第12話
――こんなにも愛してくれているのに、私は何を怖がっているのだろう。
――こんなにも幸せなのに、どうして私は不安に飲まれているのだろう。
長い黒髪を梳いた。
あの人がこの黒髪を褒めてくれた――褒めてくれたから手入れも入念になる。褒めてくれる前まではボサボサの長しっぱなしで手入れも怠り、誰もが煙たがった浮浪者紛いの生活をしていた。
――そんな女にあの人はにっこりと笑みを浮かべ話しかけてきてくれた――。
男も女も一目惚れだった。
男は女を愛し、女もまた男を愛すのに誰も止める者はいない。
逢瀬を繰り返し、二人は程なくして同棲を始めた。
女は幽霊や化物の存在は否定的だが、言霊だけは信じている。
毎日毎日、男は女を褒めた。
おかげで徐々に自信を持ち始めた女は、男の言葉に応じて綺麗になっていく。
男は更に女を愛し、生涯共に生きていくことを誓った。
女は幸せだった。
幸せだが、怖かった。
幸せ過ぎて、恐ろしい。
人間の心は非常に移ろいやすいのだから。
男は自分に飽きて他の女の所に行ってしまうんじゃないかと恐ろしかった。
この不安を抱えて生きて行くのは辛い。
だからある日、女は男に白状した。
私は愛されるべき人間ではない――と。
男は愛する女の言葉を一字一句逃すまいと、親身になって聞いた。
それはどこにでもある悲しい過去だった。
「母は私が十五の時に亡くなりました。自殺だったんです」
女が俯くと美しく長い髪の毛に顔が隠れてしまい、表情を伺い知ることは叶わない。蚊のように小さな声、細い肩は微かに震えている。
男は女を抱き締めたい衝動に駆られるが、ぐっと堪えた。
「父は母の死の直後、姿を消しました。今も生きているのか、どこかにいるのかも分かりません」
語り出した女が不憫で、男は己が涙するのを厭わなかった。
「父は働いていませんでした。お酒に女性関係、ギャンブル、何百万も借金をして、昼夜問わず働いていた母に暴力を振るいお金をせしめて何年も何年も苦しめていたんです。当時まだ子供だった私は父を軽蔑していましたが、止めることも母を守ることすらもせず、ただただ恐ろしくて家の隅に隠れて泣いてばかりでした」
――私は無力でした。だから。
だから――女は小さく吐息を漏らすと、ゆっくり顔を上げた。
「罪深いんです。声を上げて誰かに助けを求めることもせず、私は両親から逃げて逃げて、見て見ぬ振りをし続けたんです」
そんな罪深い女が幸せになる資格なんてないんですよ――母に負い目を感じていた。
そんなある日いつものように朝起きたら、母が死んでいた。
首にロープを巻き付けて、天井からぶら下がっていたのだ。
母は――どこか安堵の表情をしていた。
解放される喜びに。
「それから程なくして、父がいなくなったんです。そもそも家には母からお金をせびるためだけに帰って来る人だったので、いつものように今回もどこかに女でも作って入り浸っているのだろうと思って、探すこともしませんでした。むしろ帰ってきてもらっては困るとすら思っていました」
それが一日一週間一ヶ月一年と時間が流れ、女はあれだけ毛嫌いしていた父親のことが心配になった。どんな父親でもたった一人の父親なのだ。
しかし行動に移すのが遅かった。立ち寄りそうな店を探したが、父親の痕跡は一つも残されていなかったのだ。
「施設でお世話になって、中学校を卒業したばかりの私に出来ることはこれだけだったんです。お金さえあれば探偵を雇うなり出来たと思いますが」
生きることに必死だった女は父親を探すことを諦めた。
「失望しましたか? こんな女なんです、私は」
弱々しく微笑んだ。
男はゆるく頭を振ると女を抱き締めた。
「頑張ってきたんだね。もう君も解放されていいんだ。幸せになっていいんだよ」
優しい声色が女の脳に響き、一筋二筋と雫を流す。
「ずっと一緒にいよう。君を守るよ」
――ああ…………。
――愛されていいんだ、愛していいんだ――。
「ありがとうございます――ありがとう、ございます…………」
女は目を閉じ、男の優しさを噛み締める。
四畳一間の狭いアパートの一室。
自分たちだけの空間。
柔らかな空気がゆっくり流れる。
柱時計だけが正確な時を刻んでいた。
互いに抱き締め合い、温もりを呼吸を共有する。
幸せだった。
女はこの時しっかりと幸福を感じていた。
――出会えて良かった。
そう思える程に男の愛を信じていた。
なのに――。
狂った。
何が女をそうさせたのか、それは女にしか分からない。
ただただ、嫌だ嫌だ――と泣き叫び、どれだけ抱き締めても、女は男の声に耳を貸そうともしない。どれだけ医者に診せようとも男を見ようとしない。
どうすることも出来なくなった男は酒に溺れた。
そんな男を目の当たりにした女は更におかしくなっていった。
男の女に対する愛情は変わらない。
女の男に対する疑惑が生まれた。
酒に溺れ、女を買い、ギャンブルに借金をしている、と。
父親のようになってしまったのではないか、と。
だから――。
苦しむのはもう辞めた。
悲しむのももう辞めた。
女は――母親と同じく、首にロープを掛けた。
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