第7話【誓いの跪礼】
クレノは、戸惑いを浮かべたまま、小さく呟いた。
「でも……どうやって、逃げればいいのか……僕、分からなくて……」
その声は、迷子の子どもが暗闇で助けを求めるように弱かった。
頼る場所も、信じる誰かも、彼にはいなかった。
ルミエールはゆっくりと立ち上がる。
そして、伏せたままの彼の前に歩み出る。
その背筋はまっすぐに伸び、騎士としての覚悟が静かににじんでいた。
――次の瞬間。
すとん、と膝が落ちた。
赤い絨毯の上に、音もなく両膝をつく。
剣は抜かず、胸の前で拳を重ねる。
それは、騎士が生涯を賭けて誰かを守るときにのみ捧げる、最上級の“跪礼”。
「――クレノ・バレンタイン様」
空気が、ぴんと張りつめる。
クレノの金の瞳が、大きく見開かれた。
「このルミエール・イシュラウド。
騎士としての至高婚姻特権を以て――あなたとの婚姻を望みます。
どうか、私と共に、この世界を生きてください」
その声は低く、静かで、まっすぐだった。
一切の冗談も、打算も、憐れみもない。
ただ純粋に、彼の命を、心を、未来を守りたいという――祈りのような誓いだった。
ルミエールは少しだけ視線を落とし、柔らかな声で続ける。
「……けれど、もしあなたが、いつか心から好きな人を見つけたなら――その時は、私は潔く身を引きます」
ほんの少し、寂しさを滲ませながら。
それでもその微笑みは、あくまで穏やかだった。
「あなたが笑っていられる未来があるなら、それが私でなくても構わない。
……私は、その笑顔のために剣を振るうだけです」
それは、騎士としての誓いであり――
彼女が“生き直した人生”で、守るべきと定めた、たったひとつの願いだった。
クレノは、息をするのも忘れたように彼女を見つめていた。
「……君が君らしく生きられるのなら、それでいい。
でも、今は――私に、君を助けさせてほしい」
その声音は、胸の奥にじんわりと染みてくる。
押しつけがましさも、誇りの匂いもなく、ただ寄り添うように優しかった。
クレノは俯いたまま、小さく震える声で呟く。
「ぼ、僕は……その……きっと、普通じゃありません……」
ルミエールは、即座に頷いた。
「――ああ。分かってる」
その即答に、クレノの瞳が一瞬、大きく揺れた。
「僕、あなたに……きっと迷惑ばかりかけると思います……」
「……受けて立とう」
短くも力強い答え。
それは、彼女がこれまでに幾千の戦場で誓ってきた“守る”という約束と、何ひとつ変わらなかった。
クレノの肩が小さく震え、やがてそっと指先が伸びる。
躊躇いながら、ルミエールの手に触れた。
「……よ、よろしく……お願いします……」
掠れた声。
けれどその一言には、確かな“希望”が込められていた。
ルミエールはその手を、包むように握り返す。
掌の温度が、ゆっくりと二人を繋ぐ。
「ふふ。そうと決まれば、まずは――」
表情を少し和らげ、くすりと笑う。
「治療からだな。……隅々まで、しっかり見せてもらうぞ?」
「えっ!? ちょっ……そ、それは……っ、あっ♡」
不意を突かれたクレノの頬が、ぱあっと真っ赤に染まる。
小さな悲鳴のような声が、部屋の奥――柔らかなカーテンの向こうへと溶けていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
治療が終わる頃には、部屋の空気は驚くほど穏やかになっていた。
ベッドに腰をかけたクレノの顔には、ようやく血の気が戻っている。
こわばっていた肩の力も抜け、安堵の色が滲んでいた。
ルミエールは様子を確かめながら手を引き、自身も椅子に腰を下ろす。
「……驚きました。まさか、あなたが治癒魔法を使えるなんて」
クレノが小さく呟き、胸元に手を当てる。
まだ実感が追いつかないように、戸惑いと敬意の混じった眼差しを向けた。
ルミエールは、真剣な面持ちで静かに答える。
「これは……国家機密なんだ」
「え……?」
「この力を知るのは、私の両親と、イシュラウド家付きの主治医サリハン……そして、王太子殿下だけ」
一言一言を噛み締めるように告げる。
「そして――あなたが、五人目だ」
クレノの瞳が大きく揺れた。
頬を紅潮させ、視線を逸らす。
「そ、そんな大切なことを……なぜ、僕なんかに……」
驚きと戸惑い、そしてほんの少しの嬉しさが混じった声。
ルミエールは微笑む。
その微笑みは、春の陽だまりのようにあたたかかった。
「仮とはいえ――あなたはもう、私の夫となる方ですから」
その言葉が胸の奥で弾け、クレノの心臓が跳ねた。
頬の紅がさらに深まり、唇が震える。
(夫……だなんて……)
目を伏せたまま、クレノは小さくうずくまる。
胸元を押さえ、うつむいたまま、震える声で息を吐いた。
ルミエールは、そんな彼の横顔に小さな笑みを浮かべ、椅子から立ち上がる。
「さて。今からでも会場に戻れば、まだ間に合う」
淡々とした声に、決意が宿る。
「至高婚姻特権を使いましょう。
皆の前で正式に――“婚姻の誓い”を」
その宣言は、まるで宣戦布告のように清々しかった。
クレノはかすかに頷きながらも、視線を泳がせる。
「…………はい」
けれど、心の奥では別の思いが渦巻いていた。
(それにしても……僕……治療のためとはいえ……全部、見られちゃった……)
指先が胸元に触れるたび、顔が熱を帯びていく。
(あんな、恥ずかしいところまで……っ)
その様子を見たルミエールは、敢えて何も言わず、
ただ一歩、彼の前へと歩み寄る。
「行きましょう、クレノ様」
差し出された手。
力強く、温かく、迷いのない掌。
クレノは一瞬だけ迷ったあと、その手を取った。
細い指を、そっと絡めるようにして。
ふたりの影が並ぶ。
廊下の奥、遠くから祝宴の音が微かに響いていた。
――彼らは、再び王冠の間へと向かう。
大きな決意と、まだ形を知らぬ小さな恋を胸に抱えて。
騎士と少年の誓いは、これから“真実の婚約”として、
王国全土を巻き込む運命の始まりへと変わっていく――。
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