転生したってことは死んでも魂が滅びないってことでしょ ~まずは自殺からのラスボス令嬢は王国の悪災と呼ばれてます~

星森 永羽

転生したってことは死んでも魂が滅びないってことでしょ ~まずは自殺からのラスボス令嬢は王国の悪災と呼ばれてます~






 空気は冷たく、音楽は止まり、運命が静かに崩れ始める──。


 王立学院・卒業パーティー。

 大講堂を満たしていた笑い声と拍手は、たった一言で凍りついた。


「セレナ・ヴァン=ルミエール公爵令嬢。

君の数々の悪行を、ここに断罪する」


 壇上の中央に立つレオン・アルセイド第一王子の声が、石造りの天井に反響する。


 まるで“宣告”そのものが、この国の法となるかのように。


 ざわ、と空気が震えた。


 音楽隊は演奏をやめ、吊り下げられたシャンデリアが微かに軋む。


 生徒たちの視線が一斉に、ウェーブの効いた赤髪を束ねた長身美女セレナへと注がれた。


「聖女ミリアを誹謗中傷し、持ち物を壊し、階段から突き落とした。


過去には令嬢の愛鳥を撃ち、その羽でアクセサリーを作り贈った。


第1王子である私との婚約に反対した貴族派を粛清しようとし、庶民の憩いの場を燃やした。


私に色目を使った令嬢や使用人は行方不明になった。


『好きな作家の本が輸入できなくなったから』と、民族紛争地域に矢の雨を降らせた」


 レオンは息を吐きながら、言葉を叩きつける。


「これでは未来の国母には到底なれまい。

よって、ここに婚約を破棄する!」


 会場が、静まり返る。


 王族の命令にも等しいその言葉に、誰もが凍りついたまま動けない。


 しかし、ただ1人セレナは微笑んでいた。


「それだけ? まだあるでしょう、王子様」


 涼やかな声が響く。


 レオンの表情が歪み、群衆の間にざわめきが戻った。


 セレナはドレスの裾を軽く摘み、1歩、前へ進む。


「では、私からも1つ」


 その瞬間、彼女の瞳は炎のように光った。


「王子レオン・アルセイドは、聖女ミリアと密会を重ね、婚約者である私を裏切っていた。

──その証拠は、ここに」


 セレナは懐から数通の手紙を取り出し、宙に放った。


 紙片が舞う。


 それはレオンの筆跡で綴られた甘い言葉。


「君の笑顔が救いだ」

「夜が明けても、そばにいたい」


 その1枚1枚が、王子の頬を焼いた。


 ざわめきが怒号に変わる前に、セレナは胸元から小瓶を取り出す。


 中には淡く輝く紫の液体──毒。


 会場の全員が息をのむ。


「私は、命をもって貴様らの不貞を抗議する」


 セレナの声は震えず、むしろ誇らしげに響いた。


 誰も動けない。


 レオンの伸ばした手が、空を掴む。


「さようなら、王子様」


 液体が喉を通る音が、異様なほど鮮やかに響く。


 次の瞬間、彼女は微笑んだ。


 その唇が、音もなく言葉を紡ぐ。


「ワタシノカチ(私の勝ち)」


 白い肌が紫に染まり、世界が軋む音を立てた。


 シャンデリアの光が瞬き、楽団の譜面が風に舞う。


 時間が歪み、色が褪せていく。


 その瞬間、世界は確かに──壊れた。












 ──チュン、チュン。


 窓の外で小鳥が鳴いている。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まるで「また始まるよ」と告げていた。


「お嬢様、朝ですよ。登校の準備を──」


 控えめなノックと共に、メイドの声が聞こえた。


 その声はわずかに震えている。


 セレナ・ヴァン=ルミエールは、ゆっくりとまぶたを開けた。


 天井は見慣れた学園寮のもの。


 白いカーテン、花柄の寝具、淡い香水の残り香──

 全てが、昨日までと同じ。


 けれど、その昨日は「死んだ」はずだった。


「……また、セレナ? しかも学園……?」


 自分の声が他人事のように響く。


 メイドが顔を覗き込み、小さく息をのんだ。


「死んだはずなのに……?」


 その呟きに、セレナは小さく笑った。


 頬に触れた指先は温かい。血が流れ、生きている。


 けれど心の奥では、どこか冷たい水が流れていた。



 セレナはベッドを降り、鏡の前に立つ。


 寝乱れた髪を梳く指が、ゆっくりと揺れる。


 鏡の中の彼女は、かつてと変わらず美しい。



<セレナのモノローグ>


*乙女ゲームの世界に転生した。しかも、ラスボス令嬢として。*

*でも、転生できたってことは、魂は滅びないってこと。*

*なら、断罪や処刑に怯えて媚びるより、さっさと死んで、相手に傷を残して去ればいい。*

*どうせ魂は次へ行く。死は終わりじゃない、リセットボタン。*


*日本に戻りたい? もちろん。でも、どうしてもってわけじゃない。*

*気に入った世界があれば、そこで生きる。退屈なら、また死ねばいい。*

*何度でも。*



 琥珀色の瞳は澄んでいて、どこか冷たく──

 その微笑みは、水面に映る月のように静かに揺らめいていた。






 春の陽光が差し込む講堂。


 新入生たちの制服が一面に並び、期待と緊張が入り混じる。


 壇上には、ピンク髪の小柄な聖女ミリア・ハート。


 庶民出身の編入生にして予言の聖女。


 本来なら、ここで王子が一目惚れする“はず”だった。


 だが、違う。


 壇上に立つレオン・アルセイド第1王子の金髪が、微かに震えている。


 深い青の瞳は前を向いているが──焦点が合っていない。


「新入生の皆さん、ようこそ学園へ。私は──」


 声が震える。


 言葉が詰まり、喉が乾くように沈黙が落ちた。


 そして、聖女を──見ない。


 1度も、見ようとしない。


「え……? あれ? このシーン、違う……?」


 ミリアは小さく首をかしげた。


 彼女もまた、記憶を持っている。


 “前回の断罪と、セレナの毒死”を。



 後方の席で、セレナは微かに笑った。


 風に揺れるカーテンのような、静かな笑み。


*一目惚れのはずが、目も合わせない。

顔色が悪いのは、毒の記憶が残ってるから?*

*ふふ、いいわね。壊れていくのを見るのは。*



 壇上のレオンは、挨拶を終えると同時に足早に去った。


 その背中は、明らかに“恐れている”誰かに追われる者のようだった。


 ミリアは唖然とし、聴衆の拍手が空回りする。


 講堂の片隅で、セレナはスカートを揺らしながら立ち上がる。


 再び始まった世界。


 彼女にとっては2度目の学園生活──そして、彼にとっては“自死者と過ごす再現劇”の開幕だった。






 卒業したはずの学園生活が再開して、わずか数週間。


 春の陽射しが柔らかく差し込む教室の中で、すでに“聖女ミリア”は中心人物となっていた。


 彼女は転生者としての知識を活かし、この世界に馴染む速度が異常なほど早かった。


 宰相の息子ユリウス侯爵令息は、青い髪を靡かせて真顔で告げる。


「君の考え方は面白い。凡百の貴族とは違う」


 司祭の息子ノアが静かに頷くと、長い銀の髪束が揺れた。


「聖職者としての使命を感じます。あなたのような方に出会えたこと、神に感謝します」


 大商人の息子カイルは、茶色い癖毛を遊ばせながら、軽く肩をすくめる。


「情報屋として協力するよ。聖女様に借りを作っておくのも悪くない」


 そして騎士見習いディラン伯爵令息は、赤い短髪をいからせて真っ直ぐに捧げる。


「俺が守る。君がどんな運命でも、必ず」



 ──そのすべてを、セレナ・ヴァン=ルミエールは窓辺の席から眺めていた。


 午後の陽光が淡く揺れ、紅茶の表面に黄金色の光を落とす。


「さすがに攻略対象は全員美しいわね。ま、見慣れたけど」


 彼女はただ、静かにカップを傾けた。


 まるで舞台を見下ろす観客のように。


 あるいは、脚本をすでに知っている人間のように。





 そして、ある昼休み。


 その“舞台の主役”が、ついにこちらの席へやってきた。


「セレナ・ヴァン=ルミエールさん。ご挨拶が遅れました。私は──」


 柔らかな笑み、ぎこちない貴族の礼。


 それは誰もを惹きつける清らかな光。


 けれど、その光がセレナの影を濃くする。


 セレナは紅茶を啜った。


 返事をしない。


 顔も上げない。


 一瞬、空気が凍る。


 攻略対象たちがざわついた。


「無礼だぞ!」

 怒りに駆られたディランの声が響く。


「聖女に対して、その態度は……」

 ノアの言葉は諫めのようでいて、どこか優越を含んでいた。


「やっぱり“王国の悪災”は健在か」

 カイルが鼻で笑う。軽口のようで刃のように冷たい。


 ユリウスだけが沈黙していた。


 ただ、紅茶を啜るセレナを観察するように見つめ眉をほんの少しだけ動かす。



 静寂の中で、カップがカチリと皿に戻された。


 セレナがようやく顔を上げ、薄く微笑んだ。


「挨拶? ああ、選択肢は2つだものね」


 その声は、まるで別の世界のルールを語るように平然としていた。


 攻略対象たちは視線を交わし、戸惑いと警戒を混ぜた沈黙に沈む。


 ミリアは青ざめて硬直する。


 窓の外では桜が風に散っていた。











 迎賓館の大広間。


 シャンデリアの光が幾重にも反射し、宝石のように眩しく輝いていた。


 各国の大使や貴族たちが集まり、王国の威信を示す華やかな交流会が始まっている。


 そんな中「王国の悪災」と呼ばれた女が、震える王子レオンの手を取り、婚約者としてエスコートして入場した。


 彼女の名は、セレナ・ヴァン=ルミエール。


 人々の視線が一斉に集まり、ざわめきが起こる。


 けれど、その中心に立つセレナは一片の動揺も見せなかった。


 深紅のドレスをまとい、首筋まで完璧に整えられた姿勢。


 その立ち姿には威風があり、微笑には冷たい優雅さがあった。


 彼女の一挙手一投足が、まるで“記憶の中の正解”をなぞるように洗練されていた。


 話題の切り替え。

 誰も不快にさせない笑み。

 紅茶を口に運ぶタイミング。


 公爵令嬢としての立ち振る舞いを、完璧に再現している。


 それは“訓練された優雅さ”ではなく、“再生された優雅さ”だった。


 隣を歩く王子レオンは、胸の奥にわずかな違和感を覚えていた。


 彼女の見た目は、確かにセレナだ。


 しかし、その目に宿る光だけが──知らない。




 交流会が終わり、2人は人気のない廊下へと出た。


 高い窓から月光が差し込み、大理石の床に2人の影が並ぶ。


「君は……誰なんだ?」


 レオンの声は震えていた。


「一体、何をした? 元のセレナはどこへ行った?

