第24話 夜景の中の最適解

**1**


祭りの後の、静けさ。

あれほど、熱狂と、歓声に満ちていた体育館は、まるで、大きな鯨が寝静まったかのように、がらんとしていた。

空気中には、まだ、人々の熱気と、甘いポップコーンの匂い、そして、やり遂げたという、心地よい疲労感が、微粒子のように漂っている。


学園祭は、終わった。

私たちの『パラダイムシフト・ミッション』は、歴史的な大成功を収めた。

トラブルも、事故も、一つもなかった。

あるのはただ、生徒たちの、満ち足りた笑顔と、来場者からの、惜しみない賞賛の声だけ。

完璧な、エンディング。


私、桜井理乃は、後片付けもそこそこに、一人、体育館を抜け出した。

胸の中が、まるで、超新星爆発の後のように、様々な感情で、ぐちゃぐちゃだった。

達成感、安堵感、そして、この祭りが、終わってしまったことへの、一抹の寂しさ。

でも、その中心で、最も強く、輝いている感情は、一つだけだった。


(……伝えなければ)


この気持ちを。

この、物理法則では、決して、説明できない、不合理で、厄介で、そして、どうしようもなく、愛おしい、この感情を。

今、この夜を、逃してしまったら、きっと、私は、一生、後悔する。


私は、評議会室に戻り、コントロールブースで、仲間たちと、成功を分かち合っている、彼女の元へと、向かった。

宇沢蘭。

私の、整然とした世界を、破壊し、そして、再構築してくれた、唯一無二の、混沌(カオス)。


「……蘭」

私が声をかけると、彼女は、仲間たちとの談笑を止め、きょとんと、私を見た。

「どうしたの、フィジカ。そんな、真剣な顔して」


「……少し、二人だけで、話せないかしら」

私の、その、あまりにも、まっすぐな言葉に、評-議会室の、陽気な空気が、一瞬だけ、静かになった。

蘭は、何かを、察したように、一瞬だけ、瞳を揺らがせた。

だが、すぐに、いつもの、不敵な笑みを、取り戻すと、やれやれ、とでも言いたげに、肩をすくめた。


「……しょうがないわね。会長命令とあらば。で? どこへ、連れて行ってくれるのかしら、お姫様?」


「……来てくれれば、分かるわ」

私は、彼女の手を、掴んだ。

その手は、少しだけ、冷たかった。

私は、その手を、強く、強く、握りしめると、ざわめき始めた評議会室を、後にした。

私たちの、最後のミッションが、今、始まろうとしていた。


**2**


私たちが、向かった先。

それは、校舎の、一番高い場所にある、天文台だった。

ドーム型の、その小さな建物は、学園祭の喧騒からは、完全に、切り離され、星々の、静寂だけが、支配している。

ここは、私にとって、最も、心が落ち着く場所。

宇宙の、その、壮大な法則と、秩序を、肌で感じられる、聖域。

そんな、私の、一番、大切な場所に、彼女を、連れてきたかったのだ。


ドームの扉を開け、中に入る。

ひんやりとした、澄んだ空気。

そして、中央に、鎮座する、巨大な、天体望遠鏡。

私は、スイッチを操作し、ドームの天井を、ゆっくりと開いた。

途端に、満点の星空と、理学都市の、宝石のような夜景が、私たちの眼前に、広がった。


「……すごい」

蘭が、息を呑むのが、分かった。

「……こんな場所が、あったのね」


「ええ」と、私は頷いた。

「……私の、秘密の場所よ」


私たちは、しばらく、無言で、その、圧倒的な光景を、眺めていた。

眼下に広がる、都市の光。それは、無数の、人間の知性が、作り上げた、巨大な神経回路(ニューラルネットワーク)のようだ。整然として、機能的で、美しい。まさに、私の愛する、秩序の世界。

そして、頭上に広がる、無数の星々。それは、人間の知恵など、及ばない、遥か太古からの、混沌のきらめき。予測不能で、気まぐれで、そして、恐ろしいほどに、美しい。まさに、彼女のような、世界。


「……綺麗ね」と、蘭が、ぽつりと呟いた。

「……まるで、あなたの頭の中と、私の頭の中を、同時に、見ているみたいだわ」


「……そうね」

私は、笑った。

そして、深く、息を吸い込んだ。

もう、迷わない。


**3**


「……蘭」

私は、彼女の、名前を呼んだ。

そして、彼女に、まっすぐ、向き直った。


「私の世界は、数式で、できていたわ。全ての事象には、原因と結果があり、未来は、計算可能だと、信じていた。……でも、あなたは、違った」


私の言葉を、蘭は、黙って、聞いていた。

その、黒曜石の瞳が、星の光を反射して、きらきらと、揺れている。


「あなたは、私の、どんな計算式にも、当てはまらない、唯一の、特異点(シンギュラリティ)だった。私の、完璧な均衡を、いともたやすく、破壊する、予測不能な、変数だった。……最初は、それが、怖かった。理解できなくて、腹が立った。あなたの、その、混沌が、憎かった」


