第18話 暗室プロトコル
放課後の校舎は、光の代わりに音を持っていた。
階段を上る足音、部活帰りの笑い声、風が窓を叩く微かな響き。
どの音も、いつかどこかで聞いたことがあるような懐かしさを帯びている。
凛花がドアの前で立ち止まった。
「——あやめ、今日はここ。」
そこは、保健室のさらに奥にある小部屋だった。
カーテンで仕切られた暗室。
保健の先生に許可をもらい、
“緊急時に使える場所”として準備したという。
綾女は中を覗き込む。
遮光カーテンが重たく垂れ下がり、
壁にはランプがひとつ。
部屋全体が、光ではなく“呼吸”で満たされているような静けさ。
「……ここ、前に美術部が写真現像で使ってた部屋じゃないですか。」
「そう。
今は使われてないけど、
“世界を閉じても安全”な空間としてちょうどいいの。」
凛花がスイッチを入れると、
赤い非常灯がぽつりと灯った。
空気がやわらかく染まり、
二人の影が壁に溶けた。
---
「ここが、“暗室プロトコル”の基地ね。」
「プロトコル……?」
「うん。
この前みたいに発作が起きたとき、
ここに来て手順を踏む。
名前つけた方が、少しかっこいいでしょ?」
綾女は少し笑った。
緊張していた肩の力が、少し抜ける。
凛花が机の上にノートを広げた。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
1. 光量を下げる
2. 呼吸を整える(4秒吸って、6秒吐く)
3. “声”を聞く
4. “触覚”を確かめる(床、壁、ハンカチ)
5. “トン”で終了合図
ページの端に、凛花の手描きのマーク。
小さな太陽のイラストと、
「生還ルート」と書かれた矢印。
「これが“戻る道”。
昨日の波紋みたいに、
あやめがどこまで流されても、ここで戻れる。」
「……こんなに考えてくれてたんですね。」
「そりゃそう。
私、あやめの“帰還担当”だから。」
綾女は言葉を失った。
心臓の奥が熱くなり、目の奥がじんとする。
それを見て、凛花は軽く笑う。
「泣く練習じゃないからね。」
「泣いてません。」
「じゃ、さっそくテストしよ。」
---
凛花がカーテンを閉じた。
外の光が完全に消え、
赤いランプだけが部屋を染める。
その光は暗闇というより、深い水の底のようだった。
「まず、呼吸。
“吸って——吐く”。」
綾女は凛花の声を頼りに、息を合わせる。
空気がゆっくり肺を満たし、
吐き出すたびに体が軽くなる。
(1…2…3…4… 1…2…3…4…5…6)
そのリズムが、時計の針よりも確かな時間を刻んでいく。
「次、“声”。」
凛花が小さく歌い始めた。
声というより、音の連なり。
低い音と高い音が交互に揺れて、
部屋の中にやさしい波を作る。
綾女は、その波の中に身を委ねる。
赤い光が閉じた瞼の裏で滲み、
世界がゆっくり遠ざかる。
「どう?」
「……安心します。
でも、少し泣きそうです。」
「泣いていい。
それも“出口”だから。」
綾女は頷き、ハンカチを握る。
黄色の布が手の中で温かい。
握るたびに、“今ここにいる”という感覚が戻ってくる。
凛花の声が、静かに降りてきた。
「最後、“トン”して。」
綾女は親指でレンズを**トン**と叩く。
その瞬間、呼吸が一気に整った。
全身の緊張がほどけ、
重力が体の中心に戻る。
「戻ったね。」
凛花の声が笑っていた。
綾女はうなずき、目を開ける。
赤い光の中で、凛花が穏やかな目をして立っている。
その瞳が、今までよりも深く、温かい。
---
「この部屋、いいですね。」
「でしょ?
光が優しいから、“見える”練習にも使えるよ。」
凛花はランプのスイッチを少しだけ上げた。
赤が薄れて、オレンジの光に変わる。
壁の影がやわらかく伸びる。
「ねえ、あやめ。
これから世界がどんなふうに変わっても、
怖くなったら、ここを思い出して。
光がなくても、“戻れる”場所があるって。」
「……はい。」
「でも、本当は——」
凛花が一歩近づく。
その距離が、綾女の胸の鼓動を強くする。
指先が、ほんの少し触れた。
「——私が、その“暗室”になりたいんだ。」
綾女は息を呑んだ。
凛花の声は、囁きよりも静かだったが、
その一語一語が心の奥に沈んでいく。
「わたしが隣にいれば、
光が強すぎる日も、暗すぎる夜も、
どっちも平気になるでしょ。」
「……はい。
もう、平気です。」
綾女の声が震えた。
涙が頬を滑り落ちる。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
外の風の音さえ、やさしく響いた。
---
「ねえ、凛花さん。」
「ん?」
「このプロトコル、
わたしの名前、入れてもいいですか。」
「もちろん。
“綾女式 暗室プロトコル”。
それ、いい響き。」
「いえ、違います。
“凛花・綾女プロトコル”。
二人で作ったから。」
凛花が目を見開き、
すぐに笑った。
「——採用。」
二人の笑い声が赤い光の中に溶けた。
カーテンの向こうでは、
夕陽が校舎の壁を赤く染めている。
光と影のあわいの中で、
綾女は思った。
——世界を怖がらないということは、
誰かと暗闇を共有できるということ。
その気づきが、
心の底で静かに波を立てた。
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