第2話 非協力ゲームのプレイヤーたち

**1**


物理学の法則は、いつだって静かで公平だ。

作用があれば、必ず同じ大きさで反対向きの反作用がある。エネルギーは決して消滅せず、ただ形を変えるだけ。世界は、完璧なバランスの上に成り立っている。

私のノートに書きつけられたハミルトニアンの数式もまた、その揺るぎない真理を雄弁に物語っていた。


(……なのに)


カチ、カチ、とシャーペンの芯を繰り出す音が、やけに大きく図書館に響く。

集中できない。数式の森に分け入ろうとする私の思考を、雑音が邪魔をする。


『あなたの言う『均衡』は、言い換えれば『停滞』よ』

『これは才能への『投資』なの』


あの日の、宇沢蘭の声。

自信に満ちた、蠱惑的な響き。まるで甘い毒のように、私の耳の奥にこびりついて離れない。

彼女の理論は、あまりにも乱暴で、危険な思想だ。放置すれば、この理学女子学園という秩序ある系は、制御不能なカオスに陥るだろう。

頭では分かっている。私の「均衡安定案」こそが、学園全体にとっての最適解であるはずだ。


だが、あの会議の後、学園の空気は明らかに変わった。

生徒たちの会話の端々に、蘭の名前が、そして彼女の過激なプランが、熱を帯びた言葉として上るようになったのだ。

まるで、静かな水面に投げ込まれた一石。その波紋は、私の予測を超えて、静かに、しかし確実に広がっていた。


「……非協力ゲーム、か」


私は小さく呟き、ノートを閉じた。

これは、数学者ジョン・ナッシュが提唱したゲーム理論の一つ。プレイヤーが互いに協力することなく、自身の利益のみを追求して行動する状況をモデル化したもの。

今の評議会、いや、学園全体が、まさにその状態に陥りつつある。

蘭は、全生徒というプレイヤーに対し、「自分の利益を最大化せよ」という、あまりにも魅惑的な選択肢を提示したのだ。

そして、私、桜井理乃は、このゲームのもう一人の主要プレイヤーとして、彼女の行動を座視しているわけにはいかない。


作用・反作用の法則。

彼女が仕掛けてきたのなら、私もまた、私自身のやり方で、この系に力を加えなければならない。

均衡を取り戻すために。


**2**


理学都市の中心部、アカデミアクォーターを見下ろす丘の上に、その場所はある。

『ナレッジガーデン』。

ガラスと金属でできた幾何学的なパーゴラが点在し、議論に白熱した生徒たちがクールダウンできるよう、清らかな小川まで流れている屋外スペースだ。

今日の午後も、そこは多くの生徒で賑わっていた。その中心に、一際華やかなオーラを放つ人だかりができている。


「――だから、私は皆の才能を信じているの」


宇沢蘭は、まるでオペラ女優のように、芝生の壇上から語りかけていた。

彼女の周りを囲んでいるのは、VR開発を手掛ける『情報部』、遺伝子工学を研究する『バイオハザード・クラブ』(物騒な名前だが活動は真面目だ)、そして前衛的な舞台を作り上げる『演劇部』といった、学園内でも特に野心的で、常に活動資金の不足に喘いでいるクラブの部長たちだった。


「桜井会長の案は、確かに優しいわ。誰も傷つかないかもしれない。でも、誰も『飛躍』することもできない。それは、皆のような突出した才能を持つ人間にとっては、緩やかな窒息と同じじゃないかしら?」


蘭の言葉は巧みだ。理乃の案を直接的に否定するのではなく、「あなたたちのような特別な存在には物足りないでしょう?」と、彼らの自尊心をくすぐる。


「考えてみて。もし私のプランが通れば、あなたたちの研究室には最新鋭のVRリグが導入されるかもしれない。遺伝子編集のためのシークエンサーだって、好きなだけ使えるようになるわ。演劇部の子は、プロの役者を呼んでワークショップを開くことだって夢じゃない」


ごくり、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえる。

彼らの瞳は、欲望の色にギラついていた。蘭が語る未来は、彼らがずっと夢見てきた、けれど予算の壁に阻まれてきた理想そのものだったからだ。


「もちろん、これは競争よ。厳しいプレゼンを勝ち抜かなければならない。でも、あなたたちならできるでしょう? だって、あなたたちは『その他大勢』じゃないんだから」


最後の一言が、決定打だった。

少数精鋭。国家代表クラス。理学女子学園に集う少女たちは、皆、自分が特別な存在であるという自負を持っている。蘭は、そのプライドという名の急所を、正確に撃ち抜いたのだ。


