死神の憂鬱〜生と死のあいだで〜

KAORUwithAI

第1話 死神、少女と出会う

朝の東京は、今日も死にかけていた。

 いや、比喩ではない。ビルの屋上でフェンスに手をかける人間の数、実に五人。橋の欄干に腰をかけているのが二人。SNSで「もう疲れた」と呟いた人間、ざっと三十万。

 死神・クロムの端末の画面には、そんな“自殺予告トレンド”がずらりと並んでいる。


「おっ、今日も人気ワードは“死にたい”っと。安定の一位おめでとうございます」


 クロムは電柱にもたれかかりながら、コーヒー缶を片手にぼやいた。

 黒のロングコートに銀髪。けれど、誰も彼の姿に気づかない。死神とはそういう存在だ。必要な時だけ、人間の目に映る。


 スマホが震えた。画面には「デス課長」の名。

 嫌な予感しかしない。


『クロム! お前また現場に行ってないな!? 午前シフト始まってるぞ!』


「課長、おはようございます。いやぁ、渋滞で――」


『お前、幽体だろうが! 道路事情関係ないだろ!』


「あ、そうでしたね」


『口答えするな! 本日担当の人間、ID30124“天音葵”だ。十七歳、女子高生。屋上。例によって飛び降り寸前だ!』


「……また屋上っすか。俺、最近屋上ポイント貯まりすぎて景品もらえそうなんですけど」


『いいから行け! そして“予定通り”処理しろ!』


 通信が切れる。クロムはため息をつき、空を見上げた。

 快晴。死ぬにはもったいない天気だ。


「……ま、行くか」


 指を鳴らすと、視界が一瞬白くかすんだ。

 次の瞬間、彼は高校の屋上に立っていた。


 吹き抜ける風。

 屋上のフェンスの向こうには、制服姿の少女が立っている。足を外に出し、つま先が宙を切る。

 その目は、もう“こちら側”を見ていなかった。


 クロムは、缶コーヒーを一口すすりながら声をかけた。


「死ぬにはいい天気だけど、日焼けしそうだね」


 少女がぴくりと肩を震わせ、振り向く。

 細い体。長い黒髪。虚ろな瞳の奥に、かすかに生気が揺れた。


「……誰?」


「死神。だけど、今日は休暇中ってことにしておこうか」


「死神?」

 少女は目を細め、乾いた笑いを漏らす。

「なにそれ。ギャグ?コスプレ?」


「いやいや、フルタイムの公務員だよ。死神課所属、クロム・サトウ。勤続三百年、今月の回収率最低記録更新中」


「そんな肩書きいる……?」


「いるんだよ、組織ってのはどこも面倒なんだ。魂管理局、書類地獄、残業無限。地獄って案外オフィスみたいなもんでさ」


 彼はフェンスに背中を預け、空を見上げた。

 少女は呆れ顔で見つめる。


「……で、その死神さんが、何しに来たの?」


「君を迎えに」


 少女の表情が、一瞬だけ曇る。

 けれどクロムはすぐに続けた。


「……でも、今日はめんどくさいからサボることにした」


「は?」


「だって、君まだ死ぬ気満々でしょ?そういう時に連れていっても後味悪いんだよ。だから、まずはコーヒーでもどう?」


「……死神が、サボる?」


「うん。最近のトレンドは“働かない死神”なんだ。ブラックすぎてみんな燃え尽きてる」


 クロムはポケットから缶コーヒーをもう一本取り出して、差し出した。

 ラベルには「DEATH ENERGY」と書かれている。


「どっから出したの、それ」


「職権乱用。まあ、飲んでみな。味は保証しないけど」


 少女は半信半疑で缶を受け取り、プルタブを開けた。

 一口。――むせた。


「苦っ! 何これ!」


「“死神専用ブラック”。未練ゼロになる味だってさ」


「二度と飲みたくない……」


「いい傾向だね。まだ“生きて味わいたくない”って感覚、残ってる」


 クロムは笑い、フェンスに寄りかかった。

 少女は黙り込み、風に髪をなびかせる。


「……あんた、名前は?」


「クロム。クロム・サトウ。好きに呼んでいいよ。君は?」