なぜ時間が繰り返されている? 死に戻りの魔術など存在しないはずだ!」


 セレナは足を止め、ゆっくりと振り返る。


 その瞳は、氷のように澄んでいた。


「私が誰だろうと、あなたに関係ないでしょう。結婚するわけでもあるまいし」


 淡々と告げた言葉が、静かな夜気を裂いた。


 その瞬間、レオンの胸に走るのは怒りでも恐怖でもなく、喪失だった。


 彼女は確かに、セレナの形をしている。


 けれど、あの“情熱”も“痛み”も、もう感じられない。



<王子のモノローグ>


*この声も、仕草も、記憶の中と同じだ。

だが、魂が違う。*

*これは……時間の歪みのせいか?*

*それとも、彼女自身が“別の存在”になってしまったのか。*



 セレナは、振り返ることなく歩き去る。


 背筋を伸ばし、月光の中へと消えていった。


 その背中を見送りながら、レオンはかすかに囁いた。


「君は……“セレナ”じゃない」


 その声は、彼女には届かない。









 放課後。学園にある王族専用ルーム。


 夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、書類の山を赤く染めていた。


 重厚な机の向こうに、王子レオン、宰相の息子ユリウス侯爵令息、騎士見習いディラン伯爵令息が集まっている。


 話題はただひとつ。

 セレナ・ヴァン=ルミエール。


「彼女は……別人だ」


 レオンがぽつりと呟いた。


 その声は、まだ信じたくない者の響きを持っていた。


「態度が違う。言葉の選び方も、視線の向け方も。

以前のセレナなら、俺に熱烈な手紙を送ってきた。

今は……何もない。まるで、俺が空気だ。」


 ユリウスは腕を組み、冷静に分析する。


「確かに、観察していても“変化”は明らかだ。

だが、理由は不明だな。人格の変化か、記憶の改ざんなのか……」


 レオンは机に手を置き、低く言う。


「時間を巻き戻す魔法は存在しない。

だが、彼女が別人なら――タイムリープも否定できない。」


 沈黙が落ちる。


 やがて、ディランが椅子の背にもたれ軽く笑った。


「直接聞けばいいじゃないか」


「聞いた」

レオンの声は重く沈んでいた。

「だが、答えてくれなかった」


「それは王子が嫌われてるんだろ。」


「ぐっ……!」


 ユリウスがため息をつく。


「ならば、俺が聞くしかないな。観察者として、真実を確かめる義務がある。」


 レオンは、ユリウスを真っ直ぐに見つめる。


「気をつけろ。彼女は……何かを知っている。

そして俺たちよりも、“先”にいる。」


 ユリウスは静かに頷き、立ち上がった。


 窓の外には、夕陽に照らされた校庭が見える。




<ユリウスのモノローグ>


*セレナ・ヴァン=ルミエール。

*君は何者だ?*

*そして、どんな時間を──どんな未来を見てきた?*


 風がカーテンを揺らす。


 それはまるで、見えない誰かが笑ったかのように、柔らかく響いた。









 放課後の図書室。


 薄い陽光がステンドガラスを透け、木製の机に模様を落としている。


 遠くで時計が時を刻む音だけが響いていた。


 セレナ・ヴァン=ルミエールは、ひとり窓際の席にいた。


 白い指先が静かにページをめくる。


 その動作には、まるで世界の時間から切り離されたような落ち着きがあった。


 ユリウスは、扉を静かに閉める。


 誰もいない時間を選び、ここに来たのだ。


「セレナ・ヴァン=ルミエール。少し、話がしたい」


 彼の声は低く、慎重だった。


 だがセレナは顔を上げない。


 指先だけが、淡々と紙をめくる。


「話すことなんて、ないわ」


 その声音に、怯えも防御もない。


 ただ、退屈を持て余す者の気怠さが滲んでいた。


 ユリウスは、正面の椅子を引いて座る。


「君は、以前とは違う。

言葉遣い、表情、反応。

そして、王子への態度。

すべてが──“別人”のようだ」


「観察結果の報告? ご苦労さま」


 そこには皮肉も嫌味もなく、むしろ“退屈しのぎに弄ぶ玩具”を見るような無関心さがあった。


 ユリウスは眉を寄せる。


「もし君が“別人”なら、考えられるのは──記憶の改ざんか、人格の置換。

あるいは……時間の巻き戻しだ」


 セレナの指が、ほんの僅かに止まった。


 しかし、すぐに再び動き出す。


 その仕草さえも、まるで演技のようだった。


「……ふふ。ずいぶんと飛躍したわね」


「飛躍ではない」


ユリウスの声が、静寂を切り裂く。


「王子の異常な反応。聖女の動揺。

君の変化。

すべてが、“この世界の前提が崩れている”証拠だ」


 セレナは小首を傾げた。


 その仕草すらも、まるで“人間らしさ”を模倣しているかのようだ。


「それで? 何が知りたいの?」


 ユリウスは一瞬だけ躊躇し、やがて低く言った。


「君は何者だ?」


 目が合った瞬間、ユリウスの喉がわずかに鳴った。


 彼女の瞳は、澄みきった水面のように静謐で、底が見えない。


「それを知って、どうするの?」


 微笑とともに問われ、ユリウスは言葉を失う。


 問いの重さではなく、その“軽さ”に圧倒された。


 セレナは再び視線を本に戻す。


 ページをめくりながら、まるで興味のない話題を扱うように言った。


「いいこと教えてあげる」


 指先がページを撫でる。


 陽光が紅髪を透かし、絹糸のように光った。


「私が“面白い”と思ったら、あなたの聞きたいことをひとつ答えてあげる。でも今は無理」


 ぱらり、と紙の音がした。


「あなた、つまらないもの。

この本のほうが100倍マシ」


 ユリウスは息を呑んだ。


 その言葉には侮辱の色すらない。


 ただの事実として、退屈な世界の延長線に“彼”を置いているだけ。


 彼はその瞳に、恐怖ではなく──奇妙な崇高さを見た。


 この女は、生きることすら“暇潰し”に変えてしまう。


 図書室の静寂の中、ページをめくる音だけが続いていた。










 昼下がりの中庭。


 陽光がきらめく石畳の上を、セレナ・ヴァン=ルミエールは1人歩いていた。


 風が紅髪をさらうたび、芳醇なワインが香り立つような錯覚に陥る。


 赤髪の騎士見習いが現れる。


 若く、まっすぐで、すぐに傷つきそうな瞳──ディラン・ヴァルガ。


「セレナ・ヴァン=ルミエール! 俺が護衛に来た!」


 セレナは足を止めず、横目で彼を一瞥する。


 その視線は刃のように冷たく、退屈の裏側にかすかな愉悦を宿していた。


「……殿下の命令?」


「そうだ。君が何か危険なことをするかもしれないって。

だから俺が見張る。──いや、守る!」


 セレナはようやく振り返る。


 目元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「言葉で勝てないから、行動で押すのね。

でも、護衛は要らないわ。私は自分で自分を守れる」


「それでも、俺は君のそばにいる」


 ディランの声は真っすぐで、どこまでも誠実だった。


「君が何者でも、何を考えていても、俺は騎士として、目を逸らさない」


 セレナは唇に指を添え、くすりと笑う。


「ふふふ……騎士って、本当に面倒ね。

じゃあ、勝手にすれば?

