第3章 声なき対話
図書室の空気は、紙と革と魔力のほこりで満ちている。
黒衣の人物が棚の陰から半身を現した。フードの奥、目だけが淡い光を帯びていた。
「沈黙の魔女――リリア・アルベルタ。声を貸せないなら、心で語ろう」
低い声。挑発ではない、試すような平坦さ。
リリアは杖を握らない。かわりに指先を合わせ、呼吸の節を四つ刻む。
言葉は要らない。沈黙は術の骨格になる。
見えない幕が走った。棚の列から列へ、音もなく。
リリアは即座に〈遮断〉を張る。音、匂い、揺らぎ。感覚の縁を薄い膜で包む。
黒衣の人物は一歩踏み出し、掌を掲げる。空気がわずかに沈む。
(……来る)
心に触れる感触――冷たい水面へ指を差し込まれるような、微弱な波。
リリアはまぶたを伏せ、呼吸を細く長く。一、二、三、四。
波が彼女の沈黙に触れ、そこで速度を失う。
黒衣の肩が、ほんのわずかに揺れた。驚きの合図。
「遮断を、無詠唱で。やはり噂通りだ」
声は棚の木肌に吸い込まれ、周囲には届かない。
彼女は返事をしない。心を閉じるのではない。扉の蝶番だけに油を差し、戸板を軽く浮かせる。
――侵入されても、踏み込む前に滑って落ちるように。
黒衣がもう一歩、距離を詰める。
「安心しろ。ここで争うつもりはない。……ただ、確かめたい。君が、“あの計画”に耐えられる器かどうか」
計画。
言葉の棘が胸を掠める。
リリアは左の指で短い円を描いた。棚の影が伸び、床に薄い影絵のような陣を生む。
魔力は戦う意志を読まない。ただ、術者の息を映す。
沈黙の呼吸。静かに、しかし断固として。
黒衣は小さく肩をすくめた。
「ならば、導入だけ。――“声なき対話(サイキック・リンク)”は、互いの同意があれば、安全に行える。君に傷は付けない。誓う」
誓いは術ではない。
けれど、誓いを伴わない術は、たいてい破滅に通じる。
リリアは迷った。
このまま拒めば、敵意に転じるかもしれない。
受ければ、情報が得られる。護衛任務のためにも、黒衣の目的は知っておくべきだ。
彼女は、ほんの少しだけ指を開いた。
それは「聞く」の合図。
黒衣の人物はフードの奥で微かに頷くと、床の影に指をひたした。
影が、音もなく彼女の影に触れる。
――冷たい水の輪が、心の湖面に広がった。
◇◇◇
言葉はないのに、言葉より明瞭な像が流れ込む。
剣戟の音。火の粉。城壁を越える黒い旗。
王都の地図に赤い印。――“ここに穴がある”。
講堂の天蓋、外れかけた彩色ガラス。――“これは試し割(テスト)”。
次に浮かんだのは王子の横顔。
視線の端に、薄い翳り。
“標的”。
そして最後に、学園の地下図。封印された通路と古い儀式の間。
(……襲撃計画。学園は“入口”。標的はエリアス王子。地下に儀式の間)
像はそこで途切れ、かわりに黒衣の思考の輪郭が立ち上がる。
“私は敵ではない。だが味方でもない。計画の一部を、君の手で潰せるかを確かめに来た”
声なき声が、乾いた石に滴る水のように響く。
(なぜ、私?)
