第49話





 次に俺の目を覚ましたのは、全身を襲う猛烈な痒みだった。


 うおおおお何だこの痒みは!


 そんな尋常ならざる感覚に飛び起きると、そこは王宮にある俺、いやアルカディアの寝室で、ただ、漂う雰囲気はどういうわけか瀟洒とは程遠いものだった。

 あえて似た雰囲気を挙げるなら、卒修論締め切り前の研究室に漂うそれ。床やテーブルにレッドブルだとかモンスターの空き缶が転がる、荒みきったあの感じだ。

 だが、ここが戦場ならともかく、こんな天蓋つきの洒落たベッド周りにどうして――

 謎は、意外にもあっさり解決する。

 よく見ると、ベッド周りにはソファやワゴンがいくつも置かれ、それらのソファにはもれなく疲れた顔で眠る修道女が横たわっている。中にはマリーの姿もあって、やはり、ひどく疲れた顔で眠りこけていた。

 普段は食事を運ぶために用いられるワゴンには、今は新品のシーツや包帯、謎の液体を封じた小瓶が山積みになっている。……えっ何、病院? そういえば、漂う空気も何となく薬品臭い。


「つーか、痒っ!」


 ぶり返した痒みに耐えきれず、ガウンの前を剥いで胸板を見る。

 瞬間、思いがけない光景に俺はぎょっとなった。胸板をびっしりと覆うカサブタ。さらによく見ると、腕や足も同じくカサブタに覆われている。いや、そりゃ全身が痒いわけだぜ!

 それにしても……なんて傷だ。

 カサブタの範囲からして、俺が負った傷はおそらく相当なものだったのだろう。ワンチャン前世の医療技術でも匙を投げられていたかもしれない。

 ひょっとして……いまベッド周りで眠りこける修道女の皆さんは、俺を治療するために呼び寄せられたのか? だとすると……うう、つくづく申し訳ない。元はといえば、俺の無茶が原因でこんな顛末になったのだ。

 そんな中にひとり、俺のベッドに突っ伏して眠る男がいる。

 珍しく乱れた若草色の髪と、その隙間から覗く、やけに整った顔。ただ、その顔は今はひどく窶れ、目元には濃い隈が浮かんでいる。


「……ウェリナ」


 若草色の髪に手を伸ばし、そろりと撫でる。本来さらさらなウェリナの髪は、今はひどくべとついている。風呂に入る間も惜しんで俺の看病に当たってくれたのか。

 嬉しい。

 温かな感情が、ふつふつと胸の底から湧き上がる。が、それはすぐに、重く暗い罪悪感によって圧し潰される。

 もし、ウェリナが俺の所業を知ったら。

 改めて冷静さを取り戻すと、つくづく、どうかしていたと思う。俺は住み慣れた元の世界に戻れる。アルカディアも帰れる。そして、ウェリナと二人で幸せに――全ては丸く収まるはずだった。登場人物の誰もが、完全無欠のハッピーエンドを迎えられるはずだった。

 なのに俺は、どうして……


 ――君さえ、生きていてくれたら、それで……っ!


 嘘だ。

 あんなの……ただの聞き間違いだ。生死をさまよう俺の意識にふと宿った甘い幻想。こいつが求めるのは、あくまでもアルカディアなんだ。思えば、俺を見つめるこいつの眼差しは、一度だって、に向けられたことはなかった。

 いつだってこいつの目は、アルカディアを見つめていた。俺の姿を通して。

 そうだろ。そうだよな。ウェリナ。


「……ん」

「あ、やべ」


 慌ててウェリナから手を離す。が、時すでに遅し。目を覚ましたウェリナが身を起こし、寝ぼけまなこで俺の姿を捉える。


「……ただいま」


 いや、ただいまって何だよ。

 とはいえ、ほかに相応しい挨拶が思いつかなかったのも事実で。そもそも、今更アルカディアを(この世界に帰ってきたというていで)演じたところで、こいつの目はごまかせないだろう。

 なので俺は、黙ってウェリナの反応を待つ。

 俺を恨むだろうか。憎むだろうか。それとも――


「おかえり」

「……は?」


 呆然となる俺をよそに、ウェリナはみるみる涙ぐんでゆく。

 やめてくれ。そんな、感極まった目をされたら期待しちまうだろ。夢うつつに交わした会話が嘘じゃなかったのか、なんて。

 俺でもいいのか、って。

 やがて、ウェリナの手が俺に伸びてくる。その指先が俺の頬に触れ、ざり、と奇妙な触感を生む。カサブタ越しの、痒みを伴うもどかしい感触。それでもウェリナの手つきは切ないぐらい優しくて、温かい。


「待ってた。君を」


 ベッドに身を乗り出しながら、ウェリナがくちびるを寄せてくる。

 それを、しかし俺は避ける。嬉しいはずなのに、いや、嬉しいからこそ余計に罪悪感で胸がはちきれそうだ。


「やめて、くれ。本当は、アルカディアが戻るはずだったんだ。いや、戻すべきだった。それが正解だった。お前だって、本当は――」

「アルは死んだ!」


 悲鳴に似た絶叫が、俺の鼓膜を揺らす。

 エメラルドの双眸が、涙にたゆたい、震えていた。


「アルは、死んだんだ。俺はアルを守りきれなかった。アルを襲った病気は、実際は、メイドに密かに毒を盛られたせいだった。毒による暗殺だとわかったときには、アルはもう……だが、は奇跡的に息を吹き返した。全くの別人として。俺はそのを憎んだ。俺との日々を、絆を、何ひとつ思い出せないを憎んだ。……いや、憎もうとした」


