第5話:夜の電話と、前の住人の記録
深夜、午前一時を回った頃。
茜は布団の中で目を覚ました。壁の向こうの足音への恐怖と、隣の部屋から聞こえる母・秋乃の微かな嗚咽のせいで、なかなか寝付けずにいた。
枕元のスマートフォンが振動した。画面には「佐々木美樹」の文字。
茜は慌てて電話を取り、声を潜めた。
「もしもし、お姉ちゃん」
「ごめんね、こんな時間に。お父さん、もう寝てる?」美樹の声も囁き声だった。
「うん、たぶん。…お母さんも」
「わかった。早速だけど、昼間聞いた話、気になってこの家の設計図と建築時の写真を引っ張り出してみた」
茜の心臓が跳ねた。憧れの従姉が、この家の核心に触れようとしている。
「どうだったの?何か変なところあった?」
美樹は少し間を置いて、慎重に言葉を選んだ。
「構造上の欠陥はない。完璧すぎるくらい、ちゃんとした木造工法で建てられてる。ただね、茜…」
美樹は声をさらに落とした。
「一つだけ、不自然な点があった。この家、前の元主が二年で手放したって言ってたでしょ?その人がこの家を工務店に発注した時、設計の途中で急に、ある職人を指名して工事に入れさせた記録があるの」
「指名?」
「うん。その職人、土屋悟(つちや さとる)って言うんだけど、腕は確かなベテランなんだけど、ちょっと気難しいことで有名で。普通、顧客が途中から特定の職人を指名することはないの。設計上の変更もないのに、なぜか彼の仕事が入ってる」
美樹の声は、単なる好奇心ではなく、確かな警戒を含んでいた。
「その土屋っていう人が、何かしたの?」
「まだ断定はできない。でもね、彼の担当した部分が、いくつか標準仕様ではない、って記録に残ってた。例えば、君たちのリビングにある大黒柱。あれ、仕入れ先や材質が、他の柱と微妙に違ってるの」
茜は息を呑んだ。大黒柱。自分が昨日、粘着質な視線を感じた、あの柱だ。
「そしてね、もっと気になることが。この家が完成した直後、その土屋悟は忽然と行方不明になっているの。まるで、家が建つことと引き換えに、彼が消えたみたいに」
茜の背筋に、冷たい汗が流れた。壁の中から聞こえる音、クローゼットの壁の向こうを歩く素足の足音、そして大黒柱の冷たい視線。それらは全て、家の中に残された、行方不明の職人の気配なのか?
「お姉ちゃん…その、前の元主の人は、土屋さんのことを知ってたのかな…」
「それも調べてみた。前の住人、引っ越し後すぐに、家族内でひどい喧嘩が続いて精神的に疲弊した、って記録が残ってる。そして、契約解除の際に『とにかく早く手放したい。理由は問わないでくれ』って、かなり強引だったらしい」
秋乃の異変と、あまりにも似ている。
「わかったことは二つ。この家には土屋悟の不自然な手が入っていること。そして、土屋の仕事が入った後、家族が崩壊寸前まで行くという、おぞましい連鎖が起こっていること」
美樹は区切るように言った。「茜、明日、昼間に時間を作って。私も休みを取るから。君の家に行って、図面と家の中を照らし合わせる。お母さんとお父さんには、絶対に秘密よ。特に、お父さんには…」
美樹は言葉を詰まらせた。
「あの公務員のお父さんが、美樹お姉ちゃんの話を信じるわけない、ってことでしょ?」
「そうじゃないのよ。お父さんのような『理性』が、一番最初に、この家に蝕まれる可能性がある。お父さんを刺激するのは、今は危険すぎる」
美樹はそう警告し、電話を切った。
茜はスマートフォンを強く握りしめた。夜の闇の中、再び聞こえてくる母の嗚咽。そして、壁の中から微かに響くトントンという、何かを叩く音。
土屋悟。その狂気の職人が、この家に何を仕込んだのか。
完璧な家が、家族を壊しに来ている。
茜はそう確信した。
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