第3話:図書室の不思議な生霊

「ねえ、陽菜。聞いた? うちの図書室、なんか最近……変みたいなんだって」


 昼休みの学食。食堂のカレーをスプーンでかき混ぜながら、クラスメイトの梨紗がぽつりと呟いた。陽菜も同じものを食べている。


「変って、どういうふうに?」


「誰もいないはずなのに、本が開いたまま机に置いてあったり、貸し出し記録にない本が勝手に戻ってたりするんだって。あと、同じ席に“人の気配”が残ってるって、先輩が言ってたんよ……」


「読書するお化け、ってやつ?」


 陽菜の横でふわりと浮かんでいたエレナが、陽菜のスプーンをのぞきこみながら口を挟んだ。


「陽菜、ルーがちょっと制服の袖に……セーターにも少しついちゃってる」


「……は? うわ、マジか……。ちょっと、言うならもっと早く言えって!」


 陽菜は慌ててハンカチを取り出し、袖口をぬぐいながら周囲を気にして声をひそめて言った。


「ってかエレナ、学校であんまりしゃべるなって言ってるっしょ! 誰かに聞かれたらどうすんの」


「どっちよ。”言え”って言ったり、”しゃべるな”って言ったり。それに平気よ。他の人には聞こえないし、見えてないし」


 確かに、周りの誰もエレナの存在に気づいていない。けれど、それでも陽菜は少し落ち着かない様子だった。


「……どうしたの?」


 梨紗が不思議そうに陽菜を見た。


「んーん。なんでもない。でもさ、幽霊が本読んでるって、ちょっとかわいいじゃん。 別に悪さしないなら、ほっといてもいいんじゃない?」


「まあ……そうかもだけど」


 そう答えながらも、陽菜の胸の奥に、ざわりと小さな違和感が残った。ふと隣を見ると、エレナの瞳もどこか鋭くなっていた。

 その目を見て、陽菜は決めた。


 そんな中、梨紗が話題を変えた。


「ねえ、あれって二年の北川先輩だよね? サッカー部の」


 視線の先には、北川蓮・二年生の男子が立っていた。整った顔立ちに、校内でもわりと人気がある。陽菜は気だるげに首をひねる。


「ふ~ん」


「……あ、今また陽菜のこと見てたよ?」


 その言葉に、陽菜もちらりと視線を向ける。

 確かに、蓮の目がこちらを捉えたと思った次の瞬間、彼は気まずそうに目をそらした。


「陽菜、告白しちゃえば?」


「あー、ウチそういうのはノーサンキュー」


 陽菜は手をひらひらさせながら、つまらなそうに答える。

 その隣で、なぜかエレナが瞳を輝かせていた。


「え、ちょっと、なに……?」


 陽菜が言い終えるよりも先に、エレナはすたすたと蓮のほうへ飛んでいった。


「ちょ! エレナ! どこ行くんだよ!?」


 そんな陽菜はふと梨紗の右腕のあざを見た。


「……大丈夫? また掃除中にぶつけたとか?」


 梨紗は軽く肩をすくめて言った。


「マジで毎回、あたんのよ。なんなんだろ」


 梨紗の少し、お転婆なところがある。

 ちょっとお転婆なところのある梨紗。前にも左腕に軽くあざを作っていた。


「入口のとこの勉強机、場所変えたいんだけどさ~、部屋が狭くてムリ」


 それを聞いて、陽菜が苦笑いしながら返す。


「それ、梨紗の動き方のクセ変えた方が早いんじゃね?」


 そんな言葉に、ふたりは顔を見合わせて笑い合った。



 放課後、陽菜とエレナのふたりは図書室へ向かった。日が傾きかけた時間。静まり返った図書室に、陽菜の足音と、本棚の隙間から差し込む光だけがある。


「人の気配……しないね」


「うん。でも……空気が、少し揺れてる」


 エレナがぴたりと立ち止まり、指さす。


「陽菜。あそこの右から二列目の席。座ってみて」


 促されるまま腰を下ろすと、陽菜は少し驚いた。


「なんか……ちょっと温かい。誰かが、さっきまで座ってたみたいな感じ」

 

