第2話:ウチと妖精は東京・下町で同居中
陽菜が“ケサランパサラン”の話を家族に説明したのは、夕飯でのことだった。
紙に描いた、まるくてふわふわの黒い何かの絵を見せながら、今日の出来事を語る。
「ってことで、犯人はこのケサランパサラン。毛玉みたいなやつ。パン集めてたっぽいってオチ」
陽菜が言う。
「なるほど、ケサランパサランか。むかし話でよく聞いたな」
箸を持ったまま、康太が興味深げに頷いた。
「姉ちゃんと、エレナ姉ちゃんが見つけたんだよ」
悠真が少し誇らしげに口を挟んだが、照れくさそうに付け加える。
「……まぁ、ほとんどエレナ姉ちゃんがすごかったんだろうけど」
それを聞いた陽菜は、ちょっとむっとした表情を浮かべる。
「はぁ? なんだよ。つまり、ウチは飾りってこと?」
スッと目を細めた陽菜に対して、エレナは胸を張って得意げな顔だ。
「どんな姿だったの?」
結衣が興味津々で聞いてきたので、陽菜は描いた絵を無言でくるりと回して見せた。
「こんな。まんまるで、黒くて、ふわふわしてて……なんか……空飛んでた」
「……”まっくろくろすけ”みたいだな」
康太が思わず笑いながら言った。
「……まあ、あっちよりはマナー良かったかもね。音もなくパンを持ち去る辺り、プロの仕業」
陽菜は目を伏せて、箸を弄びながら呟く。
「でも面白いな。ちゃんと観察できてる」
康太の言葉に、陽菜は肩をすくめた。
「まあ、ヒマ人だったからね」
タイミングを見計らったか、結衣が言った。
「陽菜。お箸はちゃんと持ちなさい!」
陽菜は少し眉をひそめ、少し不貞腐れた。
その夜、夕食を終えた康太は書斎へ引きこもり、机に向かってノートパソコンを開いた。
タイピングする指は軽やかで、どこか楽しげな微笑が口もとに浮かんでいる。
康太は今、区立図書館の館長として働く傍ら、妖精・エレナとの出会いをもとに執筆した小説で話題を呼び、一躍有名になった。
最近では民俗学にも本格的に取り組んでおり、館内で講演や読み聞かせのイベントを開くなど、活動の幅を広げている。
──今夜のケサランパサランの話も、きっといつか物語の中で、新しい形に生まれ変わるかもしれない。
康太はそんなことを思っていると、書斎のドアが軽くノックされた。
「どうぞ」
康太がドアを開けると、そこにいたのはエレナだった。
「入っていい?」
「もちろん」
部屋に入ったエレナは、ひょいと机の端に腰かけると、康太が今書いている小説の画面を覗き込む。
「……陽菜と、いろんな冒険してるみたいだね」
康太が微笑むと、エレナも嬉しそうに頷いた。
「うん。ほんとに、毎日が楽しいよ」
一度は消えてしまったエレナ。それでも、陽菜が五歳のときに帰ってきてくれた。
今は康太と結衣だけではない。陽菜と悠真の想いも、しっかりとエレナに繋がっている。この“つながり”こそが、エレナが今ここにいられる証。
「これ」
そう言って康太が本棚からそっと取り出したのは、古びたノート。
彼が高校時代に綴っていた日記帳だった。
ページをぱらぱらとめくり、ある一枚の間に挟まれたものに指を止める。
「これ、覚えてる?」
そっと取り出されたのは、小さな押し花。
色は少し褪せていたけれど、花のかたちは今も丁寧に残っていた。
「……あ」
エレナの瞳がやさしく揺れる。
「持っててくれたんだね」
「あのとき、エレナがくれたものだからな」
エレナがふっと微笑んだ瞬間、彼女の身体が淡く輝いた。あのときと同じ、康太が高校生だったときに見た、夢のような光。
部屋の空気が、ふわりとやわらかくなる。
康太が懐かしむように微笑み返した、まさにそのとき──
「エレナ姉ちゃーん!」
勢いよく書斎のドアが開き、悠真が駆け込んできた。
「お姉ちゃんが、お風呂入ってるって」
「はーい、今行くー」
エレナは軽やかに返事をする。
「パパのお仕事の邪魔しちゃダメだよ」
そう言って悠真の頭をそっとなでる。
「うん……わかってるよ」
と言いつつ、悠真は康太の机に手をつき、ノートパソコンの画面を覗き込むと、おもむろに小説を音読しはじめた。
その声が重なるように、キッチンでは食器を洗う音が響いていた。
