【短編】しがない喫茶店マスターの日常

戸部 ヒカル

第1話「退屈な日常」


 戦場の匂いなど忘れてしまった。

 喫茶店のマスター──矢上やがみわたるを囲むのはコーヒー豆の香りとムーディーな音楽だけ。

 閑古鳥が鳴き、客足もまばらなこの喫茶店「すのうどろっぷ」こそが、今の自分の居場所だった。


 ◇   ◇   ◇


 五月下旬の金曜日。

 窓から覗く通りの賑わいは、店内とは程遠いものだった。夕暮れを過ぎて飲食店が賑わいだす十九時頃でも、様相は変わらない。

 一昔前のレコードを流したレトロな喫茶店内、カウンターに立った矢上はマグカップを磨いている。

 齢は四十二。黒髪の短髪で前髪を下ろし、銀縁のメガネをかけている。

 長身にガッシリした体躯を喫茶の制服に包む、いわゆる中年のおじさんだ。

 レトロな店内に、レトロなおじさんだけでは、少々物悲しいと思い、アルバイトを雇ったのが、十一ヶ月前。


 喫茶店の花、そのはずの大学生アルバイトは、窓辺に物憂げな目を向けていた。


「はぁ、退屈です」


 ため息混じりに零すのは、北山心春こはる

 薄めのピンクブラウンを髪留めでサイドにまとめる小柄な女性。矢上からしたら娘ほど歳の離れたこの子でも、不思議と楽しく話していられるのは、天性の愛されキャラとでも言うべき素質のおかげだろうか。


「そう言わないでください」

「お客さんいないのに、アルバイトなんて雇って平気なんですか?」


 至極真っ当な質問だった。

 客足がまばらで、日に二十人ほどくればいい方……そんな喫茶店がわざわざアルバイトを雇う余裕があるとは思えないのだろう。


「やはり喫茶店にも花は必要ですからね」

「答えになってないですよ。でもまぁお金もらえているので、文句はないですけど」


 言った彼女は、ぼやかした回答に少し不服そうだった。

 そんな心春に矢上は訊ねる。


「大学生活はどうです、楽しいですか?」


 娘ほど歳の離れた彼女へ、ちょっとした親心。

 十七歳で高校を中退して海外へ出た矢上にとって大学は未知の場所だ。大学生という生き物が何をしているのか、その実態が不鮮明で気になっていたのも事実だった。

 心春はガクッと肩を落とすと、声を震わせて答える。


「……地獄ですよ、三年生になったら一気にやることが増えて。卒論、就活……もう考えたくないです」

「大変そうですね」


 コロコロと表情を変える心春が面白くて、矢上が微笑む。


「面白そうって言ってるように聞こえますよ、マスター!」

「ふふっ、すみません」

「大学卒業した後のこととか考えること多過ぎて嫌になりますよ」


 心春は言うと閃いたように、目を輝かせる。


「そうだ、マスターはどうして喫茶店を開こうと思ったんですか?」


 矢上はコーヒーミルで豆を挽く。

 豆の芳醇な香りが広がって頬を綻ばせた。


「──そうですね、コーヒーが好きだからでしょうか」


 海外から一時的に日本へ戻ってきたとき、たまたま入った喫茶店のコーヒーの味に感動した。元々コーヒーが好きだったことで、出向いていた中東でもあちこちで飲んでいたが、日本に戻ってきた飲んだコーヒーに、言いしれぬ温かみを覚えたのだ。

