第2話 死神、命で割に合わない
朝の通知音が鳴った。
死神課・現世担当、クロムのスマホ画面には、新たな「対象者」が表示されている。
『対象者:白石慎一(しらいし しんいち) 43歳 男性
職業:商社勤務
原因:業務上の重大ミスによる自殺予兆』
クロムはコンビニのカウンターでコーヒーを受け取りながら、ぼそりとつぶやいた。
「……あー、また“日本特有の死に方”だ」
隣の席では、骨の同僚ハッコツがドーナツをかじっている。もちろん、骨なので口はないが。
「仕事でやらかして死ぬってやつか。相変わらず多いな、人間の世界」
「“命で償う”とか言ってるけど、命ってローンでも担保でもねぇんだよな……」
「でも、お前、止めに行くんだろ?」
「行くさ。止めたら課長がうるさいけどな」
「どうせまた“缶コーヒー戦法”だろ?」
「それ以外のやり方、俺知らねぇんだよ」
クロムは肩をすくめ、黒いコートを翻した。
店を出ると、冷たい雨が降り始めていた。
人間たちは傘をさして足早に通り過ぎるが、クロムに傘は不要だった。
雨粒は、彼を避けて落ちていく。
目的地は都心のオフィス街。
ビルの屋上で、スーツ姿の男がフェンスを越えて立っていた。
***
白石慎一は、昨日で人生が壊れた。
担当していた取引先に誤った数値を提出し、取引金額にして三億円の損害を出した。
社長は激怒し、取引先は契約を解除。
部下は責めずに黙っていたが、その沈黙が逆に刺さった。
妻には言えなかった。
子供の笑顔が痛かった。
自分が存在していい理由が、ひとつも思い浮かばなかった。
「……もう終わりだ」
白石はポケットから封筒を取り出した。
遺書だ。
誰もいない夜の屋上。
吹き抜ける風の中で、彼はそっと目を閉じた。
その時だった。
「死ぬにはいい天気だけど、ちょっと湿気多いね」
背後から聞こえた声に、白石はぎょっと振り向く。
そこに立っていたのは、黒いコートを着た青年。
傘もささず、笑っている。
「……誰だ、お前」
「死神。あ、でも今日は残業だから“死神(夜勤)”かな」
「は?」
「俺、クロムって言うんだ。死が近い人のとこに呼ばれる職業病みたいなやつ」
「……悪い冗談だな」
「冗談じゃないよ。君の命、あと五分って通知来てるし」
「……は?」
「ほら」
クロムがスマホを見せると、そこには確かに白石の名前とタイマーが表示されていた。
「……なんだそれ」
「タイムカードみたいなもん。君が飛び降りた瞬間、俺の業務時間が“退勤”になる」
「ふざけるな……!」
白石は怒鳴り、フェンスの上に足をかけた。
だがクロムは、ポケットから缶コーヒーを取り出し、静かに言った。
「死ぬ前に飲む?苦いやつ」
「……は?」
「俺、死にかけた人間にコーヒー飲ませるのが趣味なんだ。生きるって味、思い出すから」
「そんなもので……」
「そんなもので、変わる人もいるんだよ」
クロムは缶を差し出す。
白石は迷いながらも、それを受け取った。
プルタブを開ける音。
小雨が屋上のコンクリートに音を立てて落ちる。
一口飲んだ瞬間、白石は顔をしかめた。
「……にがっ!」
「でしょ?“生きるって苦い”ってやつ」
「……洒落になってねぇよ」
クロムはフェンスの向こう側へ視線をやる。
下には夜景。光の川。
誰もが忙しく生きている街だ。
「で、聞かせてよ。なんで死ぬの?」
「……俺のせいで、会社が潰れる。部下も巻き込んだ。家族にも迷惑をかける。
こんな俺が生きてても意味がない」
「ほう。“生きてても意味がない”ってやつだ」
「違うのか?」
「違うね。
意味が“ない”んじゃなくて、“見つける前にやめた”だけ」
「……」
「君がやったミスで損した会社もある。怒ってる人もいる。
でもね、“死んで帳消し”にしたら、それ以上、誰も立ち直れなくなるんだよ」
「……そんな綺麗事を」
「綺麗事じゃない。現実だ。
死んだら、謝れない。
死んだら、誰かの中に“未練”が残る。
君の奥さんも、子供も、“自分が殺した”って背負う。
――それが“死神の後始末”で一番きついんだよ」
クロムの声が、ほんの少し震えていた。
白石はそれを見逃さなかった。
「お前……本当に死神なのか?」
「たぶんね。ブラック役所の死神だけど」
クロムは肩をすくめ、笑ってみせた。
だがその笑いの奥に、確かな“祈り”があった。
「君が死んだら、俺が書類に“未練処理・要再訪”って書く。
それ、すっごい面倒なんだよ。頼むからやめてくれ」
「……そんな理由で止めるのか」
「動機なんて何でもいいさ。死ぬよりマシなら」
沈黙。
屋上を風が抜け、遠くで救急車のサイレンが響いた。
白石は、手の中のコーヒーを見つめる。
缶の底に小さな文字が書いてあった。
『DEATH ENERGY ― 生きてる間に飲め』
ふっと、笑いが漏れた。
「……誰がこんなラベル考えたんだ」
「俺。センスあるだろ」
「最悪だよ」
「ありがとう」
白石はゆっくりとフェンスから降りた。
足が地に着いた瞬間、クロムのスマホに表示された“タイマー”が静かに消えた。
クロムは胸をなでおろす。
「……今日も“未遂”で済んだ」
白石は、手にしたコーヒーを見つめながら呟いた。
「……俺、これからどうすればいい?」
「知らないよ。でも、“どうしよう”って思えてる時点で、まだ生きる気あるってこと」
「……死神のくせに、よく喋るな」
「死神だって、たまには命の味方したいんだよ」
白石は深く息を吐いた。
雨はもう止んでいた。
雲の切れ間から、月が顔を出す。
クロムはポケットから小さな名刺を取り出し、渡した。
『死神課第七班現世対応部
クロム・サトウご相談はお気軽に。
※死後のフォロー不可』
「……なんだこれ」
「俺のLINE代わり。死にたくなったら、スマホが勝手に鳴るから」
「……勝手に鳴るのかよ」
「便利でしょ?」
白石は呆れたように笑い、名刺をポケットにしまった。
クロムは踵を返す。
「じゃ、俺、次の現場あるから。今度はちゃんと残業代もらえるといいな」
「おい、死神に残業代あるのか?」
「ない。でも夢見るのは自由だろ」
軽口を残して、クロムの姿は風の中に消えた。
***
翌朝、白石は出社した。
誰も彼を責めなかった。
むしろ、部下たちが一言だけ言った。
「――帰ってきてくれて、よかったです」
彼は泣いた。
声を出して、子どものように。
***
その頃、彼岸の事務所では、デス課長が怒鳴っていた。
『クロム!また“処理未完了”だな!!』
「いやぁ、彼、生きるの選んじゃって。すいません」
『死神のくせに生きるほうに肩入れするな!』
「いやぁ……俺、死神だけど、“生き神”でもいい気がしてきた」
『お前の存在は規定外だぁぁぁ!』
課長の怒号が響く中、クロムは天を仰ぎ、
つぶやいた。
「命で償うなんて、安すぎる。
――生きて、苦しんで、それでも前に
進む。それが一番、命の高い使い方だ」
机の上のコーヒーが湯気を立てていた。
その味は今日も、苦くて、少しだけ甘かった。
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