第11話

 二階の書斎に籠もりっきりだった和人は、空腹なことに気付き柱時計を仰ぎ見た。

 時刻は昼時をとうに過ぎた、午後十五時過ぎ。

 そう言えば――ふと、柱時計の向かいの壁に掛けてあるカレンダーを確認する。今日の日付の所に黒ペンで『橋本さん 十四時』と記入してあった。

 十四時から鶴子が来る予定になっている。

「――遅いな」

 一人ごちる。

 ひんやりとした空気に一瞬震えた。

 大量のファイルに埋もれていた和人はゆっくり立ち上がると床に置かれたファイルを踏まないように跨ぎ、カーディガンの前をクロスさせ階段を降りる。全ファイルに一度目を通してみたが、今のところ高木の潜伏先に繋がるような記述は見つからない。

 折角綺麗に整頓されていたファイルは和人の手腕によって部屋中に散乱してしまった。

 このファイルを作った水城譲は当時、和人でも気付かなかった高木の謀略にギリギリ気付いたようだった。本人から直接聞いたわけではないが、当時和人が犯人を追い詰める際に止めに入っている。その彼女が纏めておいてくれた書類だから何かしらヒントが隠されているのでは――と願うも、それは希望的観測に過ぎないようだ。

 どん詰まり。

 これより相応しい言葉はない。

 これでは警察が高木を容疑者として取り締まるのは難しい。過去の事件を含め例の封書が確実に高木の筆跡であっても、まず検挙は出来ないであろう。真犯人が捕まったところで、過去の経緯を鑑みても高木の名を出すことはまず無い。

 歯噛みした。

 わずか一年足らずの合同捜査、苦楽を共にして分かり合っていると思っていた関係だったが結局のところ、和人は高木のことを何も理解していなかった。その結果が十年前の事件を招き、そして今現在に繋がってしまっている。

 これは――階段を降りている途中立ち止まって、眉間に深く皺を刻んだ。

 ふと、思ったのだ。

 いらぬ不安が頭を過る。

 和人が探偵になる前、高木と契約した探偵は何人もいたとは聞いているが正式な人数は知れない。知れないが誰もが無事今を生活を出来ている者はいない、と言う。

 高木は使えない、不要と判断した探偵を何らかの方法で処分してきた。

 和人もそうなる所を水城に助けられている。

 高木にとって、生きて公に知れるようになった和人は邪魔な存在でしかない筈だ。そんな和人にわざわざ人を殺害してまで『警告』をしてきているではないか。

 白石晃氏の事件はもしや和人のせいで起きてしまったのではないか――。

「――考えすぎ、だ」

 頭を横に振り嫌な緊張感を払拭して階段を降りる。

 靴下は履いていてもフローリングの床はひんやりと冷たく、頬を過ぎる空気は針のように痛い。しんと静まり返った家の中はまるで何も無い真っ白な異空間に迷い込んでしまったように寂しい。

「来てないな」

 薪ストーブを焚べた。

 部屋が暖まるまで一時間は要する。その間に鶴子の所在を確認しよう――と玄関に向かった。

 外観が洋風の家屋だが内は和洋混合で、玄関は上がり口になっている。

 そこに和人の革靴はあっても鶴子の靴はない。勝手口から入ったのか――と、時折律儀に勝手口から来ることもあるが、靴も姿さえもなかった。

 ――珍しいこともあるものだ。

 予定の時刻を過ぎるようならば、出先から電話が来る。それでも鶴子は極稀だった。鶴子が来られない日は事前に連絡が来て、別の家政婦が訪ねて来てくれる。今日はそんな日ではない。

 午前は週五日を元の雇い主の家――和人の実家――で働き、週に数度午後二時には和人の家を訪れ掃除と数日分の食事の用意をし、大体十七時頃帰路に着く。実家から和人の家まで電車で約三十分、その間に買い物をしているから多く見積もっても一時間弱。

