきえきとしていると、ハンドガンは電子的な青いノイズに包まれ始めた。

ハンドガンは、その体積を急速に巨大化させ続ける。そうして変化が終わった時、手元には一本の無骨な筒――まるで武器というより”重厚な工具”――のような姿を見せた。


前方に四つの黒い穴。深緑色で箱型の銃身。

――そして、蓋を開くと銅管のような四本の筒状チューブ。



「あんたこれ…」


<ーー見たかねえちゃん!これぞ伝説のM202.4連装ロケットランチャー!あのシュワちゃんも使ってた最っ強の武器だぞ!!>



そういえばこの前、映画の『ターミネーター』見て、目を輝かせてたな……

とまたも、遠い目となってしまったのはもはや仕方ないだろう。


その表情のまま生み落とされてしまった鉄の塊を眺め、客観的な視点で今の自分を鑑みる。


ポンポンのついた耳当て。

超前衛的なデザインのサングラス。

――そこに合わせて4連装ロケットランチャー。



(どう考えても変質者じゃん……)



ガクッと脱力した私は、思わずその重厚感溢れる武器を地面に落としてしまう。

そんな”歩く不幸マグネット”と化した私は、心中を体現するかのように崩れ落ち、全体重を”頼れる相棒”に寄りかからせた。



(…いや、シュワちゃんなら百歩譲ってまださまになっただろうさ。でも、これを抱えるのってただの女子大生なんですよね…)



心の涙は乙女の証――こんな可愛げもない一幕はさっさと終わらせるべし。でなければ心が持たん。



確固たる思いを胸に視線をあげれば、そこにはいまだ優雅に歩く心象生物。

弓の元には、まだ辿り着いていないようだ。



(あー。なんかもう、ヤケクソだな。)



もはやとことんやってやるか。という気持ちが逆に芽生えてきた。

その無防備な奏者の背中に向け、私は死んだ魚のような目で無骨な鉄の塊を構える。


流石に”シュワちゃん”のように、棒立ちのまま撃つことなどできないので――片足をつき、その凶器を肩に担ぐことにする。


仕上げに超前衛的サングラスを空いた手で少し調整してから銃身に添え、雰囲気を醸し出しながら”名ゼリフ”を口ずさんでみた。



「――Hastaアスタ la vistaビスタ, baby.(地獄で会おうぜ、ベイビー)」



私はハイライトを失ってしまった目を正面に据えながら、その無防備で優雅に歩く背中へと向けて鉄の塊の引き金を引く。


あまりにもあんまりな自分の姿に、少々力が抜けていたのだろう。

発射の衝撃を忘れ、もう少しのところで吹っ飛びかけてしまった。


そしてその前方には、綺麗な四本の噴煙を軌跡に残した放射物が、可哀そうな背中へと一直線に突き進んでいくところだった。



結果は明白――奏者の演奏とはまた違った”圧倒的暴力”を彷彿とさせる爆音を残しながら、可哀そうな背中は綺麗な爆炎に散っていった。


その光景を強烈な爆風に髪を乱されながら、一切の瞬きもせず終始死んでいた目に焼き付けさせる。



(……全くもって、不本意極まりない。)



