第10話【揺れる灯の下で】

 夜の帳が、王都の屋根を静かに包み込んでいた。

 王城を離れた馬車は、月を背にしてゆっくりと街道を進む。

 窓の外では、遠ざかっていく王都の灯が点々と揺れ、淡い光の帯となって流れていった。


 その中――揺れるランタンの灯に照らされる馬車の座席で、クレノは小さく身を縮めていた。

 両手を膝の上にきゅっと置き、背を丸め、まるで寒さよりも“世界の視線”に怯えているようだった。


 白い頬はまだ血の気が薄く、唇も青みがかっている。

 十八歳――成人の年齢でありながら、その身体はまるで十五にも満たないように華奢だった。

 身長はおそらく一六〇センチほど。

 細い首筋や手首の骨が、ランタンの明かりに浮かび上がるたび、ルミエールは無意識に胸を痛めた。


 (……いったい、どんな生活をさせられてきたのだろう)


 バレンタイン家――王族の血を引く名門。

 だが、その裏では息子を“見せ物にもならぬ失敗作”として閉じ込めていたというのか。

 回帰前の彼が、あの家から逃げ出そうとしていたのも当然だ。

 そして今、こうして彼を救い出せたのなら――きっとこれが、彼にとっての最善なのだろう。


 (けれど……)


 ルミエールは、向かいに座るクレノを見つめながら、胸の奥で小さく息を吐いた。

 今の彼は、どこか放心したような瞳をしている。

 ふとした瞬間、馬車の揺れに合わせて、肩がびくりと跳ねる。

 心のどこかで、まだ“罪”を背負っているように。


「……クレノ様。その……」


 思わず声をかけてしまい、言葉に詰まる。


 (しまった。……なんて声をかけるべきだろう)


 安易な慰めも、軽率な励ましも、どれも似合わない。

 沈黙が、木の軋む音とともにゆっくりと流れる。


 クレノはしばらく俯いたままだったが、やがて小さく唇を動かした。


「……様は……やめてください」


 掠れた声だった。

 まるで何年も言葉を発していなかった人のように、か細く震えている。


「僕に……そんな価値は、ありません……」


 その言葉に、ルミエールの喉の奥が詰まった。

 胸の奥で何かが軋む。

 “価値”という言葉が、彼の口から出るたび、まるで鎖が鳴るようだった。


 ルミエールは、膝の上で手を握りしめる。

 そして静かに、言葉を選んだ。


「――それは違う」


 穏やかだが、芯の通った声。


「人に“価値”があるかどうかなんて、他人が決めるものじゃない。

 生きているということそのものが、何よりの証だ。

 あなたがここにいる――それだけで、誰かの世界は変わる」


 その言葉を聞いた瞬間、クレノの肩がわずかに震えた。

 長い沈黙が落ちる。

 ルミエールは続けた。


「……だから私は、あなたを“様”ではなく、ひとりの人として呼びたい。

 これからは――クレノと、呼びます」


 穏やかな微笑を浮かべながら、彼女はそう言った。


「あなたも、“ルミエ”と呼んでください」


 クレノの金の瞳が、驚いたように瞬く。

 そして、少しの戸惑いを滲ませながら、息を呑むように問い返した。


「……そんな……呼び捨てなんて……」


「婚姻を結んだのですよ? 私たちはもう、他人ではありません」


 その声音には、優しさと強さが混ざっていた。

 彼女の指先が、そっとクレノの手に触れる。

 柔らかく、だが確かな力で包み込む。


 「――クレノ」


 名前を呼ぶだけで、空気が少し温かくなる気がした。


 クレノは一瞬だけ顔を上げた。

 長い睫毛が震え、夜の灯がその瞳に映り込む。


「……ルミエ……」


 小さな声。

 まるで喉の奥から、やっとこぼれ落ちた祈りのような響きだった。


 その瞬間――ルミエールは、ふっと微笑む。

 どこまでも穏やかで、包み込むような笑み。


「……うん。その呼び方がいい。私はその方が好きです」


 クレノは一度俯き、そして、小さく笑った。

 その笑顔はぎこちなくも、確かに“生きている”笑顔だった。


 (――この人を、もう二度と閉じ込めさせはしない)


 ルミエールは心の奥で、そっと誓った。

 馬車の外では、夜風が木々を撫で、遠くで梟が鳴いた。


 静かに、優しい沈黙が流れる。

 馬車の灯がゆらりと揺れ、ふたりの影を重ねる。


 まだ不器用で、まだ幼い“夫婦”の始まり。

 けれどこの夜だけは、世界のどんな夜よりも――あたたかかった。

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