 和人は実家に電話をし状況を説明すると、鶴子は十三時前には嵐橘邸を出たようだ。電話口に出た家政婦長も心配な声を上げ、鶴子の自宅に連絡をしてみる、と言ってくれた。

 もっと早くに気付いていれば――と反省しても仕方ない、和人は玄関を出て周囲を見渡した。

 どんよりとした曇り空は和人の精神状況に等しい。

 門を出て駅方面を見ても、こちらに向かって来る姿はない。

 ――まさか……。

 まさか――と思う。

 考えすぎではないか――とも思う。

 しかし――あり得なくもない。

 当たってほしくはないが可能性はある。

 万が一、事故に遭遇してしまったなら搬送先から自宅に連絡が行き、それから嵐橘某邸に話が通る筈だ。それすら無い。

 もうすぐ十六時になる。

 連絡が来ても遅くはない。それならば所在が分かるからいい。

 しかし、和人が危惧していることは別にあった。

 もしそうなら、警察の――橋田宗次郎に早急に伝えなければならない。

 最寄りの駅まで捜す。

 いない。

 真冬なのに体は熱く、背中を汗が流れた。

 脈がどくりどくりと早まり、呼吸が乱れる。

 急いで帰宅し、郵便受けを覗いた。

「――あった……」

 あった。

 今度は封書ではなく、一枚の何の変哲もない白い紙。

 ――嘘だと、違うものだと……。

 二つ折りの紙を開くと、見覚えのある文字。


『預かっている』

 

 頽れた。

 考え過ぎであってほしかった。

 取り越し苦労であってほしかった。

 ――なぜ。

 ――どうして。

「どうして……」

 今更どうしてまた追い詰めるようなことをしてくるのか。

 ――どうしてどうして。

 和人は頭を振った。

 今は自分の不運に嘆いている場合ではない。

 もう一度家の中を捜し、宗次郎に連絡をした。

「どこまで俺を貶める気なんだ」

 珍しく憤る。

《落ち着け、和。お前が冷静じゃないと見つかるもんも見つけられないぞ》

 宗次郎に諭された。

《もしかしたら高木からまた連絡が来るかもしれないから、後は俺等警察に任せて自宅にいてくれ》

 紙には『預かっている』のみで相手が鶴子とは書いてない。

 姿を消して数時間程度。幼い子供じゃないかぎり、これだけの物証ではいくら宗次郎が掛け合っても、警察本部自体は簡単に動いてはくれないだろう。

 それに過去のファイルを調べても高木の居場所は見当もつかないのだ。

 ――これ以上どうしたら……。

 鶴子が今、高木によって酷い目に遭っているかもしれない。そう考えたら歯痒い。

 ――自分に今出来ることは……。

 何があろう。

 家の中をグルグルと行ったり来たりして考える。

 白石晃氏の殺害の犯人も分かっていない。

 過去の計略を鑑み、白石晃氏の殺害も自らの手で下してはいないだろう。そうなると鶴子誘拐も高木の手ではないのかもしれない。

 しかし、誘拐とは初めてのことだ。

 和人の知る限り、あくまでも殺人に拘っていた。

 拘る理由は知れている。過去高木の妻子が惨い方法で殺害されたからだ。

 頭の中は霞がかっている。

 十年のブランクは長すぎた。完全に当時から比べ脳は衰えている。

 新たに探偵を雇って未だに復讐相手を探すではなく、こうして和人に固執するとは考えも及ばなかった。

 額に手をあてる。

「何か、出来ることはないか」

 一般人の和人にはこれ以上警察の手助けをすることは出来ない。どうしても何かしなければという自分と、宗次郎の言う通り自宅で待機しているべきだという自分もいる。

 葛藤が生じた。

 生じたところで何かが発生することも、和人が何かできることも一切ない。

 無いのだが、強い当事者意識は勿論ある。

 そもそもの発端は和人と高木の関係なのだ。

 鶴子は全く関係ない。

 全くの無関係の鶴子を巻き込んでしまった。

 白石夫婦の一件は最初こそ単純に和人は、無関心にも面倒事に巻き込まれた――と考えていた。ところが白石晃氏殺害の件で和人の中の他人感は大きく変化し、高木のたった一通の封書で渦中の人間となってしまった。そこから和人になんらかの接触があるだろうと思われていたが、予想の範疇を超えた鶴子の誘拐。