「少しだけど、”気配のゆらぎ”が残ってる。幽霊じゃないけど、人間でもない……不思議な存在ね」


「じゃあ……いったい、なに?」


 そのときだった。


 目の前の机の上には、開かれたままの本のページが、風もないのに一枚めくれた。


「……今の、見た?」


「風じゃない。“誰か”が、読んでるのよ」


 次のページが、また静かにめくられる。


 陽菜が息をのんだそのとき、視界の隅、本棚の陰に、何かが揺れた。


 制服の裾。セーラー服。

 その下から伸びる足が、音もなくスッと動いたかと思うと、すぐに視界から消えた。


「ちょっ……今の、絶対見たよね?」


 陽菜が眉をひそめながらエレナに言う。


「うん。でも、はっきりとは見えなかったかな~」


「エレナ。後を追おう!」


 陽菜は立ち上がり、即座に足を向ける。


「え、ちょっと陽菜?」


 その背を追いかけるように、エレナもふわりと舞い上がる。図書室を出て、陽菜とエレナは静かに階段を下りていく。ふたりは旧校舎へと足を進める。


「ここ……“想い”が強く残っているね、古い場所にはあるのよ」


 エレナが立ち止まりながら言うと、陽菜は少し眉をひそめて返した。


「ふーん……なんか怖そうだね」


 辿り着いたのは、旧校舎の図工室。戸口には色あせた張り紙が貼られている。


 < 立入禁止:老朽化のため危険です >


「……入るの?」


 エレナが危険だと言って止めようとする。


「もち。こういうの、ウチら得意じゃん?」


 陽菜がそう言って笑うと、エレナは軽くため息をつきながらも、小さく笑った。陽菜の中で興味がふつふつと湧き上がっていることを、エレナはちゃんと感じ取っていた。

 長年のコンビだから、言葉にしなくてもわかる。


 中は埃っぽく、窓からの光もかすかだった。古い木の机と椅子、かすかに残るチョークの匂いが、どこか懐かしさを運んでくる。


「陽菜、あそこ。窓際を見て」


 見ると、少女が静かに立っていた。

 セーラー服。肩までの黒髪。どこか遠くを見つめるような瞳だけが、やけに澄んでいる。

 でも、その姿は……透けていた。


「……え、ガチの幽霊? やば……」


「“想念体”っていうの。強い想いが身体を離れてもなお、ここに残ってるの。生霊っていうのがいいのかな~」


 エレナは陽菜にそう答えると、そっと前に出た。


「あなた、どうしてここに?」


 少女は静かに答えた。その少女の声はどこか遠くを見ていた。


「……最後まで、読みたかったから」


「……本?」


 陽菜が聞き返すと少女が答えた。


「図書室の本。卒業前に全部読み終えたかったの。でも、あと一冊だけ……どうしても読めなくて」


「それで戻ってきたのね」


 陽菜は胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じていた。


「……いつか、本を書きたかった。でも、怖くて。だからせめて、たくさん読もうと思ってたの」


 その瞳に浮かんでいたのは、未練ではなく、確かな熱意だった。


「じゃあさ、一緒に読もうよ。最後の一冊」


 陽菜が提案すると、少女の目が大きく見開かれた。


「……いいの?」


「部活もやってないし、ヒマだからさ。一人で読めないなら、手伝ってあげる」


 そう言って陽菜が微笑むと、少女も小さく頷いた。



 ──それから数日間。

 人の気配が消えた放課後、陽菜とエレナは少女と並んで本を読んだ。ページが一枚ずつ、ゆっくりと、確かにめくられていく。

 最後のページを閉じたとき、少女は微笑んで、静かに立ち上がった。


「……ありがとう。あなたたちと会えて、よかった」


 陽菜は優しく笑って答えた。


「……じゃ、次は書く番ね。ちゃんと書いてよ。ウチが読者の一人になってあげるから」


 少女はそっと頷くと、やわらかな光の粒となって、空気の中へと溶けていった。


 その夜。陽菜の部屋。


 天井のあたりでふわふわ浮いていたエレナが言う。


「やっぱり陽菜は、“見えないもの”を引き寄せる体質ね」


「それってエレナのせいっしょ?」


「どっちもよ。相性いいってことだよ~?」


 エレナがにっこり笑うと、ベッドに座っている陽菜は、ふと思い出して聞いた。


「でもさ、どうしてあの子、最後の本をウチと一緒に読もうって思ったんだろ? 断るかと思ってたのに」


 エレナは天井を見ながら、ぽつりと答えた。


「……たぶん、それも“相性”だったんじゃないかな?」


 エレナの声が天井からふわりと降ってきた。

 陽菜はベッドの布団に横になってまぶたを閉じながら、小さく息をついた。


「あの子、どこかで本を書いているんかな?」


「たぶんね。読み終えたから、きっと今度は“書く番”って思えたんじゃない?」


 エレナの声には、どこか遠くを見るような響きがあった。

 陽菜がそっと呟く。


「そうだといいんだけどね……」


「ずいぶんとおセンチなこと言っちゃって~」


 口を両手で抑えて、エレナがからかうように笑う。


「うっさい!」


 陽菜が少し照れたようにふてくされると、エレナはくすくすと笑った。

 そのまま、少しだけ沈黙が流れる。


「そういえば……あの子、エレナのこと見えてたよね?」


 陽菜がふと、不思議そうに尋ねた。


「もちろん。”想い”同士だからねぇ」


 当然といった顔でエレナが答えると、今度は唐突に北川蓮の話に切り替えた。


「あの北川先輩も、もしかしたら……あたしのこと、見えてるかも」


「はっ!? マジで!?」


 陽菜がびっくりして横になっていたベッドから起き上がった。


「なんちゃって~」


 エレナは冗談で言ったものの、意味ありげに言葉を続けた。


「もしかしたら、近いうちに告白されちゃうかもよ?」


 陽菜が顔をしかめる横で、エレナはにやりと笑う。


「うわ、エグッ! マジで、変なことしてないだろーね?」


 陽菜がジト目でにらむと、エレナはくるりと宙返りをして、起動中のノートパソコンのほうへ舞い降りた。

 足先でちょんとマウスを蹴り、停止中の動画の再生ボタンをクリックする。


「あっ、それウチが先に見てたやつじゃん! 勝手に再生しちゃダメっしょ!!」


「でも再生ボタンはわたしが押したから、先手必勝~」


「はぁ? ちょ、 返せよ、エレナ!!」


 夜の部屋に、ふたりの声が軽やかに響く。


 その窓の外では、初夏の星が静かにまたたいていた。

 そんなふうに、ちょっとだけ不思議で、ちょっとだけ特別な日常が、今日も静かに続いていく──。

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