第17話


「目撃者によると、ボロボロの黒い着物に袈裟を着た禿頭の老人だったらしい」

 翌、管轄は違うが担当の刑事が馴染みのおかげで情報を得られた、と宗次郎は怒りを押し殺して廃寺に行く途中、和人の家に寄って流してくれた。分かった情報は限りなく少ない。

「ボロボロの黒い着物に袈裟? 僧侶ですか?」

「僧侶としか思えないが、車に乗っている際に見た情報だから齟齬があるかもしれん。しかしボロボロって言うのもな。短時間にそこまではっきりと見えたとは思えんが」

 目撃情報は車に乗っている時の情報であって、車両から出た情報ではないから正確さに欠く。

「車を降りた後の目撃情報は無いんですか?」

「それがな、五キロ程離れたビルとビルの隙間に車が乗り捨てられててな。見つけた時には運転手の老人らしき人物は周辺にもいなく、すでに逃走した後だった。目撃者は以降ぱったり見つからねぇ」

 和人は顎に手を添え、低く唸りながら考えた。

「涼太を轢いた後の情報が全くないのは気になりますね。ボロボロの黒い着物と袈裟に禿頭の姿は目立つのに、目撃情報が無いのは不思議です」

 ああ――宗次郎は大きく頷いた。

「もしかしたら――協力者がいるかもしれないですね」

「協力者か。無きにしもあらずだな。所轄の連中に伝えておく」

「協力者がいるってことは、色々話が変わってくるけど……」

 和人は険しい顔をした。

「計画的犯行、ってことだろ? そこは俺も訝しんでいた。だとしたら、涼太に恨みのある人間の仕業か」

「涼太に恨みを持つ人間がいるとは思えませんが」 

 林涼太という男は、小学一年生の折り父親を亡くしてから何より家族や幼馴染みを大切にし、温和で患者のために動く医者の鏡だと幼少からの付き合いのある和人と宗次郎は思っている。物腰柔らかな涼太は二九歳でありながら医院を開業し、気難しい患者たちの警戒心を簡単に解き話にきちんと耳を貸す、相当に頼れる貴重な存在なのだ。

 ――そんな涼太に殺意を持って実行に移す人物がいるのか。

 それを言うと宗次郎も、俺だってそう思っているよ――と幾分苛立ち気味に返してきた。

「宗次郎、涼太の一件が担当じゃなくて焦る気持ちは分かるが、今は自分の担当の事件を追うんだ。これ以上高木さんに良いようにさせるわけにはいかない」

「ああ、そうだな」

 深呼吸をして宗次郎は自身を落ち着かせた。

「すまない」

「いえ、俺も同じ――」

「ん? どうした?」

 ――耳鳴りがする。

 頭が一瞬で真っ白になり、自分の力で立っていられなくなった。

 ぐにゃりと、両足の関節が力を無くす感覚。

「お、おい、和、大丈夫か?」

 宗次郎に肩を抱き抱えられ、和人は首を振りながら呻いた。

 眩暈と吐き気と頭痛がいっぺんにやって来て、和人に圧力を掛けてくる。

「不確かですが、涼太を轢いた犯人……石塚晋二郎さん――じゃないですか?」

「は?」

 突拍子もない発言だ。

 白石信子の行方不明の父親である石塚晋二郎は警視庁のマル暴によって、八王子にある廃寺に潜伏してるという情報が入って、昨晩訪ねたが誰の姿も無く、鶴子のいた形跡も無く無駄足を食らった。

「何言ってやがる」

「昨夜、廃寺には誰もいませんでした。石塚晋二郎さんはその時、新宿にいて涼太を轢いたんじゃないでしょうか。容姿は分かりませんが、黒い着物に袈裟、禿頭となると選択肢が限られてきますよね」

「極論だぞ、和」

「確かに。寺に僧侶がいるなら廃寺の筈ありません」

 目撃情報は『ボロボロの黒い着物に袈裟』の『禿頭の老人』のみ。それだけでは犯人が石塚晋二郎とは断言できない。

 それは和人も理解している。

「どうしても今日、一緒に廃寺に行くことはできませんか?」

 懇願した。

 鶴子の件と涼太の件が同じ線の上にあるのではないか、と危惧している。それは涼太のひき逃げ事件も和人に関係があり、他人から見たら全ての原因は嵐橘和人にある、と言っているようなものだ。

