第11話【新しい家の扉】
イシュラウド邸の重厚な扉が、ゆっくりと音を立てて開かれた。
硬質な蝶番の響きが、夜気の中に低く溶けていく。
その瞬間――まるで訓練された儀式のように、広大な玄関ホールの両脇に並んだ使用人たちが一糸乱れぬ動きで整列し、深く一礼した。
金の燭台に灯る炎が、一斉にゆらめく。
「お帰りなさいませ! そして……ご婚儀、誠におめでとうございます!」
声が重なり、まるでひとつの楽曲のように響き渡った。
その所作ひとつに至るまで、この家が築き上げてきた格式と誇り、そして鍛え上げられた統率の美学が滲んでいる。
クレノは思わず足を止め、喉の奥で息を呑んだ。
見上げた天井は高く、磨き上げられた大理石の床は夜の灯を映している。
奥には剣の紋章が刻まれた大階段。まるで要塞の中に宮殿を造ったかのような荘厳さだった。
(……本当に、僕がこの場所に?)
現実感が薄れていく。
あまりの温かさに、夢を見ているような錯覚を覚えた。
確かに――バレンタイン邸も、豪奢だった。
だがそこにあったのは、閉ざされた静寂と、冷たい美。
「生きている音」が、どこにもなかった。
けれど、今ここには。
誰かの笑い声や呼吸の温もりが、確かに満ちていた。
“家”というものの本当の意味を、クレノは初めて知った気がした。
隣に立つルミエールが、彼の硬直を察したように、小さく囁く。
「クレノ。――ここが、あなたの“新しい家”だ」
その言葉が、胸の奥まで静かに沁み渡った。
息が少し苦しくなる。だが、それは痛みではなく、何かが満たされる感覚だった。
クレノはゆっくりと息を吸い込み、そして小さく頷く。
ルミエールは一歩前へ進み、使用人たちの前に立った。
「皆、聞いてくれ」
その声は凛と澄み、まるで剣が空を切る音のように心地よい緊張を帯びていた。
使用人たちは一斉に背筋を伸ばす。
「今日より――この方、クレノ・イシュラウド様が、我が夫としてこの屋敷に加わる」
静寂を切り裂くように、彼女の宣言が響いた。
「以後、彼への礼儀は、私への礼儀と心得よ」
「はっ……かしこまりました!」
床を打つように整った声が響き、全員が一斉に深く頭を下げた。
その光景に、クレノはただ立ち尽くすしかなかった。
自分が誰かに“迎え入れられている”――それが信じられなかった。
そんな彼を見て、ルミエールは小さく微笑む。
そして背後に控えていた青年を手招きした。
「紹介しよう。彼はロニ。私が幼い頃、路地裏で拾い、剣ではなく知恵と忠誠でここまで育て上げた。
これからは、君の専属執事として仕えることになる」
「……えっ」
クレノが目を瞬かせる間もなく、ロニと呼ばれた青年はすっと膝をつき、頭を垂れた。
「初めまして、クレノ様。ロニと申します」
顔を上げた彼の茶髪が、ランプの灯りで柔らかく光る。
穏やかな眼差しには、誠実さと同時に、長年の忠誠を支える強さが宿っていた。
「……ようやく、お仕えすべき“主”に出会えた気がいたします」
「え……?」
クレノが戸惑いを隠せずにいると、ロニは柔らかく微笑んだ。
「私は――クレノ様がどのような道を選ばれようとも、決してそのお側を離れません」
「え、あ、あの……」
「どうぞご安心ください。給金などは、すでにルミエール様より支給されておりますので。お気遣い無用です」
「きゅ、給金!? いや、そ、そんな……僕、何もしてないのに……っ」
あまりに丁寧すぎる歓迎に、クレノの頭は真っ白になる。
優しさという名の波に呑まれて、心の整理がまるで追いつかない。
「ど、どうして……こんな……僕なんかに……」
言葉が震える。
するとルミエールが、少し困ったように笑った。
「……はは。反応が素直すぎる」
その優しい空気を切り裂くように、廊下の奥から低い声が響いた。
「――夜も遅い」
イシュラウド公爵、エールド。
重みのある足音とともに現れた彼は、視線を一瞥するだけで空気を一変させる。
だが、先ほどのような怒気はなく、落ち着いた声音だった。
「ロニ。婿殿を風呂へ案内し、部屋で休ませてやれ」
「はっ、承知いたしました」
ロニが軽く頭を下げる。
エールドは娘へと視線を向け、短く告げた。
「……ルミエールは書斎へ来なさい。話がある」
「……はい」
簡潔な返答。
その声音には、まっすぐな信頼がこもっていた。
ルミエールはふとクレノを振り返り、穏やかな笑みを見せる。
どこか出陣前の騎士のように、強く、そして優しく。
「大丈夫。ロニがついている。安心して」
その言葉に、クレノは小さく頷いた。
指先で触れていた彼女の袖が、名残惜しそうに離れていく。
心の奥で、何かが温かく灯った。
(……優しいな、ルミエール様は)
まだうまく名前で呼べないけれど――
その想いだけは、確かに胸に広がっていく。
クレノはロニの後ろ姿を追いながら、一歩を踏み出した。
新しい廊下、新しい空気、新しい人生。
“剣の家”の扉の向こうで、彼は初めて――
自分のための世界に、足を踏み入れたのだった。
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