 形の良いくちびるの奥で、白い歯が、ぎり、と軋る。が、それはすぐに解け、重い溜息がウェリナの肺から漏れる。


「なのに君は、最後まで憎ませてはくれなかった。は愚かで、軽率で、放っておいたら何をしでかすかわからない。危なっかしくて見ていられなかったさ。おかげで監視には苦労した。何なんだこいつは、と何度も呆れたよ。……さすがに別人を疑って、昔話にある転生者のことを調べた俺は、古い文献にに生じたものと同じ現象を見つけてほっとした。やっぱりこいつはアルじゃない、と。……なのに、それ以上に俺は、苦しかった。君が、俺とは何の繋がりも持たない異世界からの客人まれびとだと知って、苦しかったんだ。そんな人間と、絆など結ぶべくもない。まして愛など。だけど、俺は」


 そこでウェリナはひとつ深呼吸すると、ふ、と自嘲ぎみに笑んだ。


「君が目を覚ましたとき、俺が望んだのは君だった」

「……ウェリナ?」

「君だったんだよ。アルではなく」


 俺を見つめる二つのエメラルド。触れ合う鼻先。やがて俺のくちびるを、ふ、と柔らかなものが覆う。すぐに舌が滑り込んできて、俺はそれを、拒みきれずに受け入れてしまう。……拒めるわけがなかった。俺はもうずっと、この熱を求めていたのだから。

 会いたかった。

 そう、会いたかったんだ。たとえアルカディアを押しのけてでも。たとえ罪悪感に圧し潰されても。それでも俺は、ウェリナに会いたかった。

 ウェリナの唾液は甘く、体臭は怖いほどにかぐわしい。そういえば、宮殿の廊下で初めてこいつと二人きりで喋ったとき、柑橘を思わせるビターな香りにわけもなくドキドキしたっけ。

 ひょっとして。

 あの時には、もう、俺の心はこいつに囚われていたのかもしれない。あるいは、そう、魂さえも。


「……で、君の名前は?」


 長い長いキスの後で、それでも名残を惜しむようにくちづけを解くと、囁くようにウェリナは問うてくる。


「名前を知りたい。君の名前を」

「……いいのか、俺ので」

「ああ。君のがいい」


 低く濡れた声が、ウェリナの喉からこぼれる。瞬間、俺の胸の奥で箍が外れたように温かなものが溢れる。安堵と、それ以上に大きな喜び。願ってはならなかった願い。それが、まさか――


「俺の……名前は……」


 知って欲しい、俺の名前を。

 そして、呼んでほしい。その声で、くちびるで、俺の本当の――


「……えっ」

「どうした」

「あ……いや……えっ?」


 どうして。

 思い出せない。前世であれほど慣れ親しんだ、俺の一部ともいうべき名前が。前世の記憶ならある。身につけた知識も残っている。なのに、俺の本当の名前だけが綺麗さっぱり記憶から抜け落ちている。


「思い出せない」

「えっ」

「思い出せないんだ。俺の、本当の名前、どうして」


 相変わらずウェリナは、静かに俺を見守っている。

 やがて、おもむろにウェリナは口を開いた。


「ひょっとして、もう本当の名前ではなくなっているから……じゃないのか」

「えっ?」


 もう本当の名前じゃない? それは、どういう……?


「君にとってはもう、それは本当の名前じゃないんだ。君は、元の世界を捨てて俺たちの世界に帰ってきた。同時に君は、元の君と完全に切り離された。……ってことじゃないか」

「切り離された……完全に」


 その言葉に俺が抱いたのは、一抹の悲しみ――それだけだった。

 両親や友人、仲間……懐かしい面影が脳裏に浮かんで消えるたび、刺すような痛みが胸を襲う。なのに後悔だけは、どうしても抱けないのだ。むしろ、帰るべき場所に帰ったのだと、この選択は正しかったのだと確信する。

 世界が求めるハッピーエンド?

 ははっ、クソくらえだぜそんなもん。


「いやーまいったな。元の名前は思い出せない。かといって俺はアルじゃない。じゃあ、これからどう名乗ればいいんだろ」

「アルカディア」

「は?」

「いいんじゃないか。きっと今頃、アルもこの世界から切り離されて、元の名前を忘れている。誰の名前でもないなら、引き続き君が使えばいい。君としても、その方が便利だろ」

「えー……いや……」


 確かに、使い慣れてはいる。これが誰かのお古だって点もまぁ許そう。

 問題は……それがウェリナの元恋人のお古だってことだ。いや、こればっかりは仕方なくね!? 誰だって、恋人の元カノ元カレのお古なんか欲しくねぇだろ!?


「やっぱ、いやだ」

「は? いや、でも」

「うるせぇ。いやなもんはいやなんだよ。……俺の名前は、お前にとって特別であってほしいんだ。たったひとりの誰かを指す名前であってほしいんだよ。なのに、またアルカディアを名乗ったら……」

「俺にとってはもう、アルカディアは君ひとりだ」


 そしてウェリナは、俺のくちびるを軽く啄むと、鼻先で「アルカディア」と囁く。

 その声は、身体の芯にじんとしみわたり、細胞のひとつひとつに新たな名前を与えてゆく。

 生まれ変わる。身体が、心が。魂が。


「俺は……アルカディア」

「うん」


 今度は優しく重なるくちびるを、俺は全身で迎える。とろけるようなキスの合間にも、ウェリナは繰り返し、俺の名を呼んだ。新しい俺の名を。


「アルカディア……アルカディア」


 やがてくちづけが解かれ、至近距離で互いに見つめ合う。涙にたゆたうエメラルドの瞳。ただ、その奥にはなお、かすかな怯えの色が居座っている。

 こんなにも心を重ねて、なのにまだ見えないものがある。

 それが俺にはもどかしく、そして少し、寂しかった。

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