JK in the TRENCH

スノーボール

プロローグ

    「人は、自分を信じる限り、敗北しない。」

                   

                     アーネスト・ヘミングウェイ



醜形恐怖症でもないのに、自分の顔が怖い。雫は、薄汚れた化粧鏡をみて思う。

ただし、怖いのは外見じゃない。

顔の、皮下組織の、そのさらに奥に潜む自らの姿に恐怖を感じるのだ。いや、奥にそもそも何か潜んでいるのか。何枚捲っても何も無いんじゃないか。本当の自分なんて、もともと存在しないのでは?

鏡の前に立っただけで、そんなこと考えるなんて、本当にどうかしてるんじゃなかろうか。そう我に返ったしずくは頭でさっきの自分を嘲笑した。

「雫、ご飯!」洗面所の奥から響く母の甲高い声。いまいくーと、雫もそれに呼応する。


母と言っても、正確には義母だ。

七歳の時、本当の母親とは虐待が原因で離れ離れになり、雫は児童養護施設に入れられたのだった。

しかし、雫は母親のことを愛していた。血が繋がっていて、多少殴られたとしても、天塩にかけて育ててくれたのだから。

だから、どこからともなく来て、母親ズラをする義母のことが心底嫌いで、受容できなかった。


イスに座り、母特製の目玉焼きを片手で頬張りながら、利き手ではスマホを操作する。

今年度から高校で導入された「ちーむず」なるアプリは、雫もかなり重宝していた。

マイクロソフト社から展開されてるアプリで、時間割変更や、先生からの連絡をいつでもチェックすることができるのだ。

そういうわけで、雫が今日の時程をみると、3時間目の欄に「体育」という文字が目に入り、少しげんなりした。

体育、とりわけ今のサッカーっていうスポーツはダントツに苦手なのに、、

「雫、目玉焼きどう?たまごにねえ、君が二つは言ってたのよ。今日はついてるわねぇ。」

「うん。」

心底嬉しそうに母が話しかけても、雫はまるで母の事なんか気にしてないかの如くそっけない様子だった。

母がその時悲しげな表情を浮かべていたことにも気づかず。


アパートを早々に出て、駐輪場へ赴く。すると、雫は自転車が無惨にも倒れているのを発見した。

おまけに昨日の土砂降りで、そこかしこが水に濡れている。

フレームに印字された、フランス語の「pour toujours」の文字も泥で完全に掠れてしまっていた。

まさに泣きっ面に蜂だ。

土砂降り如きに、簡単に打ち負けてしまう弱々しい愛車に若干の苛立ちを感じ、雫はポンとサドルを一発殴った。

自転車に跨り、空を見上げる。昨日の悪天候が嘘かのように、雲一つない快晴だった。

18段変速のギアを最大にして、住宅街の坂道を下っている最中、不意に上を見上げる。

すると、群青の空が我が物顔でビル群の上に寝そべっていた。昨日の雨粒で、光り輝くビル群は、まるで泣いているようだった。

普段、始業ギリギリで、自転車をかっ飛ばす雫。

高校人生の二年間でこの素晴らしく神秘的な光景を見るのが初めてで、心を奪われるようだった。

20分ほど自転車を漕いでいると、天まで届く高さの、大きな二本の杉が目に入った。

その後ろには、見慣れた校舎の姿があった。

目を凝らすと、壁中に汚れや罅が刻まれており、毎度のことながら、いつか崩落しないかこちらを不安にさせてくれる。

創立90周年を祝っているだけあって、この脆弱さも「アジ」なのだろうか。

すると、校門の中へ入っていく生徒達と逆走してくる女生徒の姿が見えた。

まさに人口密度が新宿駅並と校門前において、その女生徒は何人かとぶつかり、「ゴン!」

とか「ボ!」とか音を立てながら転びそうになっていた。

「しずちゃーん、おはよ!一緒にいこーよ!」

女生徒は人懐っこそうな声で、こちらに手を振っている。

高い位置に纏められたポニーテールが、ゆらゆらと流体物の如く、揺れていた。

「お、ちはや!おはよー」

「え、今日はハーフアップじゃん!めっちゃ可愛いね」

ちはやは、ちらりと雫の髪を見て、太陽のような笑顔で言う。

「え、マジで?良かったー。ちょっと不安だったんだよね正直。なんかインスタで見た人がやってて、ちょー可愛くてさ。なんだっけ、ヒユウ?みたいな」

「その子知ってるー!えめっちゃリールで流れてくるよね。しずちゃんも見てんだ!」

髪型やメイクなど、たわいもない話で盛り上がる。

決して特別仲がいいという訳ではないけど、ちはやは雫にとってそういう人間だ。一眼友人の姿が目に入れば、話しかけてきてくれる。

本当に良い子だな、と雫は心の中で微笑んだ。

「そういえばさなちんさ、カレシと別れたのは、知ってる?」

「そうなの?知らなかった。どっちが振ったん?」

「さなちん」こと篠崎サナとは、雫や、ちはやのクラスメートのことである。

透き通るような白い肌、ヘレネーとも互角に張り合えるであろう美しい顔立ち、すらっと長い足。極め付けは、学業も学年でトップクラスという有様だ。

まさに学年、いや学校のマドンナと言ったところか。

以前は、雫もよく彼女と釣るんでいて、親友とも呼べるような間柄だった。しかし今、その温かい友情も、いつの間にか冷え込んでしまった。

彼女の事情なんて、最近は人伝にしか聞いていない。サナが彼氏と別れたと訊いた雫の心は、疎外感と嫉妬でかなり複雑なことになっていた。

「彼氏の方が振ったらしいよ。部活が忙しいとかなんとか。世界三大美女の一人みたいな子を振るなんて、そいつ頭沸いてんじゃないの?と思うよね。昨日もさなちんめっちゃ泣いてた。」

雫は、さなを案じている表情を必死に作って話を訊いていたが、その実何も感じなかったのだ。

解けた糸は、二度と戻らないかのように。













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