第27話:二通目の手紙

 王城の夜は、偽りの静寂に満ちていた。

 セレスティアは、自室の窓から、煌々と輝く月を見上げていた。

 約束の刻限が、近づいている。


 彼女は、昼間、ジェラール卿と密かに打ち合わせを済ませていた。

『――わたくしは、一人で行きます。卿は、城の外で、信頼できる者だけを集めて待機していてください。もし、夜明けまでに、わたくしが戻らなければ……その時は』

『……縁起でもないことを、仰らないでください』

 ジェラールは、悲痛な顔で、しかし、力強く頷いた。

『必ずや、お迎えに上がります』


 今、この城の中で、彼女が心から信頼できるのは、あの老騎士だけだった。

 そして、侍女のリリア。

 彼女は、夕食を運んできた後、セレスティアの耳元で、こう囁いて去っていった。

「……西の塔の、螺旋階段をお使いください。衛兵の交代の、ほんの僅かな隙がございます」


 アレンの協力者は、着実に、城の中枢にまで根を張っている。

 彼は、ただのアンデッドではない。

 記憶を失っても、彼は、かつてそうであったように、優れた指揮官であり、策略家だった。


 セレスティアは、クローゼットの奥から、一着の、黒い旅装束を取り出した。

 それは、かつて、アレンと共に、お忍びで城下町へ出かける時に、使っていたものだ。

 純白の聖女の衣を脱ぎ捨て、彼女は、夜の闇に溶け込むための、影の色を纏った。

 腰には、護身用の、細身の剣を帯びる。


 準備を終え、彼女は、そっと部屋の扉を開けた。

 廊下には、人影はない。

 宰相の私兵たちは、主要な通路を固めている。だが、彼らも、まさか王女自身が、夜中に城を抜け出すなどとは、夢にも思っていないだろう。

 その、油断が、彼女の唯一の活路だった。


 リリアに教えられた通り、西の塔へ向かう。

 古い、今はほとんど使われていない塔だ。

 螺旋階段を、息を殺して下りていく。

 窓から差し込む月明かりが、彼女の行く先を、導くように照らしていた。


 やがて、城の裏手、庭園へと続く、小さな通用口にたどり着いた。

 鍵は、かかっていない。リリアが、手配してくれたのだろう。

 扉を、ほんの少しだけ開け、外の様子を窺う。

 衛兵が、二人。

 だが、彼らは、退屈そうに、あくびを噛み殺しているだけだった。

 交代の時刻が、近いのだ。


 セレスティアは、神経を研ぎ澄ませた。

 遠くで、鐘が鳴る。

 時刻を告げる鐘だ。

 その音を聞き、衛兵たちが、持ち場を離れていく。

 次の衛兵が来るまで、ほんの数分の、空白の時間。


 今だ。

 彼女は、猫のように、しなやかに闇の中へと滑り出した。

 庭園の植え込みを盾にしながら、城壁を目指す。

 城壁には、秘密の抜け道があった。

 これも、昔、アレンが見つけた、子供じみた冒険のための、抜け道。

 今、それが、彼女の命綱になろうとは、なんという皮肉か。


 無事に、城の外へ出ることができた。

 王都の街は、寝静まっている。

 だが、その闇の中には、無数の、宰相の目が光っていた。

 セレスティアはフードを目深にかぶり、裏路地から裏路地へと駆け抜けていく。


 目指すは、街の中心に聳える、大聖堂。

 月明かりに照らされた、白亜の尖塔が、まるで巨大な墓標のように、彼女を見下ろしていた。

 ここは、神聖な、祈りの場所。

 今夜、この場所は、真実が暴かれる、審判の舞台となる。


 大聖堂の、脇の扉。

 そこもまた、鍵が開いていた。

 彼女が、中へ入ると、扉は、独りでに、静かに閉まった。

 聖堂の中は、しいんと静まり返っている。

 高い天井のステンドグラスから月光が差し込み、床に、幻想的な光の模様を描き出していた。

 祭壇に灯された、幾本もの蝋燭の炎だけが、静かに、揺れている。


 誰も、いない。

 本当に、彼は、ここへ来るのだろうか。

 セレスティアが、不安に思った、その時。


 祭壇の、影。

 その闇が、ゆらり、と動いた。

 そして、中から、一体の、骸骨の騎士が、静かに姿を現した。


 継ぎはぎの、黒鉄の鎧。

 ミノタウロスの骨でできた、巨大な左腕。

 そして、フードの奥で、蒼い魂の火が、二つ、静かに燃えている。

 ロード。

 アレン。


 彼は、何も言わなかった。

 ただ、その蒼い瞳で、セレスティアを、じっと見つめている。

 その視線は、憎悪でも、殺意でもなかった。

 そこにあったのは、深い、深い、悲しみの色。

 そして、何かを、確かめようとするかのような、問いかけの色だった。


 セレスティアは、ごくり、と息を飲んだ。

 心臓が、早鐘のように鳴っている。

 恐怖ではない。

 目の前にいるのは、紛れもなく、彼女が、焦がれ続けた、男の魂だった。


「……アレン……なのですね?」


 震える声で、彼女は、問うた。

 その問いに、答える声は、ない。

 ただ、静寂だけが、二人を、包んでいた。

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