「天音。天音葵」


「葵か。いい名前だ。春の色だ」


 少女――天音は小さく息を吐く。

「……死神なのに、優しいこと言うんだね」


「仕事で慣れてるだけさ。死に際の人間って、みんな似た顔してる。悲しいとかじゃなくて、虚しい。

 “何かを残せなかった顔”ってやつ」


「私、何も残すものなんてないよ。誰も気づかないし、いなくなっても困らない」


「困る奴、一人くらいいるもんだよ。君が落とした消しゴム拾ってくれたやつとか」


「そんな……」


「いや、本当にいる。そういう奴が。で、君が死んだらそいつは“あの時もっと話しておけば”って思う。

 ――それが未練になる。俺ら、そういうの処理すんの大変なんだよ」


 天音は少し俯き、苦笑した。

「……死神のくせに、生きるの勧めるの?」


「命を刈り取るのは仕事。自殺を止めるのは趣味」


「趣味?」


「うん。俺の唯一の楽しみ。だって、誰かが“生きる”って選んだ瞬間って、めっちゃ綺麗なんだよ。光るんだ、魂が」


 クロムの言葉に、天音はしばらく何も言わなかった。

 やがて、かすかに笑った。


「……変な死神」


「褒め言葉として受け取っとく」


 ふたりの間に沈黙が落ちる。

 遠くでチャイムが鳴り、昼休みの喧騒が聞こえてきた。


「戻んなくていいの?」とクロム。


「……いいの。私、クラスで浮いてるし。誰も気づかない」


「気づかれないのと、見ないふりされるのは違うよ」


「……」


「死ぬのはいつでもできる。生きるのは今だけだよ。今日は生き残った記念に、

放課後コンビニでも行こうか。新作のメロンパン出てたよ」


「死神なのに甘党?」


「死神だから甘党。苦い人生ばっか見てると、舌まで腐るんだ」


 天音がくすっと笑う。

 その笑顔はほんの一瞬、春の日差しみたいに柔らかかった。


 クロムは心の中でそっと呟いた。

 ――あぁ、これが“まだ生きたい”顔だ。


***


 夕方。

 ビル街の隅、古びた公園のベンチで、クロムはコーヒーを飲んでいた。

 スマホが震える。画面にはまた“死神課長”の文字。


『クロム! また“処理”してないな!? 報告書が空白だぞ!』


「いやぁ、奇跡的に“生存”しちゃいましてね」


『貴様ァ! 仕事放棄だぞ!』


「課長、死神が人を救っちゃいけないって、どこに書いてあります?」


『死神の定義書第一条だ!』


「あぁ、“死に導く”ってやつですか。でも、“導く”って、必ずしも“殺す”ことじゃないでしょ。

 死にかけてる心を“生”に導くのも、立派な仕事じゃないっすか?」


『屁理屈をこねるな!!』


「屁理屈じゃないっす。俺、今日ちょっといい笑顔見たんですよ。魂が光る瞬間ってやつ」


『貴様……!またロマンチストぶって……!』


 通信の向こうで、課長の怒号と書類の音が混じる。

 クロムは苦笑して通話を切った。


 空を見上げる。

 オレンジ色の夕焼けが、ビルの谷間を染めていた。


「……死神の仕事も、悪くないな」


 その呟きに答えるように、ポケットの中のスマホが“ピコン”と鳴った。

 通知:「#死神ありがとう」というハッシュタグが、一件だけ。


「……まさか」


 開くと、投稿者は“Amane_Aoi”。

 写真には、空を見上げて笑う少女と、

コンビニのメロンパン。


『今日、生きててよかった。』


 クロムは思わず吹き出した。

 肩をすくめて、笑いながら空を見上げる。


「はぁ……ほんと、人間って面倒くさい。……でも、悪くない」


 風が吹き抜け、桜の花びらが一枚だけ、彼の肩に落ちた。

 クロムはそれを指先でつまみ上げる。


「春、か……」


 死神の目に、ほんの少しの憂鬱と、確かな“生”の色が映っていた。

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