第2話「暗転する日常」


 三日後の月曜日。

 喫茶すのうどろっぷで、いつも通り一人。矢上やがみはマグカップを磨いていた。

 例のテレビ取材を受けるため、心春は休み。店を回すこと自体に支障はないが、やはり古びた雰囲気が強まるのを感じていた。

 そんなこんなで二十時を過ぎた頃、珍しくドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 優しい声音が響く。

 それから矢上は客へ目を向ける。


「いらっしゃい、今日は遅かったですね」


 喫茶店を開く前から繋がりを持つ情報屋。今は喫茶店のただの常連客の一人だった。

 ビシッとスーツを着込んだ老紳士で、中折れ帽がよく似合う。杖をついた姿はどこぞの貴族のようで、店のレトロ感が加速していく。


 カウンター席に腰掛けると、無言のまま帽子を取って、メモ紙を差し出す。


 眉根を寄せて、店内をぐるりと見渡し紳士はようやく口を開く。


心春こはるちゃんは休みかい、マスター」

「えぇ、テレビの取材とかで、──これは?」


 矢上は、置かれたメモ紙の住所について訊ねる。


「傭兵稼業から足を洗ったのは知っている。僕自身、こうしてコーヒーに舌鼓を打たせてもらってもいるしね。──日常を守るためだ。君自身のために忠告しにきた」


 いうと、イギリス紳士のような装いにはいささか似合わないスマホを取り出し、一枚の写真を見せた。


「春日井櫻子──官房長官の娘で、心春ちゃんと同じサークルの子だ」


 続けて、紳士は指で画面をスクロールする。

 そこには、真っ黒いバンに攫われる女性の映像があった。映る男たちは一人を除いて全員が目出し帽を被り、拳銃やナイフで武装している。


「ブラックフラッグというらしい。無政府主義思想を掲げる過激派だ。狙いはわからないが、官房長官の娘を狙っている」


 そこまで聞いて矢上は声を上げた。


「……でもこれは、心春さんじゃないですか」


 断定はできなくとも、そこに映ったのは紛れもなく心春だった。

 攫われる際の一瞬の悲鳴、それが心春の声だと、矢上は確信していた。


「どうやら、顔を確認せずに攫ったらしい。あいつらしい杜撰な仕事ぶりだよ」


 矢上は映像が止まった画面を凝視する。

 見知った顔だ。バンで攫った一味のリーダーのように振る舞う男。かつては傭兵として共に戦場を転々とした。時に味方として、時に敵として。


「因縁があるのだろう? 向井くんと」

「えぇ、この傷は、彼につけられたものですから……」


 言って矢上は、おろした前髪を掻き上げる。

 物騒な傷だ。喫茶店のマスターとしてふわさしくないから隠していた傷だ。


「この住所にいるんですね、心春さんも、向井も」

「あぁ、悪いね。君の日常を壊すつもりはなかったのだが」


 老紳士は心底申し訳なさそうに、頭を下げた。

 それに矢上は表情を削ぎ落とした顔を向けて、


「いいえ、退屈な日常を守るためですから」


 返して、前掛けをたたみ、カウンターテーブルの上に置く。

 儀式的なその動作は、矢上の神経を、感覚を研ぎ澄ました。


「そろそろ店を閉めますので、ご退店ください」


 コートを羽織って、ハンドグローブをポケットへ仕舞う。

 押し出すように老紳士の背に手を当てると、ドアベルと共に扉を開ける。


 扉に掛けられたパネルを裏返し『準備中』に変えた。


 逆立つ神経が、ふと来客に気が付く。

 そこには、萎れたサラリーマンが立っていた。

 普段の矢上なら、疲れ果てた様子のサラリーマンを放っておくことはないだろう。コーヒーと自家製のナポリタンでも出して、ささやかな癒しを提供していたかもしれない。


「申し訳ありません、本日はもう閉店いたしましたので」


 玲瓏な声。

 怒りと逆立つ神経から来る冷たい声音が、口を突いて出た。

 あたふたするサラリーマンへ、軽く頭を下げると矢上は背を向ける。


 闇夜に溶ける外套を翻し、ナックルグローブの拳だけが、月明かりを反射して鈍色に輝いていた。



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