相容れないわたしたちの最適恋愛解(ラブ・ソリューション) -理学女子学園生徒会-
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第1話 会長の数式、副会長の誘惑
**1**
私の世界は、数式でできている。
整然と並んだ記号は宇宙の真理を語り、微分方程式は未来の運動を予測する。そこに曖昧な感情が入り込む隙間はない。あるのはただ、冷徹で、絶対的な法則だけ。
だから、理解できなかった。
私の隣に座る女――宇沢蘭が、なぜこれほどまでに世界から愛されるのか。
「以上で、新年度アカデメイア評議会、第一回定例会議を開始します」
凛とした声が、ガラス張りの評議会室に響き渡る。声の主は、庶務の長谷川華奈。完璧にアイロンがけされた制服の襟元、寸分の狂いもなく揃えられた資料、そのすべてが彼女の信条――"混乱は人を責めず、手順を見直す"――を体現しているかのようだ。
彼女の声に促され、私は背筋を伸ばし、円卓に並ぶ顔ぶれを見渡した。
理学女子学園、その生徒自治組織であるアカデメイア評議会。
ここにいるのは、各分野で「クラウン」の称号を戴く、あるいはそれに最も近いとされる、学園の頭脳たち。
窓の外に広がる、学術研究特区「理学都市」のパノラマを背景に、静かにキーボードを叩いているのは、書記の甘利藍。二つ名は《アルゴ》。計算科学の天才。その無機質な瞳は、世界を0と1のデータとして観測している。
その隣で、分厚い予算案の資料に鋭い視線を走らせているのは、会計の新井結衣。二つ名は《アカー》。彼女の信条は「計画なき情熱は赤字になる」。現実という名の重力に、最も強く縛られた少女。
そして、私の正面。評議会に風紀委員長として参加する、袴田瑞穂。二つ名は《リーガ》。法学の徒である彼女は、「公平な関係は最も美しい」と信じ、常に正義の天秤をその胸に抱いている。
信頼できる仲間たちだ。それぞれが自らの専門分野において、他の追随を許さない才能を持っている。このメンバーとなら、学園をより良い方向へ導ける。そう、確信できる。
――ただ一人、宇沢蘭を除いては。
「さて、最初の議題だけど」
まるで自分の登場を待ちかねていたかのように、蘭が口を開いた。艶やかな黒髪が、空調の風を受けてふわりと揺れる。彼女が指先で軽くテーブルを叩くと、不思議と全員の視線がそこに吸い寄せられる。
経済学のクラウン、《エコン》。
彼女の信条は「自己利益の最大化こそ全体最適」。その言葉通り、彼女は常に自分の欲望に忠実で、その魅力を最大限に利用して、人を、そして世界を動かそうとする。
「新年度の学園予算配分について。さっそく始めましょうか、会長?」
挑戦的な光を宿した瞳が、私をまっすぐに射抜く。
桜井理乃。物理学のクラウン、《フィジカ》。そして、このアカデメイア評議会の会長。
私は静かに頷き返し、手元のタブレットを操作した。
「ええ。始めましょう、副会長」
ガラス張りの壁面が、一瞬にして巨大なディスプレイに変わる。そこに映し出されたのは、私が三日三晩かけて構築した、無数の数式と精緻なグラフだった。
私たちの最初の戦いが、今、幕を開ける。
**2**
「私が提案するのは、『学園活力における持続的均衡モデル』に基づいた予算配分案です」
私は立ち上がり、壁面ディスプレイを指し示した。そこに描かれているのは、複雑に絡み合った変数と、最終的に滑らかな曲線を描いて安定状態へと収束していくシミュレーション結果だ。
「学園に存在するクラブ、研究会、個人の活動……そのすべてを、独立したエネルギーを持つ質点と仮定します。予算とは、この系全体に与えられる外部エネルギーです。私の案の目的は、このエネルギーを特定の質点に集中させるのではなく、系全体に均等に行き渡らせることで、エントロピーの増大、つまり無秩序な混乱を防ぎ、最も安定した状態――持続可能な均衡状態――を維持することにあります」
我ながら、物理学者らしい、詩情のかけらもない説明だと思う。だが、これが最も正確で、美しい。
「具体的には?」
現実主義者の結衣が、的確な質問を投げかける。彼女の指は、資料の支出項目を正確に指し示していた。
「まず、全団体に活動継続に必要な基礎予算を保証します。これをポテンシャルエネルギーの最低値と定義する。その上で、前年度の活動実績や成果報告に基づき、算出された係数を乗じた活動予算を追加配分。これにより、大きな成功も大きな失敗もない代わりに、すべての生徒が安心して研究や活動に打ち込める環境を保証します」
それは、誰かを切り捨てることのない、優しい世界。才能の有無や活動分野の人気に左右されず、すべての知的好奇心が等しく尊重されるべきだという、私の祈りにも似た理念が込められている。
「なるほど。各団体の活動を保証しつつ、緩やかな競争を促す、と。手堅い案ですね」
華奈が、ほっとしたように微笑んだ。彼女は常に全体の調和を願っている。私の案は、彼女の理想に近かったのだろう。