でも、邪魔したら容赦しないわ」


 ディランは頷き、少し距離を取りながらついてくる。






 ルミエール公爵邸の門前。


 歩道がオレンジに空気の中、ディランは剣を背に立っていた。


 朝は夜明け前から夜は遅くまで、彼は一歩も動かず門を守っている。


 セレナが外出しようとすると、彼はすぐに立ち上がった。


「おはよう! 今日も護衛を──」


 セレナは淡々とした声で遮る。


「今日はあのピンクの痴犬、連れてないの?」


 ディランの顔が一瞬で真っ赤になる。


「聖女様を、そんなふうに呼ぶのは──!」


 セレナは頬に指を当て、優雅に微笑んだ。


「怒ると耳まで赤くなるのね。かわいいじゃない」


 ディランの言葉が詰まり、視線が泳ぐ。


 セレナはその反応を観察するように見つめ、ゆっくりと歩き出した。





 翌日、学園の庭。


 セレナは椅子に腰を下ろし、本を広げながら言う。


「そこに座って」


「え?」


「今日は脚置きにしてあげる。

動いたら罰よ」


 ディランは戸惑いながらも、黙って座り込む。


 セレナは彼の背に脚を乗せ、何事もなかったかのようにページをめくった。


 風が本の端を揺らし、彼女の靴がかすかにディランの肩を叩く。


 日が傾きかける頃、セレナは本を閉じて言った。


「よく我慢したわね。ご褒美をあげてもいいかも」


 セレナはディランの前に、小さなクッキーを差し出した。


「ほら、おやつ。芸を見せたらあげる」


「芸って……何を?」


「『セレナ様は世界の中心』って3回言いながら回って。」


 ディランは一瞬ためらう。


 だが、結局──やってしまう。


 セレナは喉の奥で笑いながら、餌を渡した。





 学園の昼下がり。


 中庭では、いつものようにディランが“護衛”を続けていた。


 制服は正しく、姿勢は完璧――だがその瞳には、主に従う犬のような従順さが宿っている。


 通りすがりの男子生徒が、ひそひそと囁く。


「……あれ、セレナ様の脚置きになった騎士だよな?」


「俺もあんな風に扱われたい……」


「“駄犬”って呼ばれて怒られてるの、最高だった……」


 ディランは聞こえないふりをしているが、耳は真っ赤だ。


 その様子を、遠くから王子レオンが見ていた。


 眉間に深い皺を刻み、静かに息を吐く。


「……撤退させろ。もう無理だ。

彼は“セレナの下僕”になった」


 側近が戸惑いながら問う。


「ですが、殿下の命令で──」


「命令は撤回だ」


レオンの声は低く、ひどく静かだった。


「もう騎士じゃない。あれは──忠犬だ。

くそ、正体を見破るどころか次々仲間がマゾにされていくなんて……」


 レオンは背を向ける。


 陽光がその背中を照らすが、敗北を静かに告げるように影は濃く落ちていた。









 夜の校舎は、静かだった。


 廊下の端を、茶髪の少年──カイル・エインズが音もなく駆け抜ける。


 手には最新の小型の記録魔道具。


 大商人の息子たる彼にしか手に入らない。


 セレナ・ヴァン=ルミエールの行動を、彼はすべて監視していた。


「聖女と王子の接触、騎士の行動、側近たちの噂……完璧だ。

これで“真実”を掴める」


 彼は自信に満ちていた。


 影の情報屋、頭脳戦の支配者──そう呼ばれる自分に、誇りさえあった。


 だがその夜、廊下の奥から柔らかな声が届く。


「ネズミが走ってる音、うるさいのよね」


 その瞬間、背筋が凍る。


 気づいた時には、意識が闇に沈んでいた。


 ──そして、目を覚ます。


 そこは見知らぬ部屋。


 足と手はしっかりと縛られ、部屋の四隅には学園の男子生徒たちが集まっていた。


 皆、妙に浮かれた表情をしている。


「おはよう、カイル」


 柔らかな声が響く。


 視線を向けると、ソファに腰かけたセレナがいた。


 本を片手に、もう片方の手で紅茶をかき混ぜている。


「セレナ様の命令で、君を“調教”することになった」

1人の生徒が告げる。

「報酬は……セレナ様の罵倒だ!」


「なっ……」


 光悦とした生徒たちの表情に、カイルは言葉を失った。


 こんなふざけた茶番──そう思ったのに、誰も笑っていない。


 彼らは本気で“その報酬”を欲している。


 セレナがゆっくりと立ち上がる。


 その足音は軽く、しかし空気を支配していた。


「情報屋のくせに、罠にも気づけないなんて。

ほんと、無能ね」


 冷たく、しかしどこか甘やかすような声。


 その響きが、皮膚の奥に焼きつく。


 笑うはずのない言葉なのに、彼の心はざわめいた。


「まずは"コショコショ地獄"から始めてちょうだい。その次はマスタードを、たっぷり肛門に詰めるのよ。

そう、この先一生トイレに行く度に泣くくらい、たっぷりとね」


 セレナが真っ黒な笑みを浮かべたのを皮切りに、生徒達は鳥の羽を手に近寄ってきた。


 彼らは疲れを知らず、楽しそうに朝まで“罰ゲーム”を続ける。


 カイルの抵抗は次第に薄れ、羞恥と屈辱の中で、奇妙な安堵を感じ始めていた。


<カイルのモノローグ>


*勝てない。*

*この女は、情報戦すら“遊び”にしてしまう。*

*俺の武器は、彼女には通じない。*

*この人の掌で踊らされる方が楽だ。*


 夜明けの紅茶を啜るセレナの前に、カイルは跪いた。


 膝をつき、頭を垂れ、静かに言葉を紡ぐ。


「……軍門に下ります。

情報屋として、あなたに仕えます」


 セレナは本を閉じ、ゆっくりと微笑んだ。


 その笑みは慈悲にも似ていたが、実際は処刑宣告に近かった。


「ふふ、いい子ね。

じゃあ、まずは“ディランの芸”を記録してきて。

あなたにも仕込むから」


 カイルは頷いた。


 その瞳の奥には、敗北と──なぜか、淡い期待が宿っていた。


 セレナは彼を見下ろし、紅茶を一口。


 薄く唇を歪め、楽しそうに呟いた。


「ああ、人を嬲ったり蔑むのって、なんて楽しいのかしら。

心が弾むわ。

罵倒のレパートリーを増やさなくてはね」


 その声は甘く、そして何よりも美しかった。














「──君は何者だ?」


 玉座の上から降るような声。


 王の視線は鋭く、まるで相手の魂の奥まで覗き込むようだった。


 セレナは微笑みを崩さず、裾を摘まんで一礼する。


「ルミエール公爵が娘にして第1王子の婚約者セレナですわ」


「……そうか」


 王は一拍の沈黙を置き、玉座の背に凭れた。


 やがて、その口元に決断の影が宿る。


「君には、しばらく王城に滞在してもらう。

王子との交流を深めるため。そして、監視のためでもある」


 王宮の空気が張り詰める。


 命令の裏にある「疑い」と「興味」、その両方をセレナはすぐに察した。


 唇に艶やかな笑みを乗せ、囁くように返す。


「ふふ……檻に入れるつもり?

でもね、陛下。檻の中で暴れる獣ほど、扱いにくいのよ」


 その声音には、挑発と愉悦が入り混じっていた。


 王の眼光がわずかに揺らぎ、玉座の間の空気が動く。








 滞在3日目の夜。


 王城の白い廊下に、異形の影が蠢いた。


 月光を反射する甲殻、硫黄のような匂い。


 突如現れた魔物に、騎士たちは動揺し、王子レオンが咄嗟に前へ出た。


「セレナ、下がれ!」


 その声よりも速く、セレナは動いていた。


 ドレスの裾を払う仕草のまま、太腿のガーターに隠していた短剣を抜く。


 刃からは、淡い紫の毒煙が立ちのぼる。


「騒がないで。

こんなの、記録に残す価値もないわ。」


 1歩。


 わずかに重心を傾けたその瞬間、空気が切り裂かれる。


 魔物の咆哮が途切れ、次の瞬間には崩れ落ちていた。


 誰も、彼女の手の動きを見ていなかった。


 血の一滴もつかず、セレナは静かに短剣を拭う。


 ただ一人、王子だけが息を呑む。


*あれは“生きるための刃”じゃない。*

*あれは、“死ぬ覚悟を持った者の刃”だ。*

*セレナは、いつでも終われるからこそ、誰よりも強い。*











 翌日。

 王は再び、謁見の間にセレナを呼び出した。


 この国では例外を許さない男──だが今、その瞳には奇妙な尊敬の色があった。


「君は昨夜の混乱を鎮め、この城を守った。

……君には、“国母の器”がある。」


 王の言葉に、セレナの微笑みがわずかに深まる。


「器、ね。

私は誰かの母になるつもりなんてないわ。

でもこの国が、もう少し面白いなら。

その遊び、付き合ってあげてもいい」


 王は目を細めた。


 玉座の間に静寂が降りる。


「ならば──君に“選ばせよう”。

この国を、どう導くかを」


 セレナは片眉を上げ、軽やかに一礼した。


 その瞳には、冷たい炎が揺らめいている。









 数日後、王城で開かれた舞踏会。


 金糸のシャンデリアが煌めき、宮廷楽団が優雅な旋律を奏でていた。


 その中心で、セレナは深紅のドレスを纏い、すべての視線を集めていた。


 その姿はまるで、王国そのものを誘惑する女神。


 やがて、群衆のざわめきを割って、王が進み出る。


「──1曲、お相手願えますか」


 低く響く声。


 玉座の威厳を纏いながらも、その瞳には人間の熱が宿っていた。


 セレナは扇子を傾け、唇を弧にする。


「跪いて乞うなら」


 一瞬の沈黙。


 そして、王が膝を折る。


 その場のすべての人々が息を呑む中、セレナは白い指を伸ばし、王の手を取った。


 音楽が再び流れ始めた。


 