私は、一度、言葉を切った。

そして、自分の、本当の心を、ありのままの、言葉にする。


「でも、今は、違う。あなたが、壊してくれたからこそ、私の世界は、広がったの。机の上だけじゃない、現実の、ぐちゃぐちゃで、不確定で、でも、どうしようもなく、美しい世界が、あるんだって、知ることができた。……あなたが、いてくれたから」


「……理乃」

蘭が、私の名前を、初めて、呼んだ。


「……私の、この気持ちは、論理的じゃない。合理的でもない。費用便益分析をしたら、きっと、莫大な赤字になるわ」

私は、自嘲するように、笑った。

「でも、それでも、いいの。これは、もう、私にとって、揺るがすことのできない、公理(アキシオーム)なのよ。……蘭。私は、あなたのことが、好き」


言って、しまった。

私の、人生で、最も、非論理的で、最も、勇気のいる、告白。

もう、後戻りは、できない。


私は、彼女の、答えを、待った。

心臓が、まるで、破裂しそうなほど、激しく、脈打っている。

この、数秒間が、まるで、永遠のように、感じられた。


**4**


やがて、蘭は、ふう、と、小さな、ため息をついた。

そして、少しだけ、悲しそうに、微笑んだ。


「……ありがとう、理乃。……あなたの、その、真っ直ぐな言葉は、どんな、星の光よりも、綺麗だわ」

彼女は、そう前置きをして、そして、続けた。

「……でも、あなたは、知っているはずよ。私は、変われない」


「……ポリアモリーのことね」

「ええ。私は、たくさんの人を、同時に、私なりのやり方で、愛してしまう。誰か、一人だけのものになる、なんてことは、できない。……そんな私では、きっと、あなたを、深く、傷つけることになるわ」


その言葉は、私の胸に、ちくりと、痛んだ。

分かっていたことだ。

でも、実際に、彼女の口から聞くと、やはり、少しだけ、悲しい。


「……だから、ごめんなさい」

彼女が、そう、言いかけた、その時。

私は、それを、遮るように、首を振った。


「……いいえ」と、私は言った。

「……私は、あなたに、変わってほしいなんて、思っていないわ」

「……え?」

「私が、好きになったのは、今の、ありのままの、宇沢蘭なのよ。私の常識を、いともたやすく、壊してくれる、自由で、気まぐれな、混沌の化身。もし、あなたが、私のために、変わってしまったら、それはもう、私の好きな、あなたじゃ、なくなってしまう」


私の、その、予想外の言葉に、今度は、蘭が、目を見開く番だった。


「……だから、いいの」と、私は、微笑んだ。

「あなたが、誰を好きになっても、構わない。……ただ、一つだけ、約束してほしい。あなたの、その、たくさんの星々の中に、私という、惑星の、居場所も、ちゃんと、作ってくれるって」


それは、私の、精一杯の、強がりだったかもしれない。

でも、本心でもあった。

彼女を、独占できないのなら、せめて、彼女の、特別な一人に、なりたかったのだ。


私の、その、あまりにも、奇妙な提案に、蘭は、しばらく、呆気に取られていたが、やて、たまらない、というように、吹き出した。

「……あはは! あなたって、本当に、最高に、面白い女ね、桜井理乃!」

彼女は、ひとしきり笑った後、私の目を、まっすぐに見つめ返した。

その瞳には、もう、迷いはなかった。


「……いいでしょう。その、無茶な提案、乗ってあげるわ」

彼女は、にやりと、いつもの、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「その代わり、これは、とてつもなく、難解な、共同研究になるわよ。テーマは、『桜井理乃と、宇沢蘭にとっての、恋愛の最適解』。……途中で、泣き言を言っても、知らないからね?」


最適解。

その言葉は、なんて、私たち、らしいのだろう。

完璧な解じゃなくて、いい。

不完全で、矛盾だらけでも、いい。

ただ、私たち、二人だけの、答えを、これから、見つけていけば、いいのだ。


「……望むところよ、エコン」

「上等じゃない、フィジカ」


私たちは、顔を見合わせ、笑った。

その夜、私たちは、キスをしなかった。

ただ、夜が明けるまで、並んで座り、とりとめのない話をしながら、星空と、夜景を、眺めていただけだった。

だが、その、静かな時間の中に、確かに、一つの、新しい関係が、生まれたのを、私たちは、感じていた。


私たちの、学園祭は、終わった。

そして、私たちの、新しい物語が、今、始まったのだ。

その、どこまでも、不確定で、予測不能な、未来の、最初のページが、静かに、めくられた、夜だった。


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