「少しの時間で構わないので」

「昨晩行った時もそうだったが、橋本鶴子さんがいるとは限らないぞ」

「分かっています。それでも、お願い出来ませんか?」 

 宗次郎は胸の前で腕を組み、獣のような呻き声を発した。

「まあ――良くはねぇが。いいや、来い」

「ありがとうございます」

 フン――と宗次郎は鼻息を荒くして明後日の方向を向き、昨夜同様和人を後部座席に座らせ、若井の運転で廃寺へ車を発進させた。

 舗装のされていない細い道は、相変わらず凸凹でクッションの無い座席では尻が痛む。宗次郎は苛つきながらハイライトに火を付けた。

 煙が宙を漂うのを、何の気無しに見詰めていると崩れかけた門扉が右手に見えてきた。

 昨晩は宗次郎と若井以外の捜査官がいると言っていったが、姿も車両も見当たらない。訝しんで和人が宗次郎を見やると、煙草の吸殻を地面に落とし右足で捻り潰した。 

「宗次郎」

「まぁ、他の捜査官は別の所に行って事情聴取してるようだな」

 素知らぬ顔で言う宗次郎の脇腹を和人は小突いた。

「先輩、先生。戯れてないで早く来てくださいよ」

 すまんすまん――宗次郎が小走りに、先に門を潜った若井の元へ駆け寄った。

 大量の赤い花が三人を出迎えている。

 鮮やかだ。

 夜と昼と印象が違う。

 あれだけ不気味だった赤い花はどこへ行ったのか、鮮やかな色の花びらが太陽に薄く透け可愛らしく風に揺れている。


 ゆら。

 ゆらゆら。

 

 一輪に手を添え固定して、よく見た。

「これは――」

「どうした?」

 和人は周囲の赤い花を急いで見回した。

 どれも同じ赤い花だ。

「これは、ケシです」

「何?」

 一九七十年のこの年、清(現在の中華人民共和国)とイギリスによるアヘン戦争から百三十年である。

 インドで製造したアヘンをイギリスは清に輸出し巨額の利益を得た。アヘン販売を禁止していた清はアヘンの蔓延に対し、全面禁輸を断行しイギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、イギリスは反発し戦争となった。 

 日本では全草(特にさく果・根)にテバインを含有し、アサやコカノキ等と共に麻薬の原料植物となる『ハカマオニゲシ』は、「麻薬及び向精神薬取締法」・「アヘン法」によって、原則栽培が禁止されている。植えてはいけないケシは『ケシ』『アツミゲシ』そして先にも述べた『ハカマオニゲシ』がある。未熟な果実の表面を傷付け、滲み出てきた乳液中には高濃度の麻薬性のケシアヘンアルカロイド、テバイン含み乾燥したものを『アヘン(阿片)』といい、有効成分を分離し精製して『鎮痛剤』や『鎮咳薬』として利用している。

 アヘンは医薬品として、医師の処方箋に基づいてのみ入手可能。具体的に、激しい下痢や痛みを止めるために使用されている。

 原産地は中央アジアのカフカ―ス地域(トルコ北東部、イラン北部、アルメニア、アゼルバイジャン)である。

 開花時期は五月から六月。

 十二月も半ばのこの時期に咲くことはない。なのに広大な墓地の合間合間に咲く赤い花、全てケシだ。

「こんなにケシが?」

 乾燥した土に雑草が生え、その合間合間に草丈一メートルくらいで、葉や茎全体が白く、硬い毛で覆われている赤いケシが我が物顔で堂々と天に向かって伸びている。 

「これは――多分、ハカマオニゲシですね」

 花色が深紅で花弁の基部に黒斑が生じ、花弁のその下に俗にハカマと呼ばれる苞葉がある。

 ああ――宗次郎は落胆したように息を吐き、若井に本庁に連絡するよう指示を出すと和人の方を険しい顔付きで見た。

「これが本当にハカマオニゲシだったら前代未聞だ」

「ええ、別の品種と見分けるのが専門家でも難しいと言われてますが、その別の品種であることを祈ります」

「こんなひでぇ状況だが、お前の捜索は本庁から増員が来るまでだ。現場を荒らすなよ」

「ありがたい。肝に銘じます」

 朽ち掛けた本堂を見やる。二人は同時に本堂へ足を向けた。

 数段の階段を慎重に上り、警戒しながら薄暗い中を覗く。

 いない。

「誰もいませんね」 

「ああ」

 本堂の中に入ると昨日は気付かなかった大量の瓶が、外陣の右端に乱雑に散らばっていた。和人は近付いて酒瓶を持ち上げた。

 全て空。

 臭いを嗅ぐと、想像した通り酒が入っていたようだが、瓶の外側に製造表記等のラベルは貼っていない。ラベルを剥がした形跡もなかった。しかし、どの酒瓶も僅かに液体が残っていることから最近の物だろう。