 魔物退治の後の学園は、熱気に包まれていた。


 王子も騎士も情報屋も、みなセレナに夢中だった。


 剣を抜く瞬間の冷めた目、何気ない仕草でからかう口調──どれもが彼らの理性を崩し、骨抜きにする。


 聖女ミリアは焦った。


「皆、どうしちゃったの……?」


 唯一、冷静を保っているのはノアだけだった。









 礼拝堂で、聖女は静かに信者たちに語る。


「セレナ様は……この国を乱しています。

王子を惑わせ、騎士を堕とし、神の秩序を壊そうとしている。

でも、私は彼女を憎んでいるわけではありません。

ただ神の意志に従いたいだけです」


 信者たちは、聖女の意向に従おうと心を決める。


 だが、命令は出ていない。すべては“聖女の意思に基づく行動”という形。


 その結果、様々な妨害がセレナに向けられる。


・部屋の扉に“穢れの札”が貼られる


・王子に「セレナ様は呪われています」と告げられる


・騎士団に「神に背く存在です」と密告される


 セレナはすべて把握していた。


 しかし、動かず、観察し、誰が動かしているのかを楽しんでいる。


 ある日、彼女は信者の1人に声をかける。


「あなた、誰に言われてこれをしたの?」


 信者は震えながら答えた。


「……神の意志です」


 セレナは微笑む。


「ふふ、じゃあ神に報告しておいて。

『セレナは退屈せずに済んで喜んでる』って」


 信者は混乱し、聖女に報告する。


 聖女は拳を握り、決意を新たにする。


「それでも、彼女は排除されるべき……」











 月光に照らされる王城の庭園。


 従者を従え、静かに歩くセレナ。


 背後に忍び寄る気配……。


「セレナ・ヴァン=ルミエール。

あなたは“聖女の物語”を乱す存在。

ここで消えてもらいます」


 ローブ姿の信者たちが現れ、聖道具でセレナを金縛りにする。


 セレナはとっさに身を翻し、逃げようとするが足元の罠が作動する。



 闇の中、剣が閃く。


 レオンが飛び込み、ユリウスが魔法障壁を張る。


 ディランは素早くセレナを抱えて跳び退く。


 カイルは青ざめながら呟く。

「やば……これ完全に“ヒロイン排除型信者”じゃん」


 信者たちは撤退。


 しかし、セレナは腕に深い傷を負う。


 それでも瞳は冷たく光っていた。





 治療室で、ベッドに座るセレナ。


 腕には包帯が巻かれているが、表情は微動だにしない。


「もう、待っていられない」


 レオンの声に、セレナは軽く頷く。


「教会の権力を盾にやりたい放題だものね」


 王子妃としての立場を確立することで、聖女や信者の妨害を無力化する。


 それは冷静で計算された決断だった。







 大講堂には卒業パーティーの熱気が満ちていた。


 貴族、教師、生徒たちの視線が、舞台中央の2人に集中する。


 セレナは優雅にドレスの裾を揺らし、堂々と並ぶ。


 レオンは少し緊張した面持ちだが、瞳には決意が宿っていた。


「私、第一王子レオン・アルセイドは、

セレナ・ヴァン=ルミエール公爵令嬢と婚姻を結びました。

結婚式は、予定より早く執り行われます」


 ざわめく大講堂。


 聖女ミリアは遠くからそれを見つめ、拳を握りしめる。


「……違う。

ヒロインは、私なのに……」


 しかし、既に王子とセレナは一心同体となり、聖女の策略を無力化していた。


 勝者は、セレナ──そしてその瞳に映るのは、冷たくも美しい計算と遊戯の光だった。














 部屋の雰囲気がどこか違う。


 制服が揃えられ、朝の光が差し込む。


 メイドが声をかける。


「レオン様、学校に遅刻しますよ」


 王子は目を丸くした。


「……え? この前、卒業したはずじゃ……?

何故、ここに? セレナは?」






 廊下では、セレナが普通に登校していた。


 表情も言動も前回と変わらず、だが王子にだけは何も語らない。


「また始まったのね」


 その声に、王子だけが感情を引きずる。


 焦燥、困惑、そして……妙な胸のざわめき。



 その光景を見逃さなかった聖女ミリアは、王子の混乱を指摘するように叫ぶ。


「ほら、やっぱり私の言う通りにしなかったからよ!

私は予言の聖女なのに。

セレナ様なんて、最初から選ばなければよかったの!」


 王子は耳を塞ぎたくなるような気持ちで、少しずつ聖女の言葉に揺れ始める。


 胸の奥で囁く「もしかして、本当にセレナ様が異常なのか……?」と。








 午後の光が差し込むルミエール公爵邸。


 静かな門を叩く音が響く。司祭の息子ノア・セレフィムだ。


 メイドが戸惑いながらも通すと、セレナは読書中。


「……珍しいわね。聖女の騎士が、私の家に?」


 ノアは微笑む。


「君に興味がある。

前周回で、君に堕ちた者たちの話を聞いた。

彼らは“跳躍”の記憶を持っていない。

でも、僕は持っている」


 セレナは本を閉じ、わずかに瞳を光らせた。


「それで? 私を観察しに来たの?」


「違う。

君と記憶を“共有”したい」


 その言葉に、セレナの唇がわずかに弧を描く。


「……ふふ、面白いじゃない。

じゃあ、まずは昼食から始めましょうか」






 学園の中庭。

 並んで昼食をとる2人。


 食堂から出前されてきたメニューは鴨のソテーとオニオンスープだ。


「どうして、またタイムリープが起きた?

僕の記憶では前周回、君は最後まで生きていたと思うが」


「ええ、私の記憶も同じよ。

王子と婚約破棄せず結婚したからでは?」


「まさか……王子と聖女が結婚しないと時間が巻き戻るって?」


「何らかの聖力が働いてる可能性も」


「放課後、一緒に調べてみよう」



 少し離れた場所で王子レオンが、聖女と並んで座っている。


 だが、視線はセレナとノアに釘付け。


 手にしたフォークが、ぐにゃりと曲がるように力が抜けていった。






 夕方、教会の静かな古文書室。


 セレナとノアは並んで書庫の扉を押し開く。


「教会の古文書に、“時間の神”の逸話がある。調べよう」


 2人は図書室、地下書庫、古代語の解読に没頭する。


「この文、君の名前に似てる」


「名前は確かに似てるけど……セレナなんてよくあるわ」


 しかしそのわずかな共鳴が、二人の間に不思議な連帯感を生む。


 次の周回をどう生き抜くのか──その計画は、すでに静かに動き出していた。









 迎賓館の大広間へと続く廊下。


 王子レオンとセレナ・ヴァン=ルミエールは、肩を並べて歩いていた。


 式典の準備が進む中、重々しい空気に混じって、王子の小さな呟きが漏れる。


「……俺と結婚する“はず”だったのに。

あいつと昼食をとる時間はあっても、俺とは目も合わせないのか」


 セレナは足を止め、王子を見上げる。


 と、言っても10センチしか違わないが。


 微笑はしているものの、瞳の奥には冷たさが宿っていた。


「“はず”って、何回目の話かしら?」


 王子は言葉に詰まり、視線を逸らすこともできない。


 拳を握りしめる手に、微かな震えが混じる。


「まだ俺達は婚約者だろ。

今回もう時間の巻き戻りが起きなければ、君は俺の妃になる。

それが“予言”の通りなら……」


 セレナは軽く肩を揺らし、冷笑に近い微笑を浮かべる。


「世間に何て言い訳するの?