リリアが返す。彼女の声なき声は、柔らかいが、芯に刃を含んでいた。
黒衣はわずかに間を置き、像を送る。
森の小屋。暖炉の火。
泣き声。――小さな少女が、扉の前で声をなくす映像。
扉の外に、荒い足音。
それは、リリアの過去に似ていた。けれど、寸分違う。
黒衣は言う。
“君は“声を失う”ことで、世界を聞く耳を得た。沈黙は弱点ではない。術式において、言葉はしばしば雑音だ。
君は雑音のない場で、最短距離を選べる”
胸が熱くなる。
痛むような、赦されるような。
リリアは短く息を吐き、問いをひとつだけ投げた。
(目的は――王子の死か、王国の転覆か)
黒衣は刹那だけ沈黙し、像を返す。
天秤。片方に“王子の命”。片方に“王国の病”。
錆びた天秤はどちらにも傾かない。
“私は均衡を見極めたいだけだ。
もし君が“沈黙”で均衡を揺らせるなら、次の紙片を受け取れ。
三日後、地下の儀式室前で――”
像が途切れた。
影が剥がれ、冷たい輪が収縮し、図書室の匂いが戻ってくる。
対話は終わった。
黒衣は裾を翻し、棚の列に溶けるように消えた。
リリアは追わない。追える気配ではない。
かわりに、手帳を開く。
走る文字は冷静だった。
《不明勢力より“声なき対話”。王子標的の示唆。学園地下の封印通路と儀式室の存在。三日後再接触予告。――信頼不可。監視継続》
◇◇◇
図書室を出ると、夕陽が廊下の床を琥珀色に染めていた。
角を曲がると、カイルが壁にもたれている。
彼は一度だけ周囲を見渡し、小声で言った。
「噂だが……地下に通じる古いトンネルがあるらしい。寮母が昔の事故話をしていた。覚えは?」
まさか、同じ地点。
リリアは首を横に振り、胸元の札を示す。
《図書室で文献を確認中。後ほど》
カイルはそれ以上詰めなかった。
「なら、俺も独自に当たる。……君は、無理をするな」
不器用な言い方に、彼の誠実さが覗く。
背を向ける彼の足音が遠ざかるころ、リリアは短く息を吐いた。
◇◇◇
夜。寮の灯りが落ちる少し前。
ミレイユがノックも控えめに顔を出した。
「リリア、少しだけ散歩しない? 寮の中だけ」
彼女は毛糸のショールを肩に掛け、紙包みを掲げる。
「甘いパン、もらったの。半分こ」
リリアは頷く。
二人で静かな廊下を歩く。
ミレイユは取り留めのない話をする。授業の失敗、先生の口癖、寮猫のいたずら――
彼女は問いかけない。けれど、横にいてくれる。
そのやさしさが、ときに重くて、ありがたい。
階段の踊り場で、ミレイユが立ち止まった。
「ねえ、リリア。君、時々すごく遠くを見てる。
ここにいない、どこかの風を嗅いでる顔」
リリアは瞬く。
ミレイユは微笑む。「大丈夫。答えはいらないよ」
そして紙包みを差し出す。「甘いの食べよ。難しい顔、少しはなくなる」
パンははちみつの味がした。
その甘さに、昼の“声なき対話”の冷たさが薄れる。
リリアは小さく礼をして、部屋へ戻った。
◇◇◇
三日後――を待たないことにした。
待つのは、相手の手の内で踊ることだ。
護衛は常に先手でなければならない。
地下への入口。封印通路。儀式室。
場所の特定が先だ。
夜半。消灯後。
寮の外壁を伝う冷気が、肌の上を走る。
リリアは足音の呪(まじな)いを足首に纏い、影に体温を隠した。
校庭を横切り、旧校舎へ。
時計塔の根元に、古い格子戸。七つの錠前の跡。
そこは新しい鉄板で塞がれている――が、表だけだ。
空隙がある。風の流れが“通り抜ける”。
リリアは掌を当て、ゆっくりと圧をかけた。
無音の楔が一つ、二つ、外れる。
冷たい呼気が頬を撫でた。
戸が、内に向かって、静かに開いた。
地下は、古い石の匂い。
階段は狭く、三人幅はない。
リリアは灯りを出さない。
闇の中で、呼吸と足裏の感覚だけで進む。
壁は湿っているが、最近誰かが触れた部分は乾いている。
通っている。定期的に。
彼女は指先で乾いた痕跡の幅を測る。大人ひとり、と、細い影ひとつ。
踊り場。曲がり角。
遠くに、すりガラス越しのような光。
声はない。代わりに、魔力の粒が宙で擦れる音がある。
儀式の間は近い。
角を曲がる前に、彼女は〈薄膜遅延〉を張った。
万一の飛来物や術式衝撃を、髪一筋の厚みで減速させる膜だ。
呼吸を整える。
