第6話【壊れる前に、君を救う】
礼儀も、格式も、この舞踏会の序列も――すべて投げ捨てて。
深藍のマントを翻し、騎士の足取りで一直線に駆け抜ける。
視線が刺さるたび、それらを切り裂くように彼女は進んだ。
ただひとりへ、まっすぐに。
――目の前に立った瞬間、空気がふっと止まる。
「……初めまして。ルミエール・イシュラウドと申します」
凛とした声。深く、礼。
青年はわずかに目を見開き、ぎこちなく頭を下げた。
「……クレノ・バレンタインです。バ、バレンタイン公爵家の三男で……えっと……パートナー……が……その……」
弱い声。伏せられる睫毛。
震える金の瞳は、あの夜の“彼”の面影を、痛いほど正確に映していた。
(……やっぱり、あなたなのね)
胸の奥に熱が差す。歓喜と、切なさが同時に膨らむ。
「……よろしければ、一曲、お付き合い願えますか」
本来なら、女から申し出ることは礼を欠く。
それでもルミエールは、貴族の騎士が令嬢に手を差し伸べるように、片膝を折り、静かに手を差し出した。
クレノは戸惑い、けれど小さく頷く。
「……はい」
(た、たしかダンスは断っちゃダメって……母上が……)
ふたりが輪に入った瞬間、ざわめきが走る。
「誰……?」
「イシュラウド公爵令嬢が、自分から……?」
「見たことない顔ね……あんな子、いたかしら」
音楽が緩やかに回る。
ルミエールは彼の掌をとり、一歩、また一歩と導く。
――だが、すぐに違和感が滲んだ。
足取りが不安定。体幹が揺れる。
近づくたび、かすかに鼻先をかすめる金属臭。
(……血、の匂い)
眉がわずかに動く。
「失礼、どこか具合でも?」
びくり、と肩が跳ねた。
「あ……いえ……その……」
否定しようとする仕草が、あまりに痛々しい。
(見ていられない)
「――失礼」
次の呼吸で、彼女は迷いなく抱き上げていた。
――お姫様抱っこで。
軽い。信じられないほど軽い。
この身体で、彼は立たされていたのか。
「え、あ、あの――」
動揺を、彼女の微笑がやさしく塞ぐ。
「大丈夫。……安心してください」
視線の刃が背を追う。囁きが波のように寄せる。
『攫ったのか?』『金の瞳……王家の血?』
それらをすべて背に、ルミエールは団長のみが許された専用の“青の間”へ向かって歩く。
(やっと――やっと、見つけた)
あの夜、炎と雷の中で自分を庇い、倒れた少年。
回帰してからずっと探し続けた、小さな光。
その命が、今、腕の中で確かに震えている。
長い回廊を抜ける途中、胸の重みを確かめるように視線を落とす。
「……あ、あの……」
おずおずとした声。弱いけれど、意思を持った音。
ルミエールは歩みを緩める。
「……気分が優れないのだろう? 私の部屋で休むと――」
はっとして言い直す。
「……失礼。休まれますか?」
不器用な敬語に、自分でも可笑しくなる。
けれど、その不器用さは誠実さの形だった。
「……はい」
顔を上げたクレノの金の瞳が、横顔をじっと見つめる。
硝子のように薄い微笑が、ふっと灯る。
やがて“青の間”。
深藍のカーテン、淡い香の煙、磨き込まれた机――騎士団長の静謐。
ルミエールは天蓋つきのベッドの端に、壊れ物に触れるように彼を下ろした。
「……どこが苦しいのですか」
椅子に腰を下ろし、落ち着いた声で問う。
クレノは目を伏せ、頬を赤らめ、沈黙する。膝の上の手が、頼りなく震える。
「医療の心得があります。……どうか、話してください」
その真摯な響きに、ようやく唇がほどけた。
「……昨夜……母に……体に、装飾のピアスを……つけていただきました。……見栄えが、よくなると……」
息がとまる。
(――まさか)
王妹マリアベル。
回帰前、クレハが零した言葉――『母上のことで婚約者が見つからない』――が脳裏に閃光のように走る。
ただの“厳しい母”ではなかったのだ。
「……見ても、よろしいですか」
躊躇が、こくりと沈む頷きに変わる。
ルミエールは立ち上がり、儀式のように慎重に、衣服をめくった。
――次の瞬間、言葉が失われた。
皮膚を無理に貫いた跡。
皮下に埋め込まれた、鈍い金属の輪。
装飾ではない。これは“痛みを固定する器具”だ。
「……これは……っ」
拳が、無意識に震える。
(こんなものを――息子に)
「……これを、母親が? あなたに?」
怒りが声を濡らす。クレノは申し訳なさそうに瞼を伏せた。
「……はい……」
深く息を吐き、目を閉じる。
開いた瞳は、氷のように澄んでいた。
「失礼ですが……こんなものを施す“母”は、もはや母ではありません」
低い声に、確かな怒り。
クレノの肩が、かすかに震える。
彼の手をそっと握る。体温は薄氷のように冷たい。
「……これは、私には虐待にしか思えません」
「え……」
驚きが、金の瞳に波紋を広げる。
唇が微かに震えた。
「で、ですが……これは、いつもで……日常で……当たり前で……」
自分の言葉すら疑う気配。
そこに、“常識”と呼ばれてきた呪いの形を見る。
「いいえ。これが世に出れば、あなたの“母”は裁かれます」
「えっ……!」
慌ててシャツを掻き合わせる。肩が小さく縮こまる。
いまにも涙が零れそうな顔。
(この子は――自分が傷つけられていることに、まだ触れてもいない)
「クレノ様。……またも失礼を承知で」
膝をつき、目線を合わせる。
騎士でも公爵令嬢でもない、ただの人として。
「あなたは、その環境にいてはいけません。このままでは、きっと“壊れてしまう”」
金の瞳が大きく揺れた。
「……壊れる? で、でも……ぼく、どうしたら」
それは本音だった。
“逃げてもいい”と言われるのを、どれほど待っていたのだろう。
「クレノ様。あなたは――“家から出たい”と思ったことはありますか」
「……そ、それは……」
視線が彷徨い、喉が小さく鳴る。言葉はまだ形を持たない。
ルミエールは、やわらかく微笑む。
「……もし、あなたの世界が当たり前なら――あなたの兄君も、周囲の貴族たちも、皆があなたのような目をしていなければ、おかしいはずです」
「…………言われてみれば……そう、かもしれません」
ぽつりと落ちる言葉は、薄いガラスがひび割れる音に似ていた。
“当たり前”が、静かに崩れていく。
ルミエールは彼の手をそっと包む。
薄く冷えた指先に、体温を分けるように。
「……その世界から、逃げましょう。クレノ様」
その笑みは、騎士の凛々しさを保ちながら、誰よりもやさしかった。
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