また私を断罪して婚約破棄するのでしょう、聖女と浮気してからね。

その後に私と結婚? 無理よ」


 王子の胸に重く沈む言葉。


 拳はさらに固く握られる。


 タイムリープの記憶は鮮明に残っている。


 もしもう1度巻き戻すなら、セレナとの未来はまだ“救える”。


 だが、もう2度と同じ痛みを味わいたくはない。


 だからこそ、王子は“予言”に従うしかない自分を痛感していた。


 そのくせ目の前のセレナが、ノアと並んで微笑む姿を見ると、胸がざわつく。


 理性では分かっている。


 だが、心は言うことを聞かない。


 不意に、嫉妬と焦燥と、守りたい衝動が押し寄せる。


 王子レオンは、婚約者としての義務と、心の乱れの間で、微かに肩を落としたまま歩き続ける。





 迎賓館の大広間。


 クリスタルのシャンデリアが揺らめき、金色の光が艶やかに床を照らす。


 貴族たちのざわめきが背景音のように流れる中、セレナ・ヴァン=ルミエールは堂々と王子の隣に立っていた。


「……1曲、お相手願えますか」

 王の声がホールに響く。


 セレナは真顔のまま顎だけ上げて高飛車に言い放つ。


「跪いて乞うなら」


 王子はその言葉に一瞬、顔を赤くする。


 周囲の貴族たちが視線を向ける。


 静まり返る空間の中で、セレナの微笑はまるで刃のように光った。


 レオンは拳を握り、葛藤に沈む。


 婚約者としての務め、王子としての責務、そして心の奥底で芽生えた嫉妬……すべてが混ざり合い、熱を帯びる胸の鼓動に変わる。


 すっと膝を折ると「受け取れ」と言わんばかりにセレナが婚約者へと手を差し出した。


 ──受け取る。


 彼女は、そんな王子の揺れなど意にも介さず、曲に合わせて軽やかにステップを踏み始める。


 彼女の動きひとつひとつが、まるで周囲を翻弄するかのように、視線を集める。


 遠くから、王子の側近たちや聖女ミリアが目を見張る。


 特に聖女は、拳を握りしめながら苛立ちを隠せない。


「……違う。ヒロインは、私なのに」


 だが、セレナは静かに、そして確実に“王子の心”を支配していた。


 王子の視線は彼女の動きに釘付けになり、理性よりも感情が先に反応する。


 舞踏の輪の中で、王子の心は、婚約者としての義務と、“自分だけのセレナ”を守りたい欲望の間で揺れ続けた。


 その瞬間、セレナは王子の腕に手を添え、軽く微笑む。


 その微笑みは冷たくもあり、どこか挑発的でもある。


 会場の光が、彼女の瞳に宿る力を一層際立たせた。


 レオンは一歩も動けず、ただ彼女の動きに合わせて踊るしかなかった。


 それでも心の奥底では、セレナに支配されつつも、確かに何かを感じていた。


 嫉妬、焦燥、そして──守りたい衝動。


 迎賓館の舞踏会は、ただの公務ではない。


 婚約者としての立場と、王子の心の揺れが露わになる、2人だけの戦場だった。


 セレナは踊りながら、王子の視線を意識的に捕らえた。


 微笑みの角度、視線の送り方、時折見せる軽い挑発──

 そのすべてが、王子の心に針を刺すように作用する。


 レオンは必死に理性を保とうとするが、鼓動は早まり、汗が額に浮かぶ。


 ──目の前にいるのは、婚約者であるはずの女性。だが、その瞳の奥に宿るのは、冷静で計算高い支配者の色。


 手に汗を握りながらも、視線を逸らせない自分がいる。


「……セレナ、何を考えているのか、全く読めない」


 心の声が漏れそうになる。


 隣で微笑む彼女は、確かに“生きているだけで王子を翻弄する存在”だった。


 会場の片隅では、聖女ミリアが鋭い目で2人を観察していた。


 拳を握るその手には、焦燥と苛立ちが入り混じる。


「……ヒロインは私なのに」

 言葉に出すたび、胸の奥の焦りが増す。


 だがセレナは、聖女の視線など意に介さず、王子の腕に軽く手を添え、ささやくように言った。


「……私たち、いいペアじゃない?」


 その声に、王子の理性は完全に崩れた。


 周囲の歓声、貴族たちの視線、聖女の苛立ち──すべてが遠くなる。


 残るのは、ただ彼女の存在と、自分の心の動揺だけ。


 踊りながら、レオンは心の中で葛藤する。



*婚約者として守らねばならない義務。*

*でも、この笑み、この余裕、冷静さ──

俺は、もう彼女の前で無力だ。*

*どうして、こんなにも俺の心を乱すんだ……!*



 そして、舞踏の曲が終わりを告げる。


 セレナは軽く一礼し、王子の手を放す。


 しかしその視線は、まだ王子の心を弄ぶように残った。


「まだ遊びは終わらないわ。

私は退屈が嫌いなの」


 彼女はそう囁くと、次の輪に優雅に消えていく。


 レオンは唇を噛み、拳を握りしめる。


 このままでは自分が壊れる。


 だが、どうやっても彼女の心に触れられない。











 春の風が、淡く草木を撫でていく。


 学園の裏手にある野草園──授業以外では滅多に人が来ない静かな場所に、2人の姿があった。


「この野草、薬効があるのよ」


 セレナはしゃがみ込み、小さな白花を摘んで指先で転がす。


「前の周回で調べたわ。葉を乾燥させて煎じると、熱を下げる効果があるの」


「君の知的好奇心は植物にも及んでるのか……さすがだね」


 ノアは感心したように微笑む。彼の銀髪が陽光を受けて、やわらかく輝いていた。



 2人は近くの木陰に腰を下ろす。


 セレナが取り出した包みを開くと、ほのかな香ばしさが風に乗って広がった。


 中には、照り焼きサンドイッチ、だし巻き卵、そして味噌風味のポテトサラダ──見た目は西洋風なのに、どこか懐かしい“和”の香りがする。


「……これは、どこの国の料理?」

 ノアが興味津々で尋ねる。


「前世の記憶よ。日本ってところの味」

 セレナは淡く笑いながら答えた。


 ノアはひと口、サンドイッチを口に入れる。

 瞬間、瞳が見開かれた。


「跳躍より衝撃的だ……!」


「それは言いすぎよ」


 思わず笑って、2人の間に小さな風が生まれる。


 セレナはその笑顔を見つめながら、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなった。


「これから、どうしようか?」

 ノアが柔らかく問いかける。


「せっかくだから、苗でも買っていって植えましょうよ」


「君の家に? 君と?」


「もちろん」


「……とんでもない、ご令嬢だ。魅力的すぎて……ユリウスたちが前周回で君にのめり込んでいたのも納得だよ。なんて眩しい」


 セレナは小さく肩をすくめる。


「あなたの褒め言葉って、嫌じゃないわね。ちっとも退屈しないもの」


 ノアはその言葉に、かすかに目を細めた。


「光栄だな。君の『退屈しない』は最上級の称賛だから」


「まあね」


「婚約者殿(レオン)の言葉は退屈なのかい?」


 途端にセレナは弾けるように笑った。


 ノアがキョトンとする。


「あの人は違うのよ。自分が弱いから私やミリアみたいなモンスターに惹かれるの。無い物ねだりだって。

彼は女性は守るものと思ってるけど、本当は自分が守られたいの」


「君は……学者の中に少女まで飼ってるのか。それは誰も勝てないだろう」


 風に揺れる草花の音だけが、しばらく2人の髪を優しく揺らし続けた。










 王宮の大広間に柔らかなシャンデリアの光が降り注ぐ。


 赤い絨毯の上、レオンは一歩足を進め、目の前のセレナに視線を落とした。


「君に似合うと思った。王室の衣装室に、もう一ヶ月前から頼んでおいた」


 手を差し伸べ、彼はその白く美しい手の甲にそっと口づける。


「そうね、悪くないわ。ありがとう」

 セレナは小さく微笑んだ。



 会場に姿を現した2人は、まるでペアルックのような装いだった。


 セレナの真紅のドレスに合わせ、レオンも赤の装飾を身につけている。


 これまで王国の悪災として恐れられ、嫌われていたセレナが、堂々と王子と並んで現れた瞬間、会場はざわめいた。



 音楽が流れ、2人は踊り始める。


 レオンが小声で言う。


「ノアとデートしたそうだな」


「……?」

 セレナは驚いたように首を傾げる。

「1回目の卒業パーティーで婚約破棄した時、あなたの隣には聖女がいたのでは?」


 言葉に詰まったレオンの感情が、胸の奥で一気に波打つ。


「それでも……まだ婚約者だ」


 そして、彼は躊躇なくセレナを抱き寄せ唇を重ねた。


 周囲が息を呑む中、セレナは瞳を大きく見開く……だが、拒絶はしない。


 遠くからその様子を見つめるノア。


 銀の瞳は、静かに揺れていた。




 ダンスが終わっても、レオンはセレナの手を離さなかった。


 その隙を突くように、ユリウスがすっと間に入る。


「セレナ様、聖女があなたを探していました。

王子殿下、少し距離を取っていただけますか?」


 ディランも横から割り込む。


「王子、彼女に付きまとうのはやめてください。

聖女様が悲しみます」


 レオンは眉を寄せ、鋭く睨む。


「君たち……何を言ってる。彼女は俺の婚約者だぞ」


 ユリウスは冷静に返した。


「ですが、彼女の態度は明らかに拒絶です。

 王子の立場を考えるなら、無理強いは避けるべきかと」


 ディランは拳を握り締める。


「聖女様のためにも、セレナ様には近づかないでください!」


 だが、セレナは3人のやり取りを気にも留めず、笑顔でノアに駆け寄った。


 レオンが追おうとするが、2人が間に壁として立ちはだかる。


<レオン・モノローグ>

*彼らは知らない。*

*セレナが何度、死に戻ってきたか。*

*俺が何度、彼女を失ったか。*

*この執着は、記憶の代償だ。*






 舞踏会の余韻が、まだ天井のシャンデリアに揺れていた。


 音楽がふと止み、空気が張り詰める。


 その静寂の中心で、白い衣をまとった少女が壇上に立つ聖女ミリア。


「皆さま、どうかお聞きください


 澄んだ声が広間に響いた。


「私は“予言の聖女”として、この国の未来を見てきました。

 けれど……その未来を乱す者がいます」


 ざわ……と空気が震えた。


 視線が、自然とひとりの女性へと向かう。


 セレナ・ヴァン=ルミエール。


 深紅のドレスに身を包み、まるでこの場の緊張さえも嗜むように、彼女は静かに紅茶を啜っていた。


「セレナ・ヴァン=ルミエール様。

あなたは、王子を惑わせ、騎士を堕とし、神の秩序を乱しています。

その罪、ここに断罪します!」


 広間の片隅で、誰かが息を呑む。


 けれどセレナは、まるで退屈な講義を聞かされているかのように立ち上がった。


 裾がわずかに揺れ、紅の髪が光を撫でる。


「断罪? またそれ?」


 紅茶の香りとともに、冷たい微笑が零れる。


「レパートリーが少ないって罪ね。私も肝に銘じるわ。

常に瞬時に百通りの罵倒が脳裏に浮かばないようじゃ、“王国の悪災”の名折れだもの。

──で? 今回は“神の名”を使うのね。ずいぶん便利な盾じゃない」


 ミリアの唇が震える。


 その手の中の聖印が、かすかに光った。


「こ、これは神罰です。

あなたは異端者――跳躍者。

この世界にいてはならない存在!」


 ざわめきが広がる。


 “跳躍者”という単語が人々の間を走り抜けていく。


 ユリウスが眉をひそめた。

「跳躍者…? どういう意味だ」


 ディランが声を潜める。

「異端って……セレナ様が?」


 カイルは、薄笑いを浮かべながらグラスを揺らす。

「……面白くなってきたな」


 そのとき、王子レオンが1歩前に出た。

 青い瞳が強い決意に燃えている。


「やめろ、ミリア。彼女は俺の婚約者だ」


「だから、間違ってるのよ!」


 ミリアは悲鳴のように叫ぶ。


「レオン様は、私と結ばれる運命なの!

