第12話 灯と祭りの間に

 秋の気配が、森の奥まで届きはじめていた。

 朝の霧は淡く、空気にはわずかに熟した実の香りが混じる。

 木の葉の端がほんの少し赤みを帯び、風が吹くたびに柔らかく音を立てる。


 ミナはいつものように湯を沸かし、ハーブを刻んでいた。

 ルゥは窓辺で羽を整えながら、外の風に鼻先を向ける。

 遠くから、かすかに鐘のような音がした。

 ――それは村の方から届く、金属の響き。

 収穫祭の準備が始まる合図だった。


「今年もそんな時期なんだね」

 ルゥが小さくつぶやくと、ミナは笑った。

「うん。……去年は、ただ遠くから見てただけだったけど」

「今年は?」

「今年は……」

 ミナは言葉を濁し、木の匙で湯を混ぜた。

 去年の祭りの夜のことを思い出す。

 村の明かりが森の奥からでも見えて、楽しげな音楽が風に乗って届いた。

 その光の輪の外で、ミナは小屋の灯をひとつだけ灯していた。

 「誰かの幸せを遠くから見守ること」しかできない自分に、少しだけ寂しさを感じていた。


 ――でも今年は違う。

 その予感が、胸の奥で静かに灯っていた。


 戸を叩く音がした。

 トントン、と控えめで、けれどはっきりとした音。

 ミナが戸を開けると、そこにはユトと先生の姿があった。


「おはようございます、ミナ姉ちゃん!」

「先生も……ようこそ。どうしたの?」

 ユトは嬉しそうに背中の袋をごそごそと探り、小さな包みを取り出した。

 包みの中には、赤いリボンのついた封筒がある。


「これ、先生が持ってきてくれたんだ!」

 先生は微笑みながら一歩前に出た。

「来週の土曜日に、村の広場で収穫祭を開きます。……もしよかったら、いらしていただけませんか?」


 ミナは驚いて瞬きをした。

「わ、私が? でも……」

「もちろん、森の子たちにも来てほしいと、みんなが言っています」

「みんな……?」

「ユトくんや、そのお母さん、そして市場の行商のアバさんも。あなたがいなければ、今年の収穫はこんなに祝えなかったって」


 ミナは言葉を失った。

 封筒を両手で受け取る。薄い紙越しに伝わるのは、確かな体温だった。

 それは“観測される側”の温もりではなく、“共に在ることを許された”温もり。


「……ありがとうございます」

 ようやくそう言葉にすると、先生は優しく頷いた。

「皆さん、あなたに会えるのを楽しみにしています」


 ルゥがその肩でぴょんと跳ねた。

「ぼくも行っていいの?」

 先生は微笑んで答えた。

「もちろん。あなたも、もう村の友だちです」


 その言葉に、ルゥの尾が小さく揺れた。

 ティアルだった頃――彼は「関わらぬ観測者」であり続けることを義務としていた。

 けれど今、森の風の中で聞いた“友だち”という響きが、かつての使命のどんな記録よりも重く、甘く胸に残った。


 先生とユトが帰ったあと、ミナは封筒を開いた。

 中には手書きの小さなカードが入っている。

 《ミナさんへ。ルゥへ。あなたに灯を見てほしい》

 その下には、いくつもの子どもたちの名前が並んでいた。

 丸く拙い字で書かれた“ありがとう”が、いくつも、いくつも。

 ミナは思わず目を伏せ、指先で文字をなぞった。


 その瞬間、あの日、観測層で“世界の出来事を数値化”していた自分の記録――

 いや、“彼女を見ていたティアルの記録”が遠くでざわめいた。

 数値にも、定義にもできない「幸福の粒子」。

 それが今、目の前にあった。


「ルゥ」

「なあに?」

「私……祭りに行くね」

「うん。ぼくも一緒に行く」

 ルゥは翼をばさりとひと振りし、陽光を受けて小さく輝いた。


 小屋の外では、風が森を渡っていく。

 遠くで鐘の音がもう一度響いた。

 それはまるで、ふたりを呼ぶような、温かな招待の音だった。


《観測記録・断章》ティアル=ルゥの記


風が名を呼ぶ。

名を持つことは、存在の輪郭を得ること。

そして誰かの輪に入ること。


かつて私は、「すべての始まりと終わり」を数で記していた。

だが今は、たった一つの言葉を記す。


――ありがとう。

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