「宇沢先輩……! 私たち、先輩のプランを支持します!」

情報部長が、興奮で顔を赤らめながら叫んだ。それを皮切りに、次々と賛同の声が上がる。蘭は満足げに微笑むと、その場にいた全員に、見返りを要求するかのようにこう言った。


「ありがとう。それじゃあ、皆の友人にも、この話の『面白さ』を伝えてくれるかしら? これは、学園全体を巻き込んだ、壮大な社会実験なのよ」


それは、もはや根回しというより、扇動だった。

蘭という名のウイルスは、生徒たちの野心と欲望を宿主として、驚異的な速度で学園内に感染を広げ始めていた。


**3**


評議会室の隣にある、小さな会計室。

新井結衣は、たった一人、山積みの資料とディスプレイに囲まれ、孤高の戦いを繰り広げていた。


「……馬鹿げてる」


吐き捨てるように呟き、彼女はキーボードを叩いた。ディスプレイには、蘭が提出した『創造的破壊プラン』の収益予測モデルが、複雑な数式と共に表示されている。一見すると、非常に高度で説得力があるように見える。だが、結衣の目はごまかせない。


「リターン予測の計算に、成功確率が最も高い事例のデータだけを使ってる。典型的な生存者バイアス……。失敗したプロジェクトのリスクを、意図的に無視しているわね」


カチャリ、と眼鏡の位置を直す。彼女の瞳は、数字の裏に隠された嘘を暴き出す、鋭い光を宿していた。


「それに、この『市場の自己修復機能』って変数もおかしい。コンペに敗れた生徒が、素直に勝者を称え、学園全体の利益のために貢献する? そんな性善説、会計学では誤差としても扱えないわ。嫉妬、反目、非協力……そういった負の感情がもたらす『外部不経済』が、全く考慮されていない」


蘭のプランは、美しい物語だった。

誰もが才能を信じ、正々堂々と競い合い、勝者は敗者を導き、学園全体が発展していく。

だが、結衣が信じるのは物語ではない。帳簿に記された、冷徹な数字だけだ。そして、その数字は、蘭のプランが極めて高い確率で「赤字」になる未来を告げていた。


「あの女は、数字を詩か何かだと思ってる……」


結衣は、一つの結論に達した。宇沢蘭は、意図的に、この欠陥だらけのプランを提示している。彼女の目的は、学園の財政を健全化することではない。

おそらくは、この混乱そのものを楽しんでいるのだ。あるいは、混乱の先にある、もっと別の何かを狙っている。


(会長も、人が良すぎる)


桜井理乃の案は、会計の視点から見ても堅実で、リスク管理も行き届いている。だが、いかんせん地味すぎた。人の心を、特に野心的な若者の心を躍らせるような「夢」がない。

正しいだけでは、勝てない。

結衣は、静かに自分のタブレットを開き、一つのファイルを作成し始めた。

タイトルは、『宇沢蘭プランにおける財務リスクの定量的評価、および対抗策の考察』。

彼女もまた、このゲームのプレイヤーとして、自分の武器を手に取ったのだ。


**4. 観測される相関図**


甘利藍の部屋は、余計なものが一切ない、ミニマルな空間だった。あるのはベッドと、机と、そして部屋の規模に見合わないほどハイスペックなコンピューターシステムだけ。

彼女は、その城の中心で、静かに世界を観測していた。


ディスプレイに映し出されているのは、学内ネットワークのアクセスログを基に構築された、リアルタイムの人間関係相関図だ。

生徒一人一人を「ノード」とし、メッセージのやり取りやファイルの共有を「エッジ」として繋ぎ、その関係性の強さを線の太さで表現している。


第一回評議会が始まる前、この相関図の中心にいたのは、会長である桜井理乃だった。多くのノードが、彼女を中心に緩やかに結びついていた。まさに「均衡」状態。


だが、会議が終わった直後から、その構造は劇的に変化し始めた。

宇沢蘭というノードが、爆発的にエッジを増やし始めたのだ。ナレッジガーデンでの会合に参加したクラブの部長たちをハブとして、その影響力はネズミ算式に拡大していく。線の色も、通常のやり取りを示す青から、特定のトピック――『予算案』に関する会話を示す赤色へと、急速に染まりつつあった。