それが“予言”なの!」


 セレナは一歩、ゆっくりと壇上へと近づく。


 その足取りには迷いも恐れもない。


「今、その予言が外れたなら」

 冷たく、しかしどこか優雅な声。

「あなたが“間違い”だったのよ」


 空気が止まった。


 聖女は、言葉を失い、涙を浮かべた。


 その涙が頬を伝う音すら、会場の誰もが聞いたように錯覚する。


 セレナの瞳は、ただ静かに、真実だけを映していた。






 舞踏会の余韻と人々が、ざわつきながら去っていく中庭。


 月明かりの下で、セレナは再び紅茶を啜っていた。


 その隣に、ノアが静かに腰を下ろす。


「……ああいう時、僕に庇わせてくれないか。

君が断罪されるなら、僕が盾になる」


 ノアの声は低く、穏やかだった。


 セレナはカップを置き、横目で彼を見た。


「男の背中に隠れてメソメソ泣く趣味ないわ」


 ノアは、わずかに微笑む。


「君が消えるよりはいい。

僕は、君を守りたい」


 セレナは立ち上がり、夜風にドレスを揺らした。


 月光がその姿を白く縁取る。


「なら、記憶に残して」

 振り返らずに言う。

「私が、誰にも庇われずに立つ姿を」


 ノアはその背中を見つめ、静かに息を吐いた。


 彼女は、孤高という名の強さを、その身に宿していた。









 夜の教会の地下倉庫は、昼間の聖堂の清らかさとは裏腹に、重苦しい空気に包まれていた。


 偽装聖具が無造作に積まれ、封印された記録の束が棚に並ぶ。血のついた聖句が、暗がりで鈍く光った。


 セレナは、かすかな明かりのもとで静かにページをめくる。


 そして、低く呟いた。


「……これ、前周回では見つけられなかった。

もし見つけていたら、時間の巻き戻りは起きなかったかもしれないわ。

創生の神は“条件が揃わないと世界を進めない”って言ってる。

やっぱり、シナリオ通りにやらなきゃいけないのかしら」


 隣で記録を整理していたノアが手を止め、顔を上げる。


「何だって?」


 セレナは視線をそらさず、静かに言う。


「驚かないで聞いて。ここはゲームの中よ。

私たちは、この世界のキャラクターなの」


「そ……それは比喩?」


 セレナは首を横に振った。


 ノアはフッと息を吐き、こめかみに手を当てる。


「君が日本から来たと聞いた時から、いつかこんなことになるんじゃないかと思っていたよ」


 ノアはそっと、セレナの手に触れる。


「ここがゲームの中なら、終わらせよう。

そして、この世界を進めて、ずっと一緒にいよう」


 その言葉に、セレナの瞳が一瞬揺れた。


 弱さを見せるのはほんの一瞬、だがノアは見逃さなかった。


 彼女の手を握り直し、顔を近づけた──その時、地下倉庫の扉が叩き壊され、信者たちが押し寄せた。


 セレナの護衛騎士たちは必死に抵抗するが、多勢に無勢。


 彼女の周囲からすべての従者が追い出され、倉庫は封鎖される。


 その瞬間、ノアの元へ信者が神殿からの封書を持ってくる。


「君が跳躍者に加担するなら、セレフィム家は破門。

神殿の後継は剥奪される」


 震える手で手紙を握りしめるノア。


 その瞳に、わずかな恐れと決意が入り混じる。


 セレナは、静かに言った。


「なら、私があなたを守る。

 あなたの家族も、あなた自身も」


 ノアの瞳が輝く。


 初めて“庇護される者”としての光が宿った瞬間だった。




 それから僅か4刻後。


 夜の闇を裂くように、私兵たちが信者たちと激しくぶつかる。


 鉄と魔法の閃光が交錯し、地下倉庫は一瞬の戦場と化す。


 封印されていた扉が崩れ、セレナが静かに1歩踏み込む。


 足元の埃が舞い、冷たい空気が彼女のドレスを揺らす。


「神罰? そんなもの、王国の悪災である私には、かすり傷にもならないわ」


 部屋の角にいる聖女ミリアに向かって、セレナは淡々と歩みを進める。


 声に嘲りも怒りもない。冷静そのものだ。


「神罰を叫ぶなら、まず“あなたの神の民”を守ってからにして。

信仰が、彼らを救えるなら」


 その視線の先には、拘束された聖女の家族たちの姿。


 セレナの私兵が、捕えた彼らの首元にナイフを押し当てている。


 震える聖女は何も言えず、ただ立ち尽くすしかなかった。



 地下倉庫の闇の中、光を放つのはセレナだけだった。


 彼女の冷静さと圧倒的な存在感。


 そして、守るべき者のために動く決意が、周囲の空気を切り裂いていた。







 地下倉庫を奪還してから、1刻後のことだった。


 朝焼けが地上に満ち始めた頃。


 王都の中庭を、激しい足音が埋め尽くす。


 聖女派の旗印を掲げた騎士団──その先頭に、ディランとユリウスの姿があった。


「セレナ・ヴァン=ルミエール!」


 ディランの怒号が、空を裂く。


「人質なんて、卑怯だ! 騎士の誇りを汚す行いだ!」


 セレナは静かに前を向いていた。


 その背後には、黒衣の私兵たちが並ぶ。全員が無言、ただ主の命令を待っている。


 ユリウスが冷たい声で告げた。


「秩序を乱す者は、排除されるべきだ。

 聖女が沈黙した今――我々が正義を執行する」


 その瞬間、風が鳴った。


 ディランが抜刀し、白銀の光が一閃。


 セレナ側の先鋒が即座に反応し、火花が散る。


 衝突は一瞬で全面戦へと変わった。


 鉄と鉄がぶつかり、地を蹴る音が轟く。


 槍が唸り、炎の魔法が夜を照らす。


 セレナの私兵は鍛え上げられた精鋭揃いだったが、聖女の加護を受けた聖騎士たちは、まるで“信仰そのもの”を武器にしているようだった。


 戦場の中央で、セレナは冷静に声を響かせる。


「第2隊、左翼を包囲。──炎ではなく煙を使って。視界を奪ってから仕掛けて」


 その指示は、まるで軍師のように的確だった。


 だが、彼女の目はどこか遠くを見つめている。


 予言が崩れた世界。


 ここで何を選んでも、もう正史には戻れない。


 ユリウスが前に出る。剣を構え、叫ぶ。


「セレナ、俺はお前を敬っていた! だが、もう見逃せない!」


「敬意は、行動で示すものよ」


 セレナは小さく微笑み、掌をかざした。


 次の瞬間、地面の魔法陣が淡く光り、突如として無数の蔦が伸び、ユリウスの足を絡め取った。


「な――っ!」


「自然の法則を逆らう術なんて、聖女には扱えないわ」


 セレナが指を鳴らすと、蔦が爆ぜるように弾け、衝撃波が走った。


 ユリウスの身体が吹き飛び、石畳を滑る。


 だが、ディランがその隙を逃さない。


 突進、突き、斬り上げ──一撃一撃が怒りに満ちていた。


「セレナ! お前が正義を名乗るな!」


 刃が彼女の頬を掠め、赤い線が走る。


 その血を見て、ディランの表情が一瞬だけ歪んだ。


「やめろ、ディラン!」


 ノアの声が響く。


 彼が飛び込み、セレナの前に立った。


 次の瞬間、鋼の音が響いた。


 ──ノアが庇った。


 剣が彼の脇腹を貫き、赤が飛び散る。



「……ノア!」


 セレナが駆け寄る。


 ノアの身体が彼女の腕の中に沈み、血が彼女のドレスを染めていく。


「……なんで、庇ったのよ。

私は庇われる趣味ないって言ったじゃない」


 ノアはかすかに笑った。


 その笑顔は、いつもの優しい調子のままだった。


「でも……記憶は、君の中に残る。

それなら……僕は、消えてもいい」


「やめなさい、そんなこと……」


 セレナの声が震えた。


 その瞳に、初めて涙が滲む。


 外ではまだ戦いの音が響いている。


 だが、セレナにはもう、何も聞こえなかった。


 レオンは聖女の予言に従い、すでに“断罪”の宣言を準備している。


 このままでは、全てがまた“最初”に戻る。


 セレナはノアの血で濡れた手を握りしめ、静かに立ち上がった。


「私が死んだからといって、時間が巻き戻る保証はない。

でも……もう1度ノアに会えるかもしれないなら――賭けてみよう」


 胸元から、小瓶を取り出す。


 淡い紫の液体が、光を帯びて震えていた。


 ノアが、うっすらと目を開ける。


「セレナ……それは……」


 セレナは、彼の頬にそっと触れるだけのキスをした。


「もし世界が終わるなら、せめてあなたの笑顔を最後に見るわ」


 そして、蓋を開け、液体を喉の奥へ流し込む。



 世界が軋む。


 空気がひび割れ、水面のように波打つ。


 光と闇が入り交じり、時間の流れが逆転するような圧力がセレナを包み込んだ。


 視界の端で、ノアが手を伸ばす。


 その声は、もう届かない。


 次の世界で、また会いましょう。


 セレナの身体が光に溶け、夜が裏返った。


 そして再び、運命の水面が揺れる。













 学園の大講堂は、異様な静けさに包まれていた。


 王子レオン、ユリウス侯爵令息、ディラン伯爵令息が、聖女ミリアを囲む。


「前周回の予言は外れた。

セレナは跳んだ。ノアは死んだ。

それでも、君は“正しい”と言うのか?」


 レオンの声は、怒りでも、悲しみでもなく静かな決意の色を帯びていた。


 聖女は震える手で教壇を握る。


 それでも言葉を続ける。


「だって……これは“ゲーム”なのよ。

私たちは、乙女ゲームの中にいる。

あなたたちは、攻略対象。

私に好意を持つように“設計”されているの!」


 その瞬間、会場の空気が凍った。


 聖女はさらに告げる。

「私は、日本からの転生者――現実世界の人間。

この物語は、決まったシナリオに沿って進む乙女ゲーム。

あなたたちの感情も、行動も、すべて設定されたものなの!」


 ミリアが日本とゲームについて説明すると、ユリウスが眉を寄せ静かに声を漏らす。


「……つまり、俺の感情は“ゲームの強制力”によるものだった、ということか?」


 ディランも呆然と手を握りしめた。


「俺が聖女様を守ろうとしたのも……“設定”か?」


 聖女の瞳には、涙が浮かぶ。


「でも……でも、私は本当に、あなたたちを好きだったの!