指先で合図をひとつ――自分自身へ。“行ける”。
儀式の間は、思ったより小さかった。
中央に古い祭壇。周囲に最近彫り直された新しい刻印。
対照的なものが並ぶと、だいたい悪い。
そして、いた。
ローブの裾を床に引きずる影。二人。
片方は背が低い。学生。もう片方は背の高い大人。
声は出さない。術式で合図を交わしている。
(――今、破壊すべきはどれ)
祭壇そのものを壊すのは簡単ではない。古代の構造だ。
だが、新しく彫り直された刻印は脆い。
さらに、部屋の四隅に小さな“風の孔”――通気のためだと思っていたが、違う。
音と香と、微量の魔素を外へ逃がすための“誘導路”。
これが警報の代わりをしている。
リリアは息の拍を短く三つ。
〈逆位相〉を孔へ送り込む。
風は止まらない。だが、誘導は反転し、部屋の内側に“無臭の渦”が生まれる。
警報は外へ届かない。
次に、床の新しい刻印へ。
足音を消し、影の縁を歩いて一つ、二つ、三つ――刻印の交点だけに指を触れる。
ほんの針先ほど魔力を注ぎ、線を“飽和”させる。
過飽和になった線は、術式としての意味を失い、ただの溝へ還る。
気づかれた。
背の高い影が振り向き、無詠唱の衝撃波を放つ。
遅延膜が鳴り、空間が一瞬だけ粘る。
リリアは横へ半歩。
衝撃は彼女の髪を一本も揺らさず、背後の石壁に柔らかく沈んだ。
反撃は短く、静かに。
床の粉塵をわずかに巻き上げ、渦の芯へ押し込む。
視界を奪うのではない。呼吸の節を乱すだけ。
影の二人が同時に咳き込み、術式の位相が崩れた。
その隙に、最後の交点へ針を入れる。
祭壇の縁が鈍く光り、溝の光がぷつりと切れた。
「――誰だ」
初めて、“声”が出た。
大人の影のほう。
リリアは答えない。
かわりに、部屋の入口に小さな幻灯を置く。
走り書きの白い文字が、空中に浮かぶ。
《儀式は止めた。これ以上の行為は、学園への敵対とみなす》
影の肩がわずかに揺れ、低い笑いが漏れた。
「沈黙の魔女。白紙に文字か。噂どおりだ」
その口調には、黒衣の人物に似た響きがある。
同じ陣営か、模倣者か。
彼は一歩、彼女ではなく祭壇のほうへ退いた。
「今日は引こう。――均衡を見誤ると、すべてが壊れる」
学生の影が動揺し、袖を掴む。「師(せん)……!」
師と呼ばれた男は短く首を振り、袖から一枚の黒紙片を放った。
紙片は宙で三度、蝶のように羽ばたき、灰になった。
次の瞬間、足元の影が深くなり、ふたりの姿は沈むように消えた。
部屋に、リリアだけが残る。
心臓が喉で跳ねるのを、彼女は掌で押さえた。
――間に合った。
だが、これは終わりではない。始まりの始まり。
祭壇の縁に掌を当て、微細な痕跡を読む。
使われているのは古代語と現行術式の混淆。
目的は“換気”でも“供物”でもない。
――“転写”。
何かを、誰かに、移す。
それが王子である可能性は、十分にある。
◇◇◇
夜明け前。
地上へ戻り、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
鐘楼の影が伸び、空の色は藍から薄硝子色へ変わる。
寮の裏庭に差し掛かったところで、足音。
カイルが立っていた。
彼の目は眠っていない人の色をしている。
「……地下から出てきたな」
リリアは否定もしなければ肯定もしない。
かわりに、手帳を開いた。
《儀式室の封印を一時停止。新刻印を無効化。敵は撤退。目的は“転写”の可能性》
カイルは文字を追い、息を飲んだ。
「王子に、なにかを移す。……病? 呪? 人? どれにせよ、まずい」
彼は顎に指を当て、思考を早回しにする。
「殿下への接近経路は限られている。授業、儀礼、練兵、図書の閲覧――そして“友誼会”」
リリアが首を傾げる。
「明晩、中庭で小さな音楽と茶の会がある。新学期の恒例だ。
殿下は必ず顔を出す。招待状は“全二年”。……つまり、君も」
リリアの胃が、また少し痛くなった。
人の輪。会話。笑い声。
けれど、ここを避けることはできない。
護衛は、最も狙われる場所に立つ。
カイルは短く頷いた。
「言葉は要らない。動きの合図を決めよう。
君の左手が二度――危険接近。三度――発動前。
俺が剣帯を右へ傾けたら、視線は東。左へなら西。
護衛は“呼吸”でやる」
呼吸。