帰ったら久しぶりに、化粧でもして女の子成分を取り戻そう。

女の子の正反対に位置するであろう光景を前に、そう心へと誓うのであった。



――――――――――



爆炎がこの世界を支配する中、頭の中では別の爆音が響き渡った。



<ーーうっひょぉ~!!すげぇ!すっげぇ!やっぱシュワちゃんすげぇ!!!>


「誰がシュワちゃんじゃ。シメるぞ。」



つい漏れ出て行った軽口も虚しく、燃え残った爆煙に溶けていく。


追加で怒る気力も沸き上がらず、仕方なく発射体勢を解除しながら立ち上がることにした。



「これで心象の切除は完了ね。ちょっと荒々しかったから周辺心象への影響が心配だけど…まぁとりあえず、問題の心象は間違いなく切除できたでしょ。」


<ーーねえちゃん、シュワちゃんの名言知ってたんだなぁ!Hasta la vista, baby.って。っくぅ~~痺れるぅ!>



少し演技がかったその言い方に、先ほどの自分をバカにされたかのような気持ちがフツフツと沸き上がる。

だが、言葉にする気力までは沸き上がってこない。


それほどまでに、一連の流れは私の心をズタズタにしてしまったのであった。



「……はぁ。バカやってないでバイタルはどう?覚醒に向かってそうなら”強制遮断シャットアウト”するけど」


<ーーっへへ。え~おほん。えーっとどれどれ。バイタルはっと。>



余韻に浸ったままだらしない返事をする弟に、特大のため息をもう一度こぼす。

浮ついたままの通信ノイズに、私は『処置なし』と、諦めのレッテルを貼り付けてしまう。

あれはもう少し時間がかかるだろう。仕方がないので、霧散し始めた噴煙の方を先に確認することとする。


流石にあの火力だ。


並の心象――それも自我すら持っていなかった心象であれば、問題なく切除できたことだろう。


事実、圧倒的暴力の跡地となってしまったその場には、もう一つの漆黒の穴が出来上がってしまっており、心象生物を思わせる物品は欠片も残ってはいなかった。


その様子にひとまず、私は安堵の吐息をこぼす。

緊張が抜け始めると、段々アキラの態度が気に喰わなくなり、トゲのある口調で確認を急がせた。



「こっちは心象の切除が確認できたわよ。後はバイタルだけなんだけど。」


<ーーへいへいちょっと待ってよねっと。えーっと。まずはセロトニン精神安定物質がっと…ん?あれ、ちょっと待って。>



――少し緊迫したかのような、アキラの声が頭に響き渡る。


思考は一気に仕事へと巻き戻り、先ほどまでの緩くなった気持ちが引き締め直された。



「アキラ?どうしたの?状況を報告して。」


<ーーなんで覚醒レベルが下がって――それにオキシトシンも低下…いや、これって反応が消滅してない?なんだこれ――まさか!情報がされてる!?>



アキラの考え込むような独り言に、私の心臓が跳ねあがる。



<ーーまずいねえちゃん!!『管理者権限』が急速に支配され始めてる!はやく”強制遮断シャットアウト”――>


――アキラの言葉はそこまでしか続かなかった。

ブチッと無理やり切られたかのような焼ける痛みと共に、うるさかった気配が跡形もなく消え失せる。


遅れて焦燥を抱えながらも”強制遮断”を始めようとするが――”脱出用ポート”がどこにも見当たらない。

”強制遮断”用のポートは即時出せるよう、いつも準備しているのに……



「いったい何が――」



焦りからか、小さく言葉が漏れる。

焦燥で思考は霧散していき、何をすべきかすら掴めない。


混乱は自失を深め、時計の針すら凍えたように無意味な時間だけが過ぎていった。


――しばらく、茫然と立ち尽くすことしかできなかった。


すると突如として、周りを覆っていた間延びした部屋が、音もなく変化し始めた。

壁の輪郭は水面のように揺らめき、瞬きする間もなく、渦のように漆黒へと吸い込まれていく。



「……え?」



それはまるで、予兆を感じさせなかった。

何もない漆黒と無音の中に、ただ私だけが取り残されていった。

自分の発した疑問の声が、漆黒の世界に反響し続ける。

今までに見たことがない現象。経験したことのない状況に、私は寄る辺なく立ち尽くす。



分からない。


こんなこと経験したことがない。


でも、だからこそ、一つの答えに辿りついてしまう。



「――これって…自我崩壊じがほうかい……?」



――その言葉を合図とするかのように、漆黒と無音だけの世界に泣き声が響き渡った。


”それ”は世界をまだ知らない赤子の、純粋無垢なわめき声だった。

”それ”は世界の不条理を学び始めた幼子の、窮鳥きゅうちょう入懐にゅうかいな泣きじゃくる声だった。



世界に響き渡る不快な泣き声と共に、”それ”はゆっくりと姿を現す。



石像のような体色。石の布で覆われた目元。蹲るように抱き寄せられた足。ぴったりと耳元に合わせられた肩。

――そして、その全体を包むように覆いかぶさった石の翼。


どことなく少年の面影を残した裸の石像は微動だにせず、口元も動いてはいない。

しかし、泣きじゃくる声は確かに、目の前の石像から発し続けられている。



脳裏心象体のうりしんしょうたい……」



目の前の存在に対し、畏怖を含んだ声が零れる。


その存在は決して、今の私では手が出せない。

今までの経験がまるで意味を成さない。



――人智を超越した、超常の存在。



絶望に彩られた私に向けて、その存在は微動だにしなかった右手をゆっくりと向ける。


その行為から反射的に身体が反応し、私は先ほど圧倒的火力を見せつけた4連装のロケットランチャーを向け返す。


一瞬の迷いもなく引き金を引こうとしたその瞬間――しかしそれは叶わず、指が空を切るばかりだった。


手元を見やれば、そこには何もない。

先ほどまであった鉄の重みと共に、耳当てもサングラスも嘘だったかのように消え失せてしまっている。


だが、それも当然なのだ。



何故ならば、そう――



――この世界では、彼が管理者ルールなのだから。



泣き声が止み、彼は私に向けた石像のような人差し指を下に向ける。

すると私は唐突な浮遊感と共に、漆黒の世界を落ち始めた。


その速度は留まるところを知らず。どこまでも、どこまでも加速を続ける。


彼が小さな豆粒のような大きさになっても尚、私は落ち続ける。


私は声を発することができない。

ただ、最後の恐怖をかたどった表情のまま――石像のように固まった身体の落ち続ける感覚と、意識だけが続いていた。



そうして幾ばくかの時間が過ぎ、豆粒のような大きさの彼すらも見えなくなりかけた時。


私の意識はそこで途切れた。

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