「あ、エレナ」
結衣がふいに声をかけた。
「どうしたの?」
「いつも陽菜のこと、ありがとう。学校で変なことしてたら、ちゃんと叱ってあげてね」
結衣が高校三年生だった頃、康太とともにエレナはそこにいた。康太と結衣の出会いの背後には、いつだってエレナがいたのだ。
言ってしまえば、二人が夫婦になれたのも、エレナのおかげ。
エレナは、二人にとってのキューピッドのような存在だった。
「任せて!」
エレナは胸を軽く叩いて応えると、ぱたぱたと駆けていき、陽菜のいる風呂場へと向かった。
湯船に浸かっていた陽菜は、少しぼんやりしながら鼻歌を口ずさんでいた。
そのメロディにあわせるように、扉の向こうでエレナがノックする。
「陽菜、入っていい?」
「いいよー! ちょっとまって」
返事と同時に陽菜が扉をそっと開けるとエレナは入っていった。
「ふぃー……生き返るぅ……」
陽菜が湯舟でのぼせ気味に言うと、エレナはくすりと笑いながら、浴槽の隅に腰かけた。
「今日もいろいろあったね。ケサランパサラン案件、大活躍だったじゃん」
「まーね。ま、エレナがいなかったら詰んでたかもだけど」
「ふふん。わたしに任せなさいって言ったでしょ」
エレナはどこか得意げに胸を張ってみせる。
「はいはい、自画自賛おーつ」
そう言いながら、陽菜は浴槽の縁にあごをのせ、ちらとエレナを見る。
「ねえ、エレナって……どうして、いるの?」
エレナは少し目を瞬かせた。
「どうしてって?」
「昔、一回いなくなったんでしょ。なのに、どうしてまたここにいるの?」
問いかける陽菜の瞳は、湯気のなかでもまっすぐだった。
エレナは静かに立ち上がると、陽菜のそばまでそっと寄る。
そして、湯気の中でそっと陽菜の額に手を当てる。
「それはね、陽菜が呼んでくれたからだよ」
「呼んだ……って、ウチが?」
「うん。すごく強く。あのとき、陽菜の“こころ”が、ちゃんと届いたの。だから、わたしは帰ってこられたの」
「なんか、ホラーみたい」
陽菜は苦笑しながら言った。
湯気のなか、エレナの輪郭がふわりと淡く揺れ光った。
その姿は確かにここにあるのに、どこか夢のように、はかない光をまとっている。
「わたしね、ほんとはずっとここにいたいって思ってる。でも、それって……」
「“想い”がないといられないんでしょ?」
陽菜がそっと言う。エレナは驚いたように目を見開いたが、やがて小さく笑って頷いた。
「……そう。すごいね、陽菜。ちゃんとわかってるんだ」
「でしょ? ウチもお父ちゃんもお母さんも悠真も、エレナがいてくれて当然って顔してる。……そりゃ、いないと困るでしょ」
陽菜が、濡れた指先を湯の上に伸ばす。エレナがその手にそっと触れると、エレナの身体が強く美しく光った。
陽菜とエレナ、ふたりの想いは強く、深い。だからこそ、その絆は、人の心や行動にまで影響を及ぼす力を持っていた。
もちろん、万能ではない。できることには限りがある。それでもこの世界において、ふたりの“想い”は唯一無二のスキルだった。
「ありがと、陽菜」
「……んー、てかさ、そろそろマジでのぼせそうなんだけど」
ちょっと照れくさそうにしながらも、陽菜はわざと軽く口をとがらせる。
二人はそのまま、湯気のなかでしばらく顔を見合わせ、微笑み合っていた。
「あ! 陽菜!! そういえば、ちょっと大きくなった?」
エレナは陽菜のツンと突き出た、張りのある胸をじっと見つめて、からかうように言った。
陽菜は少しムッとしながらも、反発するように答えた。
「変わってねーわ! たぶん……」
ふたりの空気は、どこかくすぐったくて温かかった。
「わかった、わかった。じゃあ、髪、乾かしてあげる」
「あとついでに肩もみよろしく」
「あー、陽菜はおばあちゃんだもんねぇ~」
「失礼な。年頃の女子ですが何か?」
ふたりはそんな風にじゃれあいながら風呂を出た。
そこには、いつもの夜が待っていた。
でも、その夜はほんの少しだけ、どこか優しさに満ちていて、心をそっと撫でるようだった──。
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