第30話:魔王の招聘
宰相オルティスの執務室は、静まり返っていた。
机の上には、一輪挿しに生けられた、美しい白薔薇。
だが、その花弁の先は、まるで血を吸ったかのように、僅かに、黒く変色し始めていた。
オルティスは、窓の外、月明かりに照らされた王都を、無表情に見下ろしていた。
彼の耳には、遠く、大聖堂の方角から響いてくる、微かな剣戟の音色が、届いていた。
報告は、既に受けている。
ギデオンが、『骨の王』と接触した。
そして、そこに、聖女セレスティアが、いた、と。
「……愚かな、小娘め」
オルティスは、初めて、その仮面のような無表情を崩し、苛立ちを込めて、呟いた。
「私の、完璧な脚本を……。この私が、長年かけて紡いできた、美しい悲劇の物語を、台無しに、するつもりか」
彼の計画は、綻び始めていた。
アレンが、自我を保ったまま蘇ったこと。
そして、セレスティアが、その正体に、気づき始めてしまったこと。
どちらも、彼の計算にはなかった、致命的なエラー。
このままでは、民衆の祈りを最高潮に高めるどころか、自らの陰謀が、白日の下に晒されかねない。
「……もはや、猶予はない、か」
オルティスは、決断した。
当初の予定より、少し早いが、構わない。
舞台が、役者の思惑通りに進まぬのなら、舞台そのものを、作り変えてしまえばいい。
彼は、執務室の壁に隠された、秘密の書庫の扉を開いた。
ひやりとした、墓場の空気が、部屋に流れ込んでくる。
彼は、その奥へと、躊躇いなく足を踏み入れた。
目指すは、王城の、最下層。
誰にも知られざる、禁断の、儀式の間。
螺旋階段を、延々と下っていく。
空気は、次第に、濃密な魔力の匂いを帯びていった。
壁には、無数の、人の顔のような染みが、浮かび上がっている。
それは、この城を建設する際に、人柱とされた、罪人たちの、怨念の跡だった。
やがて、オルティスは、巨大な、黒曜石の扉の前にたどり着いた。
扉には、古代の魔族の言語で、おぞましい警告が、いくつも刻まれている。
『――これより先、神の領域にあらず』
『――開く者、その魂と引き換えに、絶望を招かん』
オルティスは、嘲るように、鼻を鳴らした。
「神、だと? この国を、来るべき大災厄から救えぬ、無力な神が、何を言うか」
彼は、自らの指先を、ナイフで、浅く切り裂いた。
滴り落ちる血を、扉の中央に描かれた、魔法陣に、垂らす。
すると、扉が、地響きと共に、ゆっくりと、内側へと開いていった。
扉の向こうは、巨大な、円形の空間だった。
ドーム状の天井。
そして、床一面に、複雑怪奇な、巨大魔法陣が、血のような赤い鉱石で、描かれている。
その魔法陣は、まるで、生きているかのように、禍々しく、明滅を繰り返していた。
この日のために、彼は、何十年も、準備を続けてきた。
王国の地下水脈を操り、民の気づかぬうちに、少しずつ、この場所に、負の魔力を集積させてきた。
嘆きの谷で収穫した、白銀のグリフォン騎士団の、極上の魂も、既に、この魔法陣の動力源として、組み込まれている。
「さあ、始めるとしよう」
オルティスは、空間の中央へと進み出た。
そして、懐から、あの水晶玉――彼の研究室に置かれていた、黒い霧が渦巻く水晶玉を、取り出した。
彼は、それを、魔法陣の中央に、そっと置く。
「――我が声を聞け、境界の向こうに座する、混沌の王よ」
オルティスは、詠唱を始めた。
それは、もはや、人間の言語ではなかった。
聞く者の、正気を削り取る、冒涜的な、魔族の言葉。
「――我は、汝に、供物を捧げん。この地に満ちる、千の魂を」
「――見返りに、汝の軍勢を、この地へ、招聘したく」
魔法陣が、激しく、輝き始めた。
水晶玉の中の黒い霧が渦を巻き、空間そのものが、ぐにゃり、と歪む。
世界の、境界線が、薄れていく。
この世界と、魔族が棲む、混沌の世界とが、繋がろうとしていた。
オルティスの額には、脂汗が滲んでいた。
この儀式は、彼の魂をも、大きく削り取る、危険な賭けだ。
だが、彼の目は、狂信的な光に、満ちていた。
「――来たれ! 来たれ! 我が理想郷を、完成させるための、礎となれ!」
彼の絶叫と共に、魔法陣の中心が、漆黒の闇に、飲み込まれた。
それは、穴だった。
魔界へと通じる、門(ゲート)。
その闇の向こうから、無数の、赤い目が、こちらを、覗き込んでいる。
そして、人間には、決して真似のできない、歓喜の咆哮が、響き渡った。
オルティスは、笑っていた。
肩で息をしながら、狂ったように、笑っていた。
もはや、アレンも、セレスティアも、関係ない。
この国は、一度、浄化されるのだ。
混沌と、絶望によって。
そして、その灰の中から、彼の望む、不死の王国が、誕生する。
王城の、時計塔の鐘が、鳴り響いた。
夜明けを告げる、鐘の音。
だが、その日、王都に、朝日は、昇らなかった。
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