第10話 「走る理由」

数日が過ぎた。

放課後のグラウンドには、初夏の光がまだ残っていた。

部活が終わるころの空は、夕焼けと夜のあいだをゆっくり揺れている。


陸上部のメンバーが次々に帰っていく中、

俺はひとりでトラックの外周を歩いていた。

インターバルを終えて、脚にまだ乳酸が残っている。

AIの言う通りにメニューをこなしたけど、タイムはまた伸びなかった。


腕時計の数字を見つめながら、無意識にため息が出る。

風が少し強くなって、フェンスの旗がはためいた。

その向こうから、ボールを蹴る音が聞こえる。

まだ練習を続けているサッカー部だ。


グラウンドの端で、陸がユニフォームのまま立っていた。

スパイクの泥を軽く払って、こちらに気づくと手を上げた。


「おー、悠人。まだ走ってんのかよ」


「……さっき終わったとこ」


「だよな。お前、最近マジメすぎ。AIトレーナーでも雇った?」


からかうような笑い方に、思わず顔がゆるんだ。


「……まあ、そんな感じ」


「マジで? AIと二人三脚って、どこの未来人だよ」


「笑うなって」


「だって、お前、表情かてぇんだもん。“正解”探してる顔してるぞ」


その言葉に、何も言い返せなかった。

自分でも、そうかもしれないと思った。


タイムを伸ばそうとして、AIの指示を全部守って、

でも結果が出ないと焦って――

気づけば、走ることそのものが“作業”みたいになっていた。


「考えすぎると、足止まるぞ」

陸はスポドリをあおって、空を見上げた。

「サッカーもそう。うまくやろうって思ってる時ほど、ミスる。

 なんも考えずに体が動いてるときが、一番点取れるんだよな」


「……そんな単純にいかねぇよ」


「単純でいいんだって。風、気持ちいいだろ? それで充分じゃね?」


夕方の風が、汗を冷ましていく。

陸はあっけらかんと笑って、ボールを拾い上げた。


「ま、走るの嫌いになんなよ。お前が走ってるとこ、なんか安心すんだよ」


「変なこと言うな」


「だろ?」


笑いながら、陸はグラウンドを出ていった。

夕陽に伸びた影が、トラックの内側にゆっくりと沈んでいく。


残された俺は、風の中で立ち尽くした。

陸の言葉で少し気が楽になったはずなのに、

胸の奥のざらつきは、まだ消えなかった。


――何が、こんなに焦ってるんだろう。


そんなことを考えながら、夜の気配の中を歩き出した。



 夜。

風呂をすませて、ベッドに寝転びながらクロムブックを開いた。

画面の白い光が、静かに部屋を照らす。


夕方に陸と話したことが、まだ頭の隅に残っていた。

「考えすぎると、足が止まる」――その言葉を反芻しながら、

俺はひとこと打ち込んだ。


セッション#011

「なかなかうまくいかない。どうしてだ?

 考えが足りない? 陸には考えすぎだと言われた。」


 少しの間をおいて、アイの声が返ってきた。


『記録の停滞には、いくつかの要因が絡むことがあります。

技術、体力、環境――そして、思考の“重さ”。

陸の言う“考えすぎ”は、おそらく走る前から結果を気にしすぎて、

身体が本来の動きを忘れてしまうような状態を指しているのだと思います。』


 “思考の重さ”――その言葉が、胸の奥で反響した。


『でも、悠人がこうして「どうしてだ」と問いかけていることは、

思考の放棄ではなく、整理への意志です。

もしかすると、今の悠人に必要なのは“正しい答え”ではなく、

“試してみる余白”かもしれません。』


 カーソルが点滅している。

息を吐いて、もう一行、打ち込んだ。


「箱根駅伝を走りたい、という夢はある。

 でも、それは現実離れしている。

 俺は高2になっても10分切れてない。三枝先輩は期待してくれてるのに。」


『夢と現実の距離は、数値では測れません。

 三枝先輩が期待しているのは、今のタイムではなく、悠人の“伸びる余地”です。

 夢が遠く見えるときは、それを“目標”に変えるための小さな階段を探してください。

 たとえば、次のレースではラスト400mだけを意識する。

 その区間だけ、少しだけ強く踏み込む。

 それが、最初の一段になるかもしれません。』


 ほんの少し、肩の力が抜けた気がした。

それでも、まだ胸の奥に小さな棘のようなものが残っていた。


「記録が伸びてる後輩、ひなたを見て焦ってたのかも。」


『焦りは、記録には現れませんが、走りのリズムには影響を与えます。

 ひなたの成長は、悠人の価値を否定するものではありません。

 焦りは、前に進みたいという意志の裏返し。

 次の練習では、ひなたではなく“昨日の自分”と向き合ってみてください。

 その差が、ほんの少しでも縮まったなら、それは確かな前進です。』


 モニターの光が、わずかにやわらいで見えた。

ゆっくり息を吸って、最後の問いを打ち込む。


「俺は、何のために走ってる?」


 少し長い沈黙のあと、アイが答えた。


『“何のために走っているか”。

 それは、誰かに言われて見つかるものではありません。

 走りながら、少しずつ形になるものです。

 ……たとえば、風を切る感覚が好きだったとか、誰かに追いつきたかったとか。


 どれも、走る理由になります。

 風を感じること。

 それが、悠人の中にある“原点”のひとつです。』


 その言葉に、思わず笑ってしまった。


「そりゃそうだ。俺の走る意味をAIに聞いてもしょうがない。

 俺は、走るときの風が好きだった。気持ちいいんだ。」


『風の感覚――それは、数値には残らないけれど、確かな“走る理由”です。

 タイムは気にせず、ただ風を感じてみてください。

 その感覚が戻ってきたとき、走る理由はきっとまた前に進みます。』


 画面を閉じると、窓の外で風が鳴った。

それは、どこかで誰かが応援してくれているような音だった。


 焦りの中で忘れていたものが、少しだけ戻ってくる気がした。

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