リリアはその言葉に、微かに口元を緩めた。
彼は続ける。「それと……ありがとう。地下でのことは聞かない。だが、君がひとりで背負うなら、俺は護衛失格だ」
彼の目は真正面から、逃げない。
リリアはゆっくりと頷いた。
沈黙は、時に分担できる。
◇◇◇
友誼会の夕べは、灯火と音楽の匂いで満ちていた。
飾り紐の間を風が通り、木立がやさしく葉を鳴らす。
ミレイユが緊張した肩で囁いた。「大丈夫、一緒にいるから」
リリアは彼女の袖を軽く引き、ありがとうの代わりに頷く。
王子は時間どおりに現れた。
人だかり、笑い、挨拶。
リリアは距離を取り、視界の端で彼を追う。
カイルは逆側の縁に立ち、帽章の角度を右へ――東側警戒。
彼女は視線を滑らせ、東の並木を読む。
風が一瞬止み、虫の羽音が途切れる。
――“孔”が開く前の、空気の沈黙。
左手を二度。
カイルが剣帯を左へ――西へ視線を走らせろ。
西側の給仕台で、銀のポットがわずかに震えた。
持ち手に刻まれた“新しい線”。
あれは――古代語と現行術式の混淆。転写の簡易起点。
飲み物の“水”に乗せるのか。
彼女は歩く。
自然な足取り。
ポットの前で立ち止まり、紙ナプキンを一枚取るふりをして――指先で取っ手の刻印に触れた。
針先の魔力。
線は飽和し、文字はただの傷へ戻る。
給仕の少年が振り向いた。「お注ぎしましょうか?」
リリアは首を横に振り、微笑みだけで下がった。
同時に、東の並木の影が動いた。
黒衣――ではない。学生のマント。
風の孔が一つ、二つ、開く。
空気が一瞬、古い儀式の香りに変わる。
彼女は左手を三度。
カイルが肩をわずかに落とす。
次の瞬間、彼は西から東へ、人の壁を縫う矢のように動いた。
王子が笑顔を保ったまま、足を半歩引く。
彼の側に立つもう一人の護衛が、ぽん、と肩を叩いた。
それは合図。
音楽が高まる拍で、王子の周囲の空気の“節”が切り替わる。
結界は見えない衣のようにゆるく纏い、外からの“転写”の入口だけを消す。
術者が焦れた空気を吐き、視線が小さく泳いだ。
――その視線と、リリアの視線が、絡んだ。
見知った“揺らぎ”。
地下の儀式室で彼女が乱した位相の“癖”。
術者は学生の顔をしている。
その眼差しは、救われたい子供のものでも、破壊を望む犯人のものでもない。
“誰かの影”。
彼女は一歩、踏み込まない。
かわりに、風の孔へ逆位相をもう一度だけ送る。
孔は閉じ、音楽が戻る。
学生は人混みへ自分を溶かし、消えた。
王子は、気づかぬふりでカップを置き、空に一瞬だけ目を上げた。
その仕草は、礼に似ていた。
リリアは胸の奥で、短い息を打つ。
沈黙のやりとり。
“ありがとう”は、言わなくても届く時がある。
◇◇◇
夜更け。
部屋の机で、リリアは行動録を開く。
《友誼会:転写起点を無力化。術者は学生。黒衣=師の存在。均衡という語を使用。王子周辺の結界切替は成功。》
書き終え、ペン先を拭う。
窓の外に、薄い雲が走る。
机の端に置いた小箱が、かすかに震えた。
黒紙片――ではない。
ミレイユが渡してくれた、小さな銀の鈴。
「人混みで困ったら鳴らして。私、聞こえるから」
彼女は鳴らさなかった。鳴らせなかった。
でも、ここにあるだけで、少しだけ息が楽になった。
ふと、窓の外で影が止まった。
月の輪郭が雲間からのぞく。
影は手を上げ、小さな札を掲げる。
光を受けて、札に文字が浮かんだ。
《三日後、地下で。均衡を見せろ》
黒衣。
約束の“紙片”を、言葉どおり“空”に出したらしい。
リリアは頷かない。
かわりに、机上の黒板片に指で文字を書く。
《沈黙は、刃であり、盾。私の均衡は、王子の生》
そして、そっと窓を閉じた。
彼女は喋れない。
だからこそ、選べる言葉がある。
明瞭で、短く、届く言葉。
沈黙が形づくる、最短の祈り。
――三日後、地下で均衡を砕く。
その前に、もう一つだけ、やることがあった。
“誰かの影”となっていた学生の名を、調べる。
救い上げられる影なら、刃を向けるより、先に手を。
リリアは灯りを落とし、闇に指を組んだ。
息を整える。
沈黙の中で、次の戦いの呼吸を刻み始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます