第25話 公理の翌朝
**1**
物理学の世界には、『相転移』という現象がある。
水が氷に、あるいは水蒸気に変わるように、ある物質が、温度や圧力といった外部のパラメータの変化によって、その性質をがらりと変えてしまう、劇的な瞬間のことだ。
私の世界は、昨夜、間違いなく、相転移を起こした。
学園祭の翌朝。
寮の自室で目覚めた私、桜井理乃は、ひどい寝不足と、全身の筋肉痛、そして、今までに感じたことのない、奇妙な浮遊感に包まれていた。
世界が、昨日までとは、まるで違って見える。
窓から差し込む朝の光の、一つ一つの光子の振る舞いまで、なんだか、きらきらと輝いているように感じるのだ。
(……好き)
その、たった一言の告白。
私の人生において、最も非論理的で、最も勇気のいる行動。
それは、私の宇宙に、新しい『公理』を、一つ、付け加える行為だった。
公理とは、証明不可能な、しかし、全ての理論の出発点となる、絶対的な前提のことだ。
『私は、宇沢蘭が好き』
この、証明不能な真実を、私は、私の世界の、新しい根本原理として、受け入れたのだ。
だが、問題は、その先だった。
私たちの関係は、『共同研究』となった。テーマは、『桜井理乃と、宇沢蘭にとっての、恋愛の最適解』。
……なんて、ふざけたテーマだろう。
そして、その研究は、具体的に、何をすれば、進むのだろうか。
論文を読むのか? 実験をするのか? 考察を、レポートにまとめるのか?
全く、分からない。
恋愛という、この、最も厄介な未知の現象を前にして、私は、完全に、無力だった。
ベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、少しだけ寝癖のついた、ひどく、締まりのない顔をした、ただの物理学オタクだった。
本当に、大丈夫なのだろうか、私。
あの、混沌の化身(カオス・エコン)と、対等に、渡り合っていけるのだろうか。
第二部の幕開けは、期待よりも、遥かに多くの、不安と共に、始まった。
**2**
学園は、祭りの後の、心地よい喧騒に包まれていた。
後片付けのために、ジャージ姿で行き交う生徒たちの顔は、皆、疲労と、達成感で、晴れやかに輝いている。
評議会室もまた、その例外ではなかった。
山積みの、報告書や、会計処理に追われながらも、部屋の空気は、驚くほど、明るかった。
「――会長! おはようございます!」
私が入っていくと、長谷川さんが、いつものように、完璧な笑顔で、お茶を淹れてくれた。
「昨日は、本当にお疲れ様でした。……そして、その……」
彼女は、少しだけ、声を潜めると、心配そうに、私の顔を覗き込んできた。
「……宇沢副会長とは、その、……お話、できましたか?」
その、あまりにも直接的な問いに、私は、危うく、お茶を噴き出しそうになった。
どうやら、昨夜、私が蘭の手を引いて、部屋を飛び出していった一部始終は、評議会の仲間たちに、全て、見られていたらしい。
「え、ええ。まあ、その……」
私が、しどろもどろになっていると、横から、氷のように冷たい声が、飛んできた。
「……見ていれば、分かるわよ。完全に、バグってるもの、その顔」
新井会計が、分厚い帳簿から、顔も上げずに、言った。
「会長の、その、思考能力が低下しきった表情。会計的に言えば、典型的な『恋煩い』という名の、無形固定資産の、大幅な減損処理が必要な状態ね」
「げ、減損処理……!」
「まあまあ、アカー」と、袴田委員長が、面白そうに、その会話に割って入る。
「たまには、いいじゃないですか。あの、鉄壁のフィジカが、あんな顔をするなんて。法的に見ても、極めて、興味深い判例ですわ。『論理は、感情に勝訴できるか』。今後の、公判の行方を、じっくりと、見守らせていただきましょう」
仲間たちの、容赦のない、しかし、どこか温かい、からかいの言葉に、私の顔は、沸騰しそうなくらい、熱くなった。
この人たちには、何も、隠し事はできないらしい。
そして、甘利藍は、といえば。
彼女は、何も言わずに、ただ、部屋の隅で、私のことを見ていた。
その、無機質な瞳が、私の、心拍数、顔の赤み、声の震えといった、全ての生体データを、高速でスキャンし、記録していることだけは、なぜだか、はっきりと分かった。
**3-**
その、私の、公開処刑とも言うべき、気まずい空気を、破壊してくれたのは、やはり、あの人だった。
「――やあ、諸君! 世紀の実験の、成功、おめでとう!」
ガチャリ、と、評議会室のドアが、勢いよく開かれ、宇沢蘭が、まるで、凱旋将軍のように、現れた。
その姿は、もう、完全に、いつもの彼女だった。
完璧なメイク、寸分の乱れもない制服、そして、全てを見透かすような、不敵な笑み。
あの温室で見た、脆さや、涙の痕跡は、どこにも見当たらない。
「……蘭」
私が、呆気に取られて、彼女の名前を呼ぶと、彼女は、にやりと笑って、私の目の前に、ずい、と顔を近づけてきた。
「おはよう、私の、可愛い共同研究者(パートナー)さん」
その、あまりにも、破壊力のある言葉に、私の脳の、思考回路が、ショートする。
評議会室が、「ひゅー!」という、冷やかしの声と、口笛で、満たされた。
「さて!」
蘭は、そんな私たちの反応を、心底、楽しむかのように、ぱん、と手を叩いた。
「感傷に浸るのは、ここまでよ。早速、私たちの、共同研究の、第一回ミーティングを、始めるとしましょうか」
「み、ミーティング……?」
「ええ。記念すべき、第一回のテーマは、これよ」
彼女は、ウィンクすると、こう宣言した。
「『恋愛関係における、最適ランチメニューの選定、および、その行動経済学的考察』!」
……は?