「公平性の観点からも評価できます」
瑞穂も、静かに頷く。
「明確な基準に基づき、すべての団体に機会が与えられている。特定の団体への恣意的な優遇が見られない点は、風紀の維持にも繋がるでしょう」
悪くない感触だ。藍は相変わらず無表情でデータを眺めているだけだが、特に反論の気配はない。このまま、この穏やかな空気の中で、私の案が承認される。それが、この評議会にとって最も摩擦の少ない、合理的な選択のはずだった。
そう、あの女が口を開くまでは。
**3**
「美しいわね。まるで永久機関の設計図みたい」
拍手までして、蘭はわざとらしく感嘆の声を上げた。その唇は弧を描いているけれど、瞳は全く笑っていない。そして「永久機関」という言葉は、私たちサイエンティストにとって「見果てぬ夢」の隠喩だ。
「閉じた系の中だけで成立する、完璧で、退屈な数式。でも、桜井会長。残念ながら、私たちの学園はフラスコの中じゃないのよ」
彼女は優雅に立ち上がると、私の隣に並び立った。ふわりと、甘く蠱惑的な香りが鼻腔をくすぐる。意識が散漫になりそうなのを、私は奥歯を噛みしめて堪えた。
「あなたの言う『均衡』は、言い換えれば『停滞』よ。ぬるま湯に浸かって、誰も挑戦しなくなる世界。そんなの、天才少女を集めた理学女子学園(リセウム)のやることじゃないわ」
ディスプレイに映る私のグラフを、蘭は細い指でなぞる。
「私が提案するのは、もっと刺激的で、ずっと面白いゲームよ」
彼女がタブレットを操作すると、私の均衡モデルの隣に、まったく新しいグラフが表示された。それは、細かく振動しながらも、急峻な角度で右肩上がりに突き進んでいく、指数関数的な成長曲線。
「名付けて、『学内市場における創造的破壊プラン』」
蘭は、評議会のメンバーを見渡しながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「まず、会長の言う基礎予算を、思い切って半分以下にカットするわ」
「なっ……!」
思わず声が出た。結衣や華奈も、息を呑むのが分かった。
「もちろん、ただ削るだけじゃない。そうして生まれた莫大な余剰資金を『投資ファンド』としてプールするの。そして、学内のすべての生徒を対象にしたビジネスプラン・コンペティションを開催する」
彼女の声は、まるで腕利きの詐欺師のように、甘く、聞く者の心を昂らせる響きを持っていた。
「AI開発、新素材研究、金融モデルの構築、果ては演劇のプロデュースだっていいわ。自分の才能と情熱をプレゼンさせ、最も『市場を興奮させた』プランに、資金を集中投資するの。成功すれば、投資した資金以上のリターンが学園に還元され、さらに次の投資を生む。失敗すれば?……そうね、その時は市場から退場してもらうだけ。シンプルでしょう?」
それは、あまりにも過激で、残酷で、そして……魅力的だった。
弱肉強食。適者生存。学園という名の市場で、才能と才能をぶつけ合わせ、勝者にはすべてを、敗者には何も与えない。まさに経済学の悪魔、《エコン》の発想。
「そんなことをすれば、ニッチな分野や、すぐに結果の出ない基礎研究はすべて切り捨てられることになる! 学問の多様性が失われるわ!」
私は、感情的になる自分を抑えきれずに反論した。
「多様性? それは負け犬の言い訳よ、フィジカ。それに、新しい価値は、いつだって既存の価値を破壊した先に生まれるものじゃない? ヨーゼフ・シュンペーターはそれを『創造的破壊』と呼んだわ。私たちは、それをこの学園で実践するの」
蘭はうっとりと目を細める。まるで、これから起こるであろう混乱と創造の嵐を、心から楽しんでいるかのように。
「全体の均衡を重んじる」という私の信条と、「自己利益の最大化こそ全体最適」という彼女の信条。
物理学の秩序と、経済学の混沌。
私たちの理論は、決して交わることのない平行線のように、真正面から衝突した。
**4**
評議会室の空気は、一瞬にして凍りついた。穏やかな春の陽気から、すべてが凍てつく極寒の冬へ。その温度変化の激しさに、誰もが言葉を失っていた。
最初に沈黙を破ったのは、やはり会計の新井結衣だった。彼女はカチャリと眼鏡の位置を直し、蘭の計画書に印刷された、ありえないほど楽観的な収益予測を指さした。
「宇沢副会長。このプランは、あまりにもリスクが高すぎます。投資の原資となるのは、全生徒から集めた学費と、自治活動費です。これはギャンブルではありません」
彼女の声は、氷のように冷たい。
「計画なき情熱は赤字になる。あなたのプランは、情熱という名のインフレーションを引き起こすだけで、実体経済……つまり、学園の財政を破綻させかねません」
「あら、手厳しいわね、アカー」
蘭は肩をすくめる。
「でも、リスクのないところにリターンはないでしょう? それに、これはただのギャンブルじゃない。才能への『投資』よ。私たちは、この学園に眠る未来のノーベル賞学者や、世界を変える起業家に賭けるべきなの」