設計されたとしても、心から好きだったの!」


 その言葉を受けて、レオンはゆっくりと歩み出た。


 視線は聖女ではなく、遠くの空を見つめる。


「俺は……セレナに惹かれた。

それは“強制”じゃなかった。

だから、俺は……この世界を壊す」


 会場に沈黙が広がる。




 ユリウスは拳を握り、目を見開いた。


「ならば、俺は“観察者”ではなく、“選択者”になる。

この世界のルールを、崩す」


 ディランも胸を張る。


「俺はもう、誰かに守らされる騎士じゃない。

自分の意志で、誰かを守る」


 2人の言葉は、空気を震わせる。


 聖女の呪縛が解かれ、彼らの魂に初めて自由が流れ込む。








 図書室の隅、窓辺の席。


 午後の日差しが、薄いカーテンを通して机の上に柔らかく広がる。


 セレナは静かに紅茶を淹れていた。


 カップは2つ。


 1つは自分の前に、もう1つは、誰も座らない席の向こう側に置かれている。


 湯気がゆらりと立ち上り、紙の匂いと混ざる。


 窓の外からは樹々の香り、遠くで揺れる風の匂いも運ばれる。


 その空気の中、誰ももう1つのカップの意味を尋ねない。


 それを問えば、彼女に届かないことを、皆が知っていたのだ。



 ユリウスは遠くの書棚の影から、穏やかな視線で見守っている。


 手元の動きは乱れず、指先は滑らかにページをめくる。


 それを確認して、彼はそっと書類に目を戻す。


 言葉にできない敬意を、沈黙で示すしかないことを知った。



 廊下の角を曲がるディランの目も、彼女に触れないが注意深い。


 すれ違うとき、歩幅を合わせ、数歩だけ並ぶ。


 何も言わないが、その“静かな護衛”が、彼の精一杯の想いだった。



 カイルは机の端に、そっと新しい記録紙を置く。


 誰にも気づかれず、まるで空気の一部のように。


 それは、彼女が次に何かを書き残すための、静かな準備。


 その小さな行為は、彼の心の祈りでもあった。



 図書室には言葉はなく、しかし静かな呼吸や紙のめくれる音、カップの揺れる微かな音が積もる。


 その無言の気遣いの中で、セレナはただ紅茶を啜る。


 唇に触れる熱が、わずかに手を温める。


 しかし指先は冷たく、ページをめくる動きは正確で滑らかだ。


 目は記録に吸い込まれるようで、時折遠くを見つめる。


 孤独の庭に立つかのようなその視線の奥に、誰も踏み込めない空間がある。


 だが、その孤独を包むように、仲間たちの気配が静かに寄り添っていた。












 迎賓館の廊下は式典準備でざわつく。


 木の床にカーペットが擦れる音、花を運ぶ人々の足音、掛け声。


 だが、セレナとレオンの歩く一角だけは、まるで時間が止まったかのように静かだった。


 セレナは彼の横を歩く。


 レオンは黙して、足音だけが2人の間を満たす。


 そのリズムは、言葉よりも深く、互いの存在を確かめる合図のようだ。


「今回は文句、言わないのね」


 横を見て、静かに呟くセレナ。


 レオンは足を止め、わずかに顔を向ける。


 瞳の奥に一瞬だけ迷いが揺れた。


 沈黙が2人の間に重く落ち、過去の言葉や行動をなぞる。


 その沈黙は、重さと優しさを同時に帯びていた。


「君が息災ならば、それでいい」


 低く、しかし確かに届く声。


 それは王子としてではなく、一人の人間としての祈りだった。


 断罪も、予言も、婚約も何もない。ただ、生きていてほしいという祈りだけ。


 セレナは何も返さず、静かに歩き出す。


 廊下の冷たい空気が頬を撫でる。


 レオンもその後ろを黙って歩く。


 4度目の再会。


 1回目、彼はセレナを迎えに行かず、2回目は震え、3回目はノアへの嫉妬を口にした。


 今はただ、祈るように言葉を選ぶだけ。


 窓から差し込む光が2人の影を長く伸ばす。


 影は互いを包み、揺れ、触れ合った。


 セレナは誰にも聴こえないよう小さく息を吐いた。











 学園の王族専用ルーム。


 深いベルベットのカーテンが窓を覆い、夜の静寂を包む。


 セレナは、円卓に集まった攻略キャラたちを見渡しながら、指を折った。


「1回目は、断罪の途中で私が自害して、時間が巻き戻った。

2回目は卒業パーティー後、私は生きていたのに巻き戻った。

3回目も、自害して巻き戻ったの」


 彼女は手を下ろし、紅茶の香りを鼻先で確かめながら、静かに口をつけた。


 湯気が指先にかかる。


 夜の冷気が差し込み、室内の静けさに一瞬だけ震えが混ざる。


「ゲーム本編には、ハッピーエンドとバッドエンドしかない。

ノーマルエンドは存在しない。

そしてどのルートでも、卒業式の日に私が断罪される。

断罪イベントが起きないと、バッドエンドになる。全員死亡。

だから2周目で時間が巻き戻ったの。

つまり、ゲームをクリアすることが、この世界の時間を進める条件だと思う」


ディランが拳を握り、床を小さく踏む。


「じゃあ……断罪は、“必要なイベント”だったってことか?」


カイルは冷静に頷く。


「つまり、断罪イベントを“クリア”すれば、エンディングが始まる。タイムリープも止まる」


レオンは低く、確かめるように呟く。


「君が跳ばなくても済むなら……俺が断罪する」


セレナは微かに頷き、紅茶を一口含む。


「やってみましょう。

“自発的な断罪”で、ゲームを終わらせる」


テーブルの上の影が揺れる。


誰も笑わない。


だが、決意が確かに、空気に重く沈む。










 夜空に向けて花火が遠くで上がる。


 学園の大講堂は華やかに飾られ、着飾った少女達がドレスの光沢を反射させ、まるで花々が降り注ぐようだ。


 壇上に立つセレナは、落ち着き払って目前の婚約者を見つめていた。


 王子が1歩前に出る。


 空気が、音が、視線が──すべてが張り詰める。


 断罪イベント、開始。


 レオンの声が静寂を破る。


「君は魅力的すぎるのが良くない。

結婚したら、私は仕事をしなくなってしまう。

だから、君の存在は罪だ。

よってここに……婚約をは、きす、る」


 会場がざわつく。


 参加者の間から、ささやき、困惑、戸惑いが混ざり合う。


「それ、裁いてる?

ただの愛の告白じゃないの?」


 ユリウスが穏やかに、しかし確信を込めて続ける。


「君は強すぎる。

俺たちに守らせる隙がない。

だから、罪だ。

守らせろ。

ただし、俺は理論武装を持ってして戦う」


 ディランは拳を握り直す。


「俺は君に償いを続ける。

今度は俺が命をかけて守る。

それが、俺の贖罪。

君の強さを、俺の弱さで包ませてくれ」


 カイルは、少し笑みを浮かべながらも真剣だ。


「君の強さは完璧すぎる。

だから、罪だ。

俺の不完全さで、君を乱したい」


 壇上のセレナは、言葉を発さない。


 目の前に広がるのは、彼らの歪んだ愛。


 守ろうとする者、償おうとする者、翻弄しようとする者。


 彼女はただ、それを聴いていた。



 ノアの姿は、どこにもなかった。


 かつて庇い、愛を告げてくれた彼だけは、もうここにいない。


 彼女はそれを思い、胸の奥に微かな痛みを抱えた。


 しかし世界は、確かに動いている。


 進むのか、戻るのか。


 夜空の花火が1つ、廊下の窓から見えた。














 朝の鐘が鳴る。


 セレナは目を覚ます。


 また、同じ制服。


 また、同じ校舎。


 だが、胸の奥にぽっかりと空いた感覚。


 今度もノアはいない。


 断罪イベントは“失敗”したのだ。


 窓の外の光は昨日と同じ。


 でも世界の空気は、どこか薄く、冷たく感じた。





 学園の王族専用ルームでは、攻略対象者達が朝から膝を突き合わせていた。


 カイルが眉を寄せる。


「……あれ、断罪だったよな?

俺、確か“罪だ”って言ったはずだが……」


 ディランは拳を握り、苛立ちを隠せない。


「俺なんて命かけて守るって言ったぞ?

それが、断罪じゃないのか?」


 ユリウスは首をかしげ、冷静に分析する。


「いや、あれは“告白”って判定されたんだろう。

セレナ嬢は処刑もされてないし……」


 レオンは静かに視線を落とす。


「……セレナが跳んだ。

つまり、俺たちの“断罪”は足りなかった」


 言葉にならない重みが、部屋に沈む。


 それぞれが己の未熟さを、悔しさを噛み締めるように。








 セレナは図書室に向かう。


 攻略キャラたちも、黙ってついてくる。


 誰も言葉をかけない。


 でも、全員の背中には確かな決意が見える。


 次こそは、世界を進める。


 棚の隅に、埃をかぶった古文書が並ぶ。


 セレナは手を伸ばし、一本を引き抜く。


 その背表紙には、見覚えのある文字。


*「断罪条件とは魂の否定である」*


ページをめくり、静かに呟く。


「……次は、ちゃんと裁いてもらうわ。

愛じゃなくて、罪として。」


 攻略キャラたちは黙ってうなずき、距離を保ちながらもセレナに付きまとう。


 彼女が紅茶を注ぐと、勝手に砂糖を加え、黙って微笑む。まるで “自動砂糖補充要員” のように。







 ある日、セレナは穏やかに言う。


「暇なら、ついてくる?

城の地下、まだ調べてないわ」


ユリウスは瞬時に応答する。


「護衛任務、了解」


ディランは真剣な顔で前に出る。


「俺が先に行く。危険があれば庇う」


カイルは小さく笑い、ペンを握った。


「記録係として同行する。

あと、君の足音を記録したい」


レオンは少し迷ったように目を細める。


「……君が行くなら、俺も行く」


 セレナはため息をついた。


 誰も止めない。


 この沈黙の中にこそ、信頼と決意があることを、彼女は知っていた。







 階段を降りるたびに冷気が増す。


 石壁の隙間からは湿った空気が漂い、ランプの明かりが揺れる。


 攻略キャラたちは、セレナの後ろに黙って並び、その影を踏むように歩いた。



 奥に進むと、巨大な扉が現れる。


 古代語で刻まれた文字が、石に深く浮かび上がる。


*「魂の記録者以外、開くべからず」*


 セレナが手をかざすと、扉が軋むように開き、空気が震える。


 中は祭壇のような空間で、中央に古文書が置かれていた。


 ユリウスが懐中の書物を開き、声を低く響かせる。


「“断罪”とは、魂の否定ではない。

本来は、“世界の構造を認めること”だった。

跳躍者が自らの役割を受け入れた時、世界は進み、記録は閉じる──」


 セレナは目を閉じ、剣を軽く握る。


「つまり、私が“ラスボス令嬢”として裁かれることを受け入れれば、このゲームは終わるのね」



 さらに奥へ進むと、跳躍者たちの記録が刻まれた石碑がずらりと並ぶ。


 その中に、見覚えのある名前──マユ・タナカ。


 下にはこう刻まれている。


*「記録は失われず、次の世界に引き継がれる」*


セレナは指で文字をなぞる。


「なるほど、セーブデータってことね」


 指で軽く押すと、半透明の画面が浮かび上がり、セーブデータ1~5までが並ぶ。


「この世界を終わらせるために、私は“罪”として裁かれてあげましょう」



 その瞬間、祭壇の奥から衝撃的な声が響いた。


「セレナ様を捕らえなさい!