 酒瓶の数を数えると、十四本。

 毎日飲むとしたら二週間分だ。

「ただの酒瓶だろ? ここにはもう他に何も無いな。俺は外見てくるよ」

「はい」

 和人は本堂内に残り、くまなく見て回った。

 仏堂まで行くには床の板が腐食し、抜けてしまっている部分もある。人間の体重によっては踏み抜く危険性もあった。

 昔は本尊が祀ってあった仏堂や内陣は段差が残っているだけで仏具も本尊も無い。何か無いか慎重に見て回ったが、酒瓶以外本当に何も無かった。

 念の為、抜けてしまった床から下を覗いてみたが、暗い上に雑草が生い茂っていて隅々まで見えない。次いで床を見る。

「こんな所に人が住んでいるとは思えないが」

 この場で唯一の発見は、床に埃が溜まっていないことだ。酒瓶と床が人の出入りのある証拠だろう。

 和人は本堂を出て宗次郎と合流しようとした時、背後から殺気を感じた。

「!?」

 左腕に重い衝撃が走った。

 背後を振り向く。

 そこにいたのは、ボロボロの黒い着物に袈裟を付けた禿頭の老人だった。

 皮と骨だけの骸骨のような老人だ。

 しかし――。

 どこから出て来たのか。

 本堂の出入り口には和人が立っていた。他に出入り口は無い。

「い、石塚――晋二郎さん?」

 右手には錆びた包丁。

「――……!」

 荒い呼吸の老人は機敏な動きで、更に和人目掛けて包丁を振りかざした。

「石塚さん!」

 騒ぎを聞きつけた宗次郎が、和人に飛び掛かる寸前の老人を背後から羽交い絞めにした。次いで若井が右手に持った包丁を奪い取る。

「和、平気か?」

「ええ」

 左腕を抑えた。腕から指先へ鮮血が滴り落ちている。

「石塚晋二郎、だな?」

 羽交い絞めにされて地面に突っ伏している老人に、宗次郎が話しかけた。

 しかし、老人は苦し気に呻いているだけで返答はない。

「どのみち傷害罪だ」

 老人に手錠をかけた。

「和、捜索は中止だ。このまま車まで行くぞ。手当が必要だ」

 老人を起き上がらせ、二人掛かりで外に出る。

 うう――と呻き続ける老人は二人に引き摺られて、どうにか門前まで移動した。

 ボロボロの黒い着物に袈裟、禿頭の老人は昨日の涼太を轢き逃げした目撃証言のままの恰好をしている。マル暴の捜査

通り廃寺を住処にしているなら、この老人が石塚晋二郎に違いない。

「石塚さん、石塚晋二郎さん」

 呼び掛ける。

 獣のように呻き、口の端から唾液が垂れ下がっていた。目が血走り正気を失っている。呼気は酒の臭いを漂わせていた。

「石塚さん、ここに女性はいませんでしたか? 髪の長い女性です!」

「和、今は無理だ。署で落ち着かせてから話を聞くから、待っていろ」

 そうですが――言い掛けて口を噤んだ。どう見たところで、様子のおかしい老人が正確に答えてくれる筈もない。

 無理やり車の後部座席に乗せられた老人は、俯せになって座席に転がった。

 和人はもう一度墓場内を見回したが、無数の赤い花が風に揺れているだけで高木誠らしき人影も、橋本鶴子らしき人影も見当たらない。肩を落とし、背後の車に目線を移した。

「――女か。女ならおるぞ。ほら、そこにも、あそこにも……」

 老人は顎で墓場を指した。

「ほれ、男もおるぞ。男も女もそこらじゅうにおるではないか!」

 釣られて墓場を見たが、誰もいない。

 

 あるのは、赤い花。

 

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 ゆらゆら、ゆらゆら――。

 

 誰もいない。

 無数の赤い花が咲いているだけ。

「ああ、見えぬか。見えぬか」

「いい加減なこと抜かしているんじゃねぇぞ!」

 宗次郎が怒鳴った。

「見えぬか、見えぬか。そうか、そうか」

 ヒヒヒ――と不気味に高笑い声を上げた。

「そうか、そうか」

 今度は満足気に頷いている。その態度が宗次郎を苛つかせた。

「てめぇ!」

「先輩、落ち着いてください!」

 殴りかからんばかりの宗次郎を若井が必死に止めている。さっきまでの和人に対する冷静さはどこへ行ったのか。こういう姿を見ていると、やはり刑事なのだな――と和人は普段見せない幼馴染みの姿に感心した。

「若造が、何を喚いておる。ほれ、亡霊もお主を嘲笑っておろうが」

「亡霊?」

 三人が異口同音繰り返した。

「そうだ、亡霊だ、亡霊だ! ホレ、そこにも、あそこにもおろうが!」 

 

 ゆらゆら、ゆらゆら。

 ゆらゆら、ゆらゆら――。

 

 ゆら。

 

「静かにしろ。亡霊なんているわけないだろ」

 若井が上半身を起こし掛けた老人を押さえると強すぎたのか、ぐえ――と蛙の潰れたような声が下敷きになった老人から聞こえた。

「亡霊はおるぞ」

 

 おるぞ、おるぞ、おるぞ、おるぞ――。

 

 壊れたレコードの如く、老人の口から繰り返し同じ言葉が吐かれた。 

「先輩、俺、気が狂いそうです!」

「何根ぇ上げてやがる」

 若井の尻を叩くと、ぎゃぁ――とねずみ男の口から醜い悲鳴が漏れ出た。

 

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