「その『賭け』に敗れた大多数の生徒はどうなるのですか!」
今度は、風紀委員長の袴田瑞穂が強い口調で問い詰めた。
「あなたの案では、コンペに勝てなかった団体は、活動の継続すら困難になる。それは、教育の機会均等という学園の基本理念に反します。公平な関係こそが、最も美しい。あなたの市場原理主義は、醜い格差を生むだけです」
「公平、ね……」
蘭はつまらなそうに呟くと、長い指で髪をかきあげた。
「才能が不公平な以上、結果が公平になるはずないじゃない、リーガ。みんなに同じ量の餌を配って満足するのは、社会主義の悪い冗談よ」
議論は完全に白熱していた。華奈は、オロオロと私と蘭、そして結衣と瑞穂の顔を交互に見ながら、どうにかこの場を収めようとしているが、もはや彼女一人の調整能力でどうにかなるレベルではない。
その、あらゆる感情と理論が渦巻く嵐の中心で、ただ一人、静寂を保っている少女がいた。
甘利藍。
彼女は表情一つ変えず、ただ目の前のディスプレイを食い入るように見つめている。カタカタカタ、と尋常ではない速度で響くタイピングの音だけが、彼女の脳がフル回転していることを示していた。
やがて、その指の動きがぴたりと止まる。
「……シミュレーション結果、出ました」
藍が呟くと、評議会室の巨大ディスプレイが三分割された。
左には、私の「均衡安定案」を実行した場合の、五年後の学園満足度予測。中央値は高いが、分散は小さい。安定しているが、大きな発展は見られない。
右には、蘭の「創造的破壊プラン」を実行した場合の予測。グラフは激しく乱高下し、最悪のケースでは学園財政が破綻、最高のケースでは現在の三倍以上の予算規模に成長している。あまりにも、振れ幅が大きすぎる。
そして、中央。それは、この会議が始まってからの、私たちの発言データをリアルタイムで解析した感情分析グラフだった。理乃:論理的、防衛的。蘭:扇動的、攻撃的。結衣:現実的、否定的。瑞穂:倫理的、硬直的……。
「現時点での最適解は、算出不能」
藍は、淡々と事実だけを告げた。
「両プランともに、極端なパラメータに依存しており、このまま採決を行えば、評議会、ひいては学園全体に修復不可能な亀裂を生じさせる確率、72.4%」
その数字は、私たちの議論がただの机上の空論ではなく、現実的な危機なのだという事実を、冷ややかに突きつけていた。
**5**
結局、その日の会議は、何も決まらないまま閉会となった。
評議会室を出ると、夕暮れの光が廊下に長い影を落としていた。どっと疲労感が押し寄せる。自分の理論の正しさを証明するために、あれほど言葉を尽くしたのに、残ったのは徒労感と、心のささくれだけだ。
「お疲れ様、会長」
背後から、あの声が聞こえた。振り向かなくても誰だか分かる。私の心を、いともたやすく掻き乱す、ただ一人の人間の声だ。
「……副会長」
「そんな怖い顔しないでよ。初日からこれじゃ、先が思いやられるわね」
蘭は私の隣に並ぶと、窓の外に広がる理学都市の夜景に目を細めた。港湾エリアの研究施設や、シナプス・ストリートのネオンが、宝石のようにきらめいている。
「綺麗ね。あの光の一つ一つに、誰かの欲望や野心が詰まってるんだと思うと、ワクワクしない?」
「……私には、安定した電力供給システムの美しさしか感じられないわ」
皮肉のつもりで言ったのに、蘭は「ふふっ」と楽しそうに笑った。
「そういうところよ、あなたの面白いところ。世界をまったく違うレンズでのぞいてる。だから、きっと退屈しない」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
面白い? 退屈しない? 私があなたに抱いている感情は、そんな単純な言葉で片付けられるものではない。
あなたの理論は危険で、受け入れがたい。でも、あなたの言葉が放つ熱量に、その瞳が宿す未来への渇望に、どうしようもなく惹かれてしまう自分もいる。
それは、物理法則では説明できない、厄介で、不合理な感情。
「面白くなりそうじゃない、会長?」
蘭は、私の心を見透かしたように、挑戦的な笑みを浮かべた。
その瞬間、私は予感した。
これから始まる一年間は、きっと嵐のようになるだろう。私の信じてきた秩序は、彼女という名の混沌によって、何度も揺さぶられるに違いない。
数式では解けない問題ばかりが、私たちを待ち受けている。
それでも。
それでも、と私は思う。
この嵐の先にあるものを、この混沌が生み出す未来を、少しだけ、見てみたいと思ってしまった。
夕闇に染まる廊下で、私たちはしばらく無言で立ち尽くしていた。
始まったばかりの評議会。
始まったばかりの、私たちの戦い。
その最初の火蓋が切られたことを、暮れなずむ空だけが、静かに見ていた。
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