この世界は私の物語なのよ!」


 ミリアが兵士たちを率いて現れ、光の剣を振りかざす。


 空気が振動し、床の石が割れる。


 レオンが前に出る。


「俺が守る!」


 剣を構え、兵士たちの突撃を正面から受け止める。


 ユリウスも杖を掲げ、結界の符を唱える。


「記録を壊させるな!」


 石碑の周囲に光の壁が立ち上がり、兵士たちの動きを封じる。


 ディランは駆け出し、両手で剣を振る。


 兵士の槍を受け止め、反撃の一閃を繰り出す。


 刃がぶつかり合う音が、地下空間にこだまする。


 カイルは手元の書類を光らせ、魔術陣を描く。


「セレナ様は俺の芸術だ!」


 魔力の奔流が兵士を吹き飛ばし、戦場の一角を制圧する。


 ミリアは聖なる力を暴走させる。


「どうしてよ!?

私がヒロインなのにぃぃぃ!!」


 光が渦巻き、祭壇全体を揺らす。


 セーブデータの半透明画面が歪み、崩壊しかける。


 その瞬間、奥から銀と紫の光が差し込み、暴走を押さえ込む。


 ユリウスは呟く。

「……ノアだ。彼の魂が、セレナを守ってる」



 セレナは目を閉じ、冷静に剣を抜く。


 刃は、かつて自分が育てた毒草で鍛えた“断罪の剣”。


「ありがとう、ノア。

でも、ここからは私の役目」


 1歩踏み出し、祭壇の中心に進む。


 ミリアの光が近づく。


 セレナは迷わず剣を突き刺す。


 振り返ったミリアの瞳が、見開かれる。


「まさか……あなたが、私を……?」


「自殺が怖くないのに、他殺が怖いわけないじゃない」


 衝撃と共に、ミリアは崩れ落ち、聖なる光が消える。


 戦闘は静まり返り、祭壇の空間に静謐が戻った。




 静まった室内で、セレナは1番上のセーブデータに触れる。


 体が透けていくのを感じ、攻略キャラたちは慌てて駆け寄る。


「待ってくれ!」


「君は悪くない!」


「処刑なんて、させない!」


 セレナは微笑む。


「だから、それが罪なのよ。

“愛されすぎた”ことが、ね」


 攻略キャラたちはその言葉に言葉を失い、ただ見守るしかなかった。














 空気は冷たく、音楽は止まり、運命が静かに終わり始める──。


 王立学院・卒業パーティー。

 大講堂を満たしていた笑い声と拍手は、たった一言で凍りついた。


「セレナ・ヴァン=ルミエール公爵令嬢。

君の数々の悪行を、ここに断罪する」


 壇上の中央に立つレオン・アルセイド第一王子の声が、石造りの天井に反響する。


 まるで“宣告”そのものが、この国の法となるかのように。


 ざわ、と空気が震えた。


 音楽隊は演奏をやめ、吊り下げられたシャンデリアが微かに軋む。


 生徒たちの視線が一斉に、ウェーブの効いた赤髪を束ねた長身美女セレナへと注がれた。


「聖女ミリアを誹謗中傷し、持ち物を壊し、階段から突き落とした。


過去には令嬢の愛鳥を撃ち、その羽でアクセサリーを作り贈った。


第1王子である私との婚約に反対した貴族派を粛清しようとし、庶民の憩いの場を燃やした。


私に色目を使った令嬢や使用人は行方不明になった。


『好きな作家の本が輸入できなくなったから』と、民族紛争地域に矢の雨を降らせた」


 レオンは息を吐きながら、言葉を叩きつける。


「これでは未来の国母には到底なれまい。

よって、ここに婚約を破棄する!」


 会場が、静まり返る。


 王族の命令にも等しいその言葉に、誰もが凍りついたまま動けない。


 しかし、ただ1人セレナは微笑んでいた。


「承りました。婚約破棄、お受けいたします」


 その言に、王子の顔が歪む。


「……何を企んでいる?」


「何も」


「嘘だ! あれだけ俺に執着していた君が、あっさり婚約破棄を受け入れるなんて。

何か企んでいるに決まっている!

クーデターか? クーデターだな?!

おい、今すぐ彼女を捕縛しろ!」


 その命令と同時に、警護兵たちが動こうとした瞬間、セレナの笑い声が会場を支配した。


「相変わらず臆病なのね。

私はただ、あなたに興味がなくなっただけよ」


 王子の指示に動こうとした兵たちは一瞬足を止め、戸惑いの視線を交わす。


 セレナの言葉は、ただの拒絶ではなく、全身から放たれる圧力と自信で、周囲を震わせていた。


「嘘だ! 毎日のようにデートを催促する手紙を送ってきていたではないか!」


「今となっては、あなたの何が好きだったのかさえ思い出せないの。

思い出す価値もないの、私にとって」


 王子は顔を赤らめ、言葉を探すように唇を動かす。


「しかし──」


「さようなら、王子様。また私の勝ちだわ」


 レオンは絶句した。


 セレナの圧が強かったから。


 勿論、その通り。


 けれど、それ以上に彼女の笑顔が、これまで見たどれより眩しかったのだ。


 その後の処刑を躊躇うほどに。













 ──チュンチュン。


 窓の外で小鳥が鳴く。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やわらかく部屋を満たす。


 その光は、まるで「現実だよ」と、優しく告げているようだった。


 マユはぱっと目を開ける。


 天井は見慣れたもの、枕の感触も、布団の重さも、すべて現実だった。


「……え? 戻ってるの?」


思わず声に出す。


「マユは過労死したんじゃなかったの? 夢……にしては長すぎるでしょ」


 慌てて起き上がり机の上を見ると、そこには乙女ゲームのパッケージが静かに置かれていた。


 画面には小さく光る文字──


 “断罪ルート・クリア済”


 マユは息をつき、ゆっくりと悟る。


「転生じゃなくて、憑依だったのね。

そしてそれがバグになって、私の自死で強制リスタートになった……。

……はぁ、長かった……」


 不気味で不思議で淡い夜のような日々が、一気に頭を駆け抜ける。


 それでも今、確かに“戻った”ことを実感できた。








 実家のリビングには、日常の光景が広がっていた。


 母が笑顔で夕飯を並べ、父はテレビに見入る。


 妹はスマホの画面を追い、アイドルの動画に声を上げていた。


 マユは扉を開け、静かに足を踏み入れる。


「……ただいま」


 誰も振り向かない。


 でも構わない。


 彼女が何度も死に、何度も跳び、ようやく帰ってきたことを、誰も知らなくてもいい。


 それで、十分だった。


 この世界こそが、マユにとっての“本当の場所”なのだから。







 午後のカフェで、学生時代の友人と再会した。


 話題は自然と、仕事の愚痴や恋愛のこと、推しの話題へと流れる。


 マユは笑いながら、友人の話に耳を傾ける。


「ねえ、最近元気になったよね?

なんか……吹っ切れた感じ」


 マユは紅茶をそっと啜り、微笑む。


「うん。ちょっと、長い夢を見てたの。

でも、もう目が覚めたから」


 胸の奥が、ゆっくりと温かさで満たされる。


 あの日々も、もう影として遠くにあるだけだった。




 夜、自室に戻ると、机の上のポータブルゲーム機が目に入る。


 セレナの最終セーブデータを見つめ、マユは静かに蓋を閉じる。


「もう、跳ばない。

もう、死なない。

私は、ここで生きる」


 決意とともに、長く濁っていた時間が晴れるような気がした。









 仕事帰り、立ち寄った図書館で、マユは静かに資料をめくっていた。


 隣に座った人物が、ふと目に入る。


 銀髪、紫の瞳──


 制服でも神官服でもない、ただの私服の青年。


 彼は静かに本を閉じ、柔らかい声で言った。


「……君の座り方、変わってないね」


 マユは息を呑む。


 その声、その言い回し、そして何より──自分を見つめるその眼差し。


「ノア……?」


 微笑む彼。


「見た目が違っても、見つけられたよ」


 マユは目を見開き、笑みをこぼす。


「私がセレナだったって、わかるの?」


 頷くノア。


「君が誰でも、僕は君を見つける。

『ずっと一緒にいよう』と言ったのは僕だから」


 マユは試すように小さな声で言う。


「じゃあ、私が最後に飲んだ紅茶のブレンド、覚えてる?」


 ノアは即答する。


「ダージリンに、ローズとラベンダー。

でも、少しだけミントを足してた。

“跳躍の後味”って、君が言ってたね」


 マユは笑い、涙を零す。


「……本物だね。

おかえり、ノア」


 その言葉に、図書館の静寂さえ祝福するかのように、やわらかな光が差し込む。


 長く続いた記録の終端に、ようやく二人の時間が流れ始めた。









□完結□








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転生したってことは死んでも魂が滅びないってことでしょ ~まずは自殺からのラスボス令嬢は王国の悪災と呼ばれてます~ 星森 永羽 @Hoshimoritowa

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