第17話 波紋

昼のチャイムが鳴り終わっても、

教室の中にはざわざわとした空気が残っていた。

笑い声とスマホの通知音が、

小さな石を投げた水面のように重なっていく。


凛花がふと、前の席の男子二人のスマホを見た瞬間、

その表情が微かに変わった。

それを察して、綾女もつられて画面の方を見る。


——そこにあったのは、文化祭で撮られた集合写真。


だが、問題はその"コメント欄"だった。


「この子、目やばくね?」

「加工みたい、なんか光ってる」

「ホラー展開乙」


軽い悪意。

それでも、綾女には十分すぎるほどの“刃”だった。


---


凛花が素早くスマホを閉じた。

その動作は、まるで目の前の炎を瞬時に布で覆うみたいだった。

「見なくていい。」

声が低く、落ち着いていた。

でも、その奥に、かすかな怒りの火が揺れているのを

綾女は感じた。


「……また、見られました。」


「ううん。違う。

 “覗かれた”んだよ。」


「覗かれた……」


「見るって、相互関係でしょ。

 でも“覗く”は、一方的。

 だから、それはあやめのせいじゃない。」


綾女は唇を噛んだ。

胸の中で、古い記憶がうずく。

いつもそうだった。

“ただ目が合っただけ”で、世界が崩れた。


「どうして、人は、

 わたしを見て怖がるんでしょう?」


凛花は答えなかった。

代わりに、鞄から黄色のハンカチを取り出した。

それを綾女の手にそっと押し付ける。


「ねえ、

 波紋って、悪いことだけに広がるんじゃないよ。」


「……え?」


「こうして、手を取ることも波紋。

 優しさにも、ちゃんと“伝わる力”がある。」


綾女はハンカチを握りしめた。

布の中に残る凛花の体温が、

確かに“現実”として伝わってくる。


---


放課後。

二人は、屋上の階段で座っていた。

風が強くて、空が近い。

錆びた手すりが陽を受けて赤く光っていた。


「先生がさ、

 学校のネット担当に報告してくれるって。

 画像、すぐに削除されると思う。」


凛花が言う。

その声は落ち着いているが、

その指先が微かに震えているのを綾女は見逃さなかった。


「……凛花さん、怒ってますね。」


「当たり前でしょ。

 “祝福の視線”を、

 誰かが勝手に毒に変えるの、ムカつくもん。」


「でも……

 みんな、悪気はないのかもしれません。」


「悪気がなくても、傷はできる。

 でも——」


凛花は、ポケットから小さな石を取り出した。

校庭の端で拾った、ただの白い石ころ。

それを手のひらで転がしながら言った。


「これ、さっきの“波紋”の話。

 これを池に落とすと、

 広がる波が、必ずんだって。」


「……帰ってくる?」


「うん。

 池の端にぶつかって、中心に戻る。

 だから、あやめが今日感じた痛みも、

 きっと“別の形の優しさ”になって戻ってくる。」


「そんなふうに、考えたことなかったです。」


「悲しいことも、使い方次第で“伝達”になる。

 だって、波紋は止められないけど、

 次の石を投げる方向は選べるでしょ?」


その言葉に、綾女はゆっくりと息を吸った。

風の音の中で、

胸の奥の何かが静かに溶けていく。


「……凛花さん。

 もし次に、誰かが同じことを言ったら、

 どうしたらいいですか。」


「“波紋の中心は、私だよ”って言えばいい。」


「……そんなふうに言えません。」


「じゃあ、

 “あなたの言葉、ちゃんと届いたよ”って言う。

 届くってことは、もう壊れないってことだから。」


綾女は小さく笑った。

「凛花さんって、怒るときまで優しいですね。」


「怒るって、

 守りたいものがある証拠だから。」


風がふたりの髪を揺らす。

校舎の影が長く伸び、空は群青に変わっていく。

沈みかけた太陽の光が、ガラスの窓に反射して

小さな金色の波を描いた。


---


帰り際。

校門を出たところで、

凛花がスマホを取り出し、軽く笑った。


「もう消えてた。写真。」


「本当ですか?」


「うん。

 でもさ、あやめ。

 “消えた”っていうより、“還った”んだよ。」


「……還った?」


「ほら、波紋が中心に戻るみたいに。

 きっと誰かが、

 “この子をちゃんと見よう”って思い直したんだよ。」


綾女は少しの間、

何も言えずに立ち止まった。

胸の中がじんわりと熱を持つ。

それは、怒りでも恐怖でもない。

“信じる”という形の温度だった。


「……そうだったら、うれしいです。」


「うん。

 そう思うことが、もう優しさの波紋だよ。」


---


夜。

自室の机に戻ると、

綾女はノートを開き、ペンを取った。


 《波紋:受け取ること、返すこと。》


その下に、もう一行。


 《壊れるより、広がる方がいい。》


ペンを置くと、胸の中で凛花の声が響いた。

“波紋は帰ってくる”

“次の石は自分で選べる”


窓の外では、月の光が静かに揺れていた。

綾女はその光を新しい黒縁のレンズ越しに見つめる。

波紋は、もう怖くなかった。

だって、そこに映る世界は、

きっと自分の手で投げ返せるから。



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