水面の記憶
純情残業隊
第1話(かっちー)
玄関に投げ捨てたパーカーを着ては脱ぎ捨てての生活は何日目だろうか。受信ボックスには未読メールの山が残り、プロジェクトの締め切りは明日の朝一に迫っていた。
そんな状況にも関わらず、いやそんな状況だからこそPCと社用携帯の電源をすべて落とした彼は足早に駅へ向かっていた。
今夜の目的地は、漁港だ。
スマホに表示された潮汐表を確認しながら、彼は重い足を引きずりつつも、自分だけの逃げ場を目指して歩いていた。釣り竿と小さなクーラーボックスを携えた姿は、週末の楽しみに向かう人のようだが、実際のところは「日常からの一時的な退避」にすぎなかった。
「今日もどうせ釣れないだろうな」
彼は自嘲気味に呟く。これまで数ヶ月間、漁港に通い詰めていたが、まともに釣果を得た試しがなかった。それでも足を運んでしまうのは、あの静けさが自分の全部を空っぽにしてくれるように思えるからだ。
漁港に到着すると、いつもより少し澄んだ空気が土佐を包み込んだ。暗闇の中でぼんやりと灯る街灯が、海面に反射して揺らめいている。彼はいつもの場所に釣り座を構え、静かにルアーを投げ入れた。
しばらく無心で竿を振っていると、遠くから軽快な声が聞こえてきた。
「あれ、誰かいる?俺等以外にもここに来る人いるんだ」
その声の主は、明らかに“陽”をまとった男だった。ブランド物のカジュアルな服装に最新の高級ロッドを携えて
「釣れてます?」
男が軽く手を振る。
土佐は少し身構えながら、
「いや、全然。いつもこんな感じですよ」
そっけなく答えた。
「俺も似たようなもんだよ」
笑いながら、男は彼の隣に腰を下ろした。
彼の名は
「なんでこんな場所に?」
聞かれた土佐は、一瞬戸惑った後、正直に答えた。
「釣りが好きってわけじゃないんです。ここに来ると、なんとなく落ち着くから」
土井はその答えに何か共感を覚えたようで、
「わかるわかる」
そういって頷いた。
二人が並んで竿を振るっていると、もう一人の影が現れた。
「土井、また来たの?毎日女ひっかけてるのに、あんたほんと元気だよね」
低めの声と共に現れたのは、一人の若い女性だった。ヘッドライトに浮かび上がったのは、コンパクトなフィッシングベストに身を包んだ
彼女は土井の幼馴染らしく、容赦のない口調で彼をたしなめつつも、どこか親しげだった。
「いやいや、理沙こそこんな時間に釣りってどうなの?彼氏に怒られるぞー」
土井が笑いながら返すと、土佐を見て微笑みかけた。
「こんばんは。こいつと一緒に釣りしてるんですか?」
「いや、今さっき会ったばっかりです」
土佐は控えめに答えた。
「ふーん。そうなんですね」
玉井は話もそこそこに釣りの準備を始め、慣れた手つきでルアーを投げ込むと、すぐに見事なアクションで魚を引き寄せた。
「よし、来たぁ!」
彼女が釣り上げたのは、見事なアジだった。
「二人とも暗いねえ。ま、これがセンスってやつですかね」
玉井は得意げに微笑む。
いつもなら雑音にしか聞こえない他人の声が、今日の土佐にはなぜか心地よかった。
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