 それから三年間の弟子入りを経て、独立し喫茶店「すのうどろっぷ」を開業した。


 どうして、そう聞かれたのなら、コーヒーが好きだから。以外に答えようがない。それなのに、目の前の彼女は、眉を下げて怪訝そうな顔をしていた。


「……それだけですか」

「えぇ、まぁこの味を知ってもらうことも、好きだと言ってもらえるのもやりがいがあって楽しいですよ」


 返すと心春は二人以外に誰もいない店内をぐるりと見渡す。


「……それなら宣伝しませんか? レトロなカフェとかオシャレで需要あると思うんですけど」


 ウキウキでスマホを取り出す心春。

 画面を向けて、カウンター越しの矢上へ差し出そうとしたその時。


 空になったマグカップに、コツンと当たる。


「あ──!」


 心春の慌てた声が響く。

 軽やかにダンスするみたくコロッコロッとカウンターテーブルを跳ねるマグカップ。

 飛び込み台のように、ピョンと跳ねると地面へ急速落下していく。


「──おっと、危ない」


 その様は流れる川の如く。

 触手のように伸びたと錯覚させるしなやかな腕運びで、マグカップをキャッチ。


「すごっ……マスター」


 驚きから目を見張る心春に、矢上はニコリと笑みを浮かべ、


「危なかったですね──」


 言うと同時に、ポロッと手からマグがこぼれ落ちる。

 マグカップの破片がカウンターの内側に散らばるのを、矢上は箒と塵取りを持ち出して片付け始めた。


「……すみません」


 申し訳なさそうにする心春を気遣うように矢上が言う。


「休憩にしましょう、そこに座っていてください」


 テキパキと片付け終わると、流れるような動作で、ネルドリップを始める。

 淡く香り立つコーヒー豆。ムーディーな音楽が相まって心春の機嫌が少しずつ回復しているように思えた。


「コーヒーじゃなく、カフェオレですよね」

「はい! コーヒーは苦くて……」


 心春の可愛らしい言葉に、矢上の頬が緩む。


「あっ! 子供扱いしないでくださいね!」

「わかっています」


 そんなこんな、やり取りをしているうちに、黒い雫はフラスコの中に適量溜まった。

 矢上は背後の棚から、新しくマグカップを取り出して、半分までをコーヒーで満たす。ついで冷蔵庫からミルクを持ってきて、回しかけるように注いだ。

 カウンターにカフェオレを出し、矢上は再び冷蔵庫へ。


 ──新作メニューですが、喜んでくれるでしょうか。


 内心を不安で満たしながら、冷蔵庫から小さな菓子を取り出した。


「カフェオレとバクラヴァです」


 心春は、目の前に置かれた菓子に釘付けになった。

 瞳をキラキラと輝かせて、視線を矢上とバクラヴァで上下させた。


「バクラヴァってなんですか? すごく美味しそうですけど」

「トルコの伝統菓子です。コーヒーによく合うので、喫茶店の新メニューとしてどうかな、と思いまして」

「感想を言えばいいんですか?」


 首を傾げる心春に、矢上はコクリと頷いた。

 極薄のパイ生地が何層にも重なり、ピスタチオと香料が練り上げられた餡を包み込んでいる。

 その上からテカテカと煌めくハチミツを塗り重ねた菓子は、口に入れた瞬間にパリッと音をたて、ホロホロと崩れていく。


「そうですね」

「わかりました、じゃあ食べますよ」


 心春は言いながらバクラヴァへ手を伸ばした。


「……トルコにいた時に出会ったのですが、専門店があるほどあちらでは有名なお菓子なんです。ってあれ?」


 頬に手を当て「んー」と唸っている心春。

 矢上のバクラヴァ豆知識など、微塵も気にする様子はなかった。

 それからカフェオレに手が伸びて、ゴクリと流し込まれ、心春が目を見開いた。


「これ、私好きです! 美味しい! でも……」


 言った心春の目は、空っぽになった皿へ向けられる。


「少ないです! もっと食べたいです!」

「これだけで空腹を満たすことはできないでしょうね、小腹を満たす程度です」

「……やっぱり宣伝しましょうよ、このバクラヴァ美味しいですし、コーヒーの味だって飲んでみないとわかってもらえないです!」


 まだ諦めていない様子で、唐突に声を上げた。

 心春はカウンターに置かれたスマホに指を滑らせると、一枚の公式サイトを開いて矢上へ見せた。


「今度、大学の料理研究会でテレビの取材を受けることになったんですけど、ここ宣伝してもいいですか?」


 心春が所属する神居大学の料理研究会『Stella Kitchen』は四学年で百人を超える大規模なサークルだと聞く。テレビの取材を受けることにまず驚いたが、矢上はその後の文言を見逃さなかった。


「宣伝は遠慮します、テレビの取材楽しんできてください」

「えぇ……わかりました」


 二皿目のバクラヴァをぱくつきながら、心春が肩を落とす。

 矢上はふと、そんな彼女の姿に、退屈という名の安らぎを噛み締めたのだった。


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