『データは嘘をつかない。ただし集め方は嘘をつく』


それが、藍の信条だ。

評議会の会議室で交わされる言葉だけが、データではない。水面下で蠢く、この人間関係のダイナミズムこそが、未来を決定づける、より重要な変数なのだ。

カタカタカタ……。藍は、新たなアルゴリズムを組み始めた。

各ノードが持つ「影響力」を定量化し、蘭のプランに賛成する勢力と、理乃のプランを支持する勢力のパワーバランスをシミュレートするモデル。

どちらが、先に臨界点を超えるか。


(……興味深い)


その時、藍は一つの特異なパターンを発見した。

桜井理乃と宇沢蘭。二つの巨大なノードは、評議会以降、直接的なエッジを全く結んでいない。会話も、メッセージのやり取りもない。

だが、二人の周辺ノードは、互いに激しく影響を及ぼし合っている。まるで、直接は見えないけれど、そこに確かに存在している巨大な重力源が、周りの星々の軌道を歪めているかのように。


藍は、無感情な瞳で、その二つのノードを見つめた。

このゲームの結末は、この二つの変数が、いつ、どのようにして再び交差するかによって決まる。

その瞬間を、彼女は見逃すつもりはなかった。


**5**


夕暮れの帰り道。寮へと続くケヤキ並木を、私は一人で歩いていた。

自分の無力さを、これほど痛感したことはなかった。

私の武器は、論理と数式だ。それは、世界の真理を解き明かすための、強力なツールのはずだった。

だが、人の心は、物理法則のようにはいかない。

どんなに正しい数式を示しても、蘭が囁く甘い「誘惑」の前では、色褪せて見えてしまう。

均衡、安定、持続可能性……。なんて退屈で、魅力のない言葉だろう。

それに比べて、創造、破壊、投資、リターン……蘭の使う言葉は、なんと生き生きとして、人の心を高揚させるのだろうか。


ふと、前方から聞こえてくる会話に、足が止まった。

中等部の生徒たちだろうか。三人の少女が、興奮した様子で話している。

「ねえ、聞いた? 宇沢先輩のプラン!」

「聞いた聞いた! なんか、すごいことになりそうじゃない?」

「私たちのイラスト部も、コンペに出してみない? もし勝ったら、液タブを全員分買えるかも!」


私の胸が、ずきりと痛んだ。

違う。そんな単純な話ではない。その裏にあるリスクを、才能が認められなかった時の絶望を、君たちは分かっていない。

そう叫びたかった。だが、言葉は出てこなかった。

彼女たちのキラキラした瞳を、私の「正しさ」で曇らせることが、できなかった。


私が守ろうとしている「均衡」とは、もしかしたら、彼女たちが羽ばたこうとするのを邪魔する、ただの「檻」なのかもしれない。

その考えが頭をよぎった瞬間、世界がぐらりと揺らいだ気がした。


(……いや、違う)


私は、強くかぶりを振った。

才能を潰さず、世に出す。それが、この理学女子学園のモットーだ。

蘭のやり方は、一握りの才能を輝かせるために、その他大勢の才能の芽を摘み取ってしまう危険な賭けだ。それは、学園の理念に反する。

私のやり方は、地味かもしれない。退屈かもしれない。

でも、すべての生徒の可能性を守るための、防波堤なのだ。


そうだ。私は、間違っていない。

ただ、やり方が足りなかっただけだ。

彼女が人の感情に訴えかけるなら、私は、論理とデータの力で、彼女の理論の矛盾を暴き出す。

彼女が非協力ゲームを仕掛けたのなら、私は、信頼できる仲間と「協力」し、より強固な戦略を練り上げる。


私は、ポケットからスマートフォンを取り出し、アドレス帳を開いた。

タップしたのは、三つの名前。

新井結衣。袴田瑞穂。そして、長谷川華奈。


『緊急の連絡です。今夜、作戦会議を開きたい』


メッセージを送信すると、すぐに三つの『了解』という返信が届いた。

空を見上げると、一番星が瞬いていた。

宇沢蘭。あなたが仕掛けたゲーム、受けて立つ。

私の世界は数式でできている。そして、その数式が導き出す答えは、いつだって一つしかないのだ。

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