 ここまで来ると、次はどんな手を使ってくるのか想像がつかない。

 階段の下段に腰を下ろし、項垂れて深い溜息を吐いた。

「落ち着かなければ」

 ――落ち着かなければ。

 目を瞑り、深呼吸を何度も繰り返す。

 ズボンのポケットから畳まれた紙を取り出し、一文字一文字をじっくり観察した。

『預かっている』

 鶴子のことで間違いないだろう。他に可能性のある人物は見当たらない。

 小説家になって成功してはいるものの、友人と呼べる人物は林涼太と橋田宗次郎だけ。出版社の担当はそれぞれいはするが、和人は深く関わろうとしなかった。『気難しい物書き屋』と編集部からは言われている。

 あとは家族だが、昔は関係性を和人は考えたことなんてなかった。家族の有り難みはやはり十年前の事件後、精神も身体もボロボロになった和人を家族が懸命に介護してくれたことだろう。それからは逐一何かある度に連絡を取るようになった。

 先の電話で家政婦長の言動に不審な点はなかったから、家族は無事とみていい。

 深呼吸とは違う息を長く吐いた。

 腹を空かしていたのもとうに忘れてしまっていた。今更食べる気力もないが。

 もう一度、家周辺を何か証拠となる物が落ちていないか見て回ろう、と腰を上げる。

 家の中は薪ストーブで暖かくなってきた。コートを着たままだからか、頬がやたらと熱い。

 靴を履き、玄関を押す。

 冷たい風が頬を冷やした。

「――雪」

 ボソリと無意識に呟いた。

 雪がちろちろと舞っている。

 天気予報は大外れだ。

 昨年の三月十二日、東京は大雪に見舞われた。降雪量三十センチも積もったのは統計史上一位の記録となっているが、昨年当時に比べたらまだ暖かい方だと言えた。

「それでも」

 鶴子の顔が浮かぶ。

 どんな状況下にあるか分からないが、雪は体力を奪う。

 ――早く見つけなければ。

 心配が募る。

 吹雪いたりはしないが時間が経つにつれ、降雪量は増していく。日が暮れ辺りは家々の窓から漏れ出る微かな頼りない灯りと、ぽつんぽつんと連なる街頭の灯のみ。音は雪が吸収してしまって生きる者の吐息一つ聞こえない。

 帰宅を急ぐ幾人ものサラリーマンが和人の横を通り過ぎて行く。

 郵便受けの中をもう一度確認したが、チラシが入っているばかりで新たな高木からの封書は無かった。

 今日何度目かの溜息を吐く。

 高木誠という人物は、生粋の江戸っ子気質でさっぱりとした性格で物事に拘らない反面、短気で喧嘩っぱやい。懐に入れた人間には非常に甘い部分もあった。未成年だった和人がケーキや団子等甘い物が好きだと知ると、設けた探偵事務所に足を運ぶ度に律儀に手土産を持参した。

 厳しそうな見た目をしているが、とても良い人だと思っていた。

 楽しいひとときだった。

 それら全てが嘘偽りだったというのか。

 ――悲しい。

 ――苦しい……。

 何度も浴びてきた感情がまた蛇のように蜷局を巻いて和人を締め付ける。 

 この感情は例え高木が警察に捕まっても、和人の中で永遠ループし続け逃すことはしない。 

 無性に孤独を感じた。

 慣れた筈の孤独。

 家路を急ぐサラリーマンたちの背はあんなにも温もりを感じるのに、和人は一人寒々しい渦の中に置いてけぼりにされている。

 ――いい歳してまるで迷子だ。

 失笑した。

 愚かしい己を。

 こんな感情に踏み潰されたようじゃ鶴子は助けられない――和人は己に言い聞かせた。

 これも高木の策略の一貫だろう。

 何を目的としているのか不明ではあるが、和人を苦しめることには成功している。

 それだけか、もっと他にあるのか。

 空を仰ぐと、どんよりした灰色の雲から白い結晶が降り注ぐ。白い息は天に登り、音も無く消え去っていった。

 寒さで次第に冴えてくる頭。どん底からようやく気分が浮上してきた。

「もう一度ファイルを確認しよう」

 出来ることはそれだけ。

 家に戻ると、薪ストーブは消えていた。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

  

 

 

 




 

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