第11話 ささやきが行き渡るまで
夜の雨が止んだあと、森の空気は水の粒を抱えたまま、ゆっくりと光を返していった。
小屋の屋根から滴る水音が、まだ眠たげな鳥たちの囀りと混ざっている。
ミナは炉の火を細くして、湯の残りを小瓶に移した。昨夜、ユトの母に渡したのと同じ薬湯だ。草の匂いが、まだ指に残っている。
――きっと、よくなっている。
そう思いたかった。そうでなければ、あの子の泣き声が、夜の森の奥でいつまでもこだましそうで。
ルゥが窓辺で尻尾をゆるやかに振る。
「……あの子、もう笑ってるかもしれないな」
竜の声は静かに響く。ミナは微笑んで頷いた。
「うん。お母さんも、安心してるといいね」
そんな祈りを胸に、その朝の支度は終わった。
ユトの母は、朝早く水を汲みに出ていた。昨夜の薬草の香りを思い出しながら、桶を満たす。
そのとき、井戸のそばに二人の女たちがいた。どちらも幼い子を抱え、手ぬぐいで汗をぬぐっている。話の端に“熱が下がった”という言葉が聞こえた。
「え、あの夜の? また熱が出てたの?」
「そうなの。でも、森の子が来てくれてね。草を煎じてくれたの」
「森の子?」
「ミナさんっていうの。ほら、いつも静かにしてるけど、すごく丁寧で――」
井戸の水面が小さく波立つ。
ユトの母はその揺らぎを見つめながら、そっと微笑んだ。
「うちも助けてもらったの。あの子、本当に優しいのよ」
そんな言葉が、水面を撫でる風のように、もうひとつの家へ、またその隣へと運ばれていく。
森の縁の出来事が、少しずつ人の輪の中に混じり始めていた。
週に二度だけ、村の広場には小さな市が立つ。
野菜や干し魚、織物を並べる屋台の合間に、笑い声と物音が溶け合う。
ユトの母はその日、少し良い塩を買いに出かけていた。
大声で野菜を売る行商のアバが、彼女に声をかける。
「おや、元気そうじゃないか。前に子の熱がひどいって言ってたろう?」
「ええ、おかげさまで。もう元気です」
「薬でも買ったのかい?」
「いえ、森の方に住む娘さんが……草を煎じてくれて」
アバは眉を上げる。
「森の娘? それはまた珍しい。名は?」
「ミナさんって言うの。お礼に何か持っていきたいくらいです」
アバはにやりと笑い、籠に野菜を詰めながら言った。
「いい話は、遠くまで届くもんだ。森の娘か……覚えておこう」
その日の午後、アバは別の村へ野菜を売りに行った。
行商人が持っていくのは品物だけではない。話も一緒に運ばれていく。
そして、誰かがその話をまた別の誰かに伝え、輪はゆっくりと広がっていった。
数日後の夕暮れ。ユトは村の広場で、友だち数人と遊んでいた。
彼が手に持っているのは、ミナに教わった薬草の小束。乾かした葉を束ねたもので、ただの遊び道具に見えるが、ユトにとっては誇らしい“教えの証”だった。
「これ、ミナ姉ちゃんに教えてもらったんだ。煎じるとすぐ元気になるんだぞ」
「ほんと? あの森のミナ姉ちゃん?」
「うん。パンのこね方も教えてくれた。ほら、こうやるとふわふわになるんだ」
ユトはパンをこねる真似をしながら笑う。子どもたちは興味津々で真似をする。
夕焼けの色が、彼らの髪を照らしていた。
その夜、子どもたちは家でその話をした。
「ミナ姉ちゃんがね、パンの作り方を教えてくれたんだ!」
「ミナ姉ちゃんって誰?」
「森に住んでる優しい人!」
その一言が、家族の食卓に小さな波紋を起こす。
噂はいつのまにか、子どもの声で“あたたかい実話”として伝わっていった。
村の小さな学校では、先生が出席簿を眺めていた。
先週まで、風邪で休む子が多かった。だが今週は違う。
ユトも含め、子どもたちは皆、顔色が良く、声も明るい。
「どうしたの、みんな。最近、よく食べてるのね」
先生がそう言うと、ユトが小さく手を挙げた。
「ミナ姉ちゃんがね、草の煎じ方を教えてくれたんです」
「ミナ……姉ちゃん?」
「森の中に住んでるんです。とっても優しい人です」
先生は少し眉をひそめた。
森の中には、長いこと人がいないと聞いていた。
けれど、子どもたちが口々に同じ名前を言う――その一致は偶然ではない。
彼女は教師としての好奇心よりも、保護者としての心配が先に立った。
「どんな人なのか、確かめなければ」と。
その翌朝、先生は教室の窓を開け、風を吸い込んだ。
柔らかな草の匂いと、遠くから鳥の声が届く。
かごに小さな包みを入れる。
中身は、子どもたちが折った花の形の紙と、焼きたてのパン。
「ユトくん、今日放課後、案内してもらえる?」
「えっ? ミナ姉ちゃんのところにですか?」
「そう。お礼を言いたいの」
ユトはうれしそうに頷いた。
午後、ふたりは森の小道を歩いた。
陽の光が木漏れ日となって地面を模様のように照らす。
ミナの小屋は、木々の奥にひっそりと佇んでいた。
戸口を叩くと、ミナが顔を出した。
ユトが手を振り、後ろの先生を指差す。
「先生だよ! ミナ姉ちゃんにお礼を言いに来たんだ!」
ミナは少し驚いたように瞬きをしたあと、柔らかく笑った。
「ようこそ。こんな森の奥まで……」
先生は籠を差し出した。
「子どもたちが、あなたに感謝しています。私も。あなたの助けがなければ、あの子たちはまだ熱に苦しんでいたかもしれません」
ミナは受け取った籠をそっと抱きしめた。
「私はただ、できることをしただけです」
「その“できること”が、ここではとても貴重なことなのですよ」
言葉に詰まるミナの横で、ルゥが静かに尾を揺らした。
小さな竜の目が、火の光を映してきらめく。
先生は一瞬、息を呑んだが、次の瞬間には穏やかに笑った。
「……とても、優しい目をしているわ」
ミナはほっと息をつき、ルゥに目をやる。
「この子も、みんなを守りたいんです」
先生は頷き、森の風を感じながら言った。
「また来ますね。今度は、子どもたちと一緒に」
森を抜ける道すがら、先生は静かに呟いた。
「……あんなに優しい人が、森でひとりなんて」
「ミナ姉ちゃん、ひとりじゃないですよ」
ユトが胸を張る。
「僕がいるし、ルゥもいます」
先生は微笑んだ。
「そうね。じゃあ今度は、みんなでお礼を言いに行きましょう」
風が枝葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いた。
その音が、まるで村へ知らせる合図のように、響き渡った。
記録詩:観測層にて
人は、声を重ねることでひとつの形をつくる。
言葉は風に似て、真実を運び、時に飾りをまとう。
けれど、その飾りが人を繋ぐなら――それもまた祝福のひとつだ。
私は今、風を見ている。
あの日、観測の座を離れた私が望んだのは、
この小さな波紋のような奇跡だったのかもしれない。
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