私は、一瞬、自分の耳を、疑った。
最適、ランチメニュー?
「ふざけてるの……?」
「いいえ、大真面目よ」と、蘭は、人差し指を立てて、講義を始めた。
「考えてもみて、フィジカ。パートナーの、食の嗜好を理解することは、相互理解の、第一歩。そして、限られたリソース(学食のメニューと、お小遣い)の中で、互いの満足度(効用)を、最大化する選択肢を見つけ出す。これは、極めて、高度な、ゲーム理論なのよ。さあ、行くわよ、会長。私たちの、最初の『実験』の、始まりだわ!」
彼女は、有無を言わさず、私の腕を掴むと、呆然としている評議会メンバーたちを後に、私を、部屋から、引きずり出していった。
嵐のような、女。
本当に、昨夜、私の腕の中で、泣いていた人物と、同一人物なのだろうか。
私の、新しい日常は、どうやら、私の、ちっぽけな想像など、遥かに超えた、カオスなものになりそうだった。
**4-**
学食は、後片付けの生徒たちで、賑わっていた。
私たちは、食券機の前で、真剣に、睨めっこをしていた。
「……私は、A定食の、サバの味噌煮に、引かれているわ。栄養バランスが、物理的に、完璧よ」
「ノンノン。甘いわね、フィジカ」と、蘭は、首を振る。
「今日の、B定食の、唐揚げは、昨日、学園祭で余った、高級鶏肉を使っているという、インサイダー情報があるわ。期待値は、圧倒的に、こちらの方が高い」
……なんだ、この会話は。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいのに、なぜだか、少しだけ、楽しい。
これが、私たちの、「共同研究」の、やり方、なのだろうか。
その時だった。
「――あの! 桜井会長と、宇沢副会長、ですよね!?」
不意に、背後から、声をかけられた。
振り向くと、そこに立っていたのは、見慣れない、スーツ姿の、大人の女性だった。その首からは、プレスパスが、ぶら下がっている。
「私、理学都市ジャーナルの、記者です! 学園祭の、歴史的な大成功、おめでとうございます! ぜひ、お二人に、今回の、勝因について、独占インタビューを、お願いしたいのですが!」
記者……!?
学園の外の、メディア。
私たちは、顔を見合わせた。
私たちの、学園祭の成功は、そして、私たちの、この、評議会は、私たちが思っている以上に、外部から、注目を、集めてしまっていたのだ。
「……ええ。いいですよ」
最初に、我に返ったのは、蘭だった。彼女は、一瞬で、いつもの、完璧な副会長の笑顔を、顔に貼り付けると、優雅に、記者の申し出を、受け入れた。
インタビューは、学食の、テラス席で、行われた。
記者の質問は、鋭かった。
『パラダイムシフト・ミッション』の、具体的な手法。
評議会の、ユニークな、運営体制。
そして、最後に、彼女は、最も、答えにくい質問を、私たちに、投げかけてきた。
「……お二人は、まさに、秩序と混沌、静と動、といったように、全く、正反対のタイプに見えます。それが、今回の、成功の秘訣だったのでしょうか? プライベートでも、お二人は、特別な、関係で、いらっしゃるのですか?」
その、あまりにも、直接的な、踏み込んだ質問に、私は、言葉に詰まった。
どう、答えればいい?
私たちの、この、名前のない、始まったばかりの関係を。
この、公の場で、どう、説明すれば、いいというのだ。
私の、その、戸惑いを、見透かしたように、蘭は、くすり、と笑った。
そして、記者の目を、まっすぐに見て、こう、答えたのだ。
「さあ? どうでしょうね」
彼女は、私の肩に、親しげに、腕を回した。
「……私たちの関係が、一体、何なのか。それは、私たち自身にも、まだ、分からないんです。……なにせ、私たち、今、壮大な『共同研究』の、真っ最中なものですから」
その、完璧な、切り返し。
私は、ただ、隣で、苦笑いを、浮かべることしかできなかった。
記者さんは、何か、面白いスクープを、手に入れたかのように、目を輝かせて、メモを取っている。
インタビューが、終わる。
記者さんが、意気揚々と、去っていく。
後に残された、テラス席で、私は、蘭に、問いかけた。
「……私たちの関係って、これから、ずっと、あんな風に、周りから、面白おかしく、観測され続けるのかしら」
「そうなるでしょうね」と、蘭は、肩をすくめた。
「有名税、ってやつよ。それに、これも、私たちの、新しい研究テーマじゃない」
彼女は、不敵に笑う。
「『観測問題』よ、フィジカ。観測されることによって、結果は、どう、変わるのか。……面白くなってきたじゃない」
面白くなんて、ない。
そう、言い返したかったけれど、なぜか、言葉にはならなかった。
ただ、彼女の、その、どんな困難さえも、ゲームに変えてしまう、圧倒的な、強さに、私は、また、少しだけ、惹かれてしまっていた。
前途多難。
私たちの、共同研究の未来を示す、シミュレーション結果は、きっと、エラーを吐き出すに、違いない。
だが、それでも。
この、嵐のような日々の、その先に、どんな、答えが待っているのか。
それを、知りたいと、心の底から、願っている、自分がいた。
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