受動

 なにやら外が騒がしい。


 目を開けようにも、まぶたが重くて目が開かない。

 例えるなら、そう、生前にじいちゃんが騙されて買わされた磁石入りの敷布団のようだ。


「――ちゃーん。いないの?」


 ん? おばちゃんの声だ。あいかわらず声量がすごい。


「しのぶちゃん、起きなって! ちょっと大変なんだから~」


 勢いよく更衣室のドアが開き、私はカッと目を見開いた。

 それに合わせて、簡易ベットから落ちそうになる。


「おお……おばちゃん、朝からどうしたの?」


 勢いよく飛び起きたら心臓はバクバク、体には震えが。見慣れたおばちゃんの顔が二重に見える。


「あんた、何か聞いてない?」


「何を?」


 おばちゃんは呆れた様子で、はぁと息を吐いた。


「夜逃げですってよ、夜逃げ! 店長、夜逃げしちゃったのよ」


「はあ?」


 いったい、この人は朝から何を言っているのだろう。

 気の弱そうな、あの店長が夜逃げ? 


「ボーっとしてないで外出て見てごらんなさいよ。他の子たちや、お客さんも困ってるんだから」


 おばちゃんに促され、私はサンダルを履いて更衣室を出た。

 薄暗く長い通路を通り、出入り口へ向かうと、同じバイト仲間や常連客、昨日来たばかりのお客さんも建物の外に集まっている。


 急いで外に出ようとしたが、出入り口前にはご丁寧にトラロープが張ってある。

 それをまたいで、皆の目線が集中している入り口のドアに目を向けると、A4サイズの張り紙に目を奪われた。


『本日をもって閉店いたします。長らくのごあいこ、誠にありがとうございました。インターネットカフェ ネコチャーン』


 いまだに、少々恥ずかしさも残る店名だが、手書きで最後に『店長』と書いてある。なるほど、ご愛顧の漢字が書けなかったのか。そういうところは店長らしいなと思った。


 そして、張り紙の隅っこには当店のマスコット、猫山万蔵。

 ベロのはみ出た化け猫……可愛らしいネコちゃんは店長がパソコンで描いたもの。異常に長いシッポとヒゲが絶妙な愛嬌を思わせる。


 ――なんて、頭の中で言ってみたけど、まわりの騒がしさで現実に戻される。


 バイト仲間のやっちゃん、たしか夜勤明け。さっき起こしに来てくれたおばちゃんは早朝の清掃担当。入ったばかりの新人ふたりは呆然としている。


 常連の大学生は、専門書に目を落としながらも、しきりにこちらを気にしている。サラリーマン風の男性は、月に一回訪れてはマナーの悪い客をとっちめる、言わばマナー通。従業員の間で話題に上がるその人が、ちょうど今日来るなんて誰も思いもしなかっただろう。


 目を凝らして見ていると、騒いでいるのはこちらの関係者というより、外部の人たちではないだろうか? 近所の飲み屋で働くお姉さん(最近来てくれる)や、斜め向かいの会社の受付の人(常連)もいる。


 朝の6時過ぎにこれだけの人だかり。通勤通学と思われる複数の通行人が何事かと足を止め、のぞき込んだり話かけたりしている。


 その様子を静観していると、後ろから「しのぶちゃん」と声をかけられた。


「はい、これ。最後のお給料。ごめんね、こんなことになっちゃって。私、何も聞かされてなくて……」


 人事と経理担当の細野さん。元々、やせ型なのに顔に影ができ、顔色も真っ青だった。いつも整えられている黒髪は、寝癖も直さずボサボサで、慌てて出てきたのがよく分かる。


「細野さんにも?」


 細野さんは力なく頷いた。おばちゃんに聞いた話では、細野さんは店長と状態だったはず。パートナーにも言わずに逃げたとすると……?


「店長、借金か何かあったんですか。保証人とか」


 細野さんは首を横に振る。いつも明るく、はきはきした人が、今では倒れそうなくらい弱々しく見える。


「お金の問題じゃなくて、その、なんというか……」


「違法営業だったんですってね。それも無許可なんでしょう?」


 いつもどこから仕入れるのか、情報通のおばちゃんが、人だかりから小走りでかけ寄って来た。


「おばちゃん! やめてよ、そんな大声で」


 ふと隣の細野さんを見ると、体が震えている。二重でクリクリした目からは、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「おばちゃん、泣かすなよっ」と、やっちゃんが言うと、細野さんはしゃがみ込み、わんわん泣き出してしまった。


 それまで騒いでいた人たちは、その様子にしんと静まり「とりあえず荷物の整理でも」「落ち着いたら連絡ちょうだいね」など、言葉少なに散り散りになっていった。


 しばらくすると、細野さんは立ち上がり、ふらふらと店内へ入っていった。おばちゃんは気まずそうにしながらも、後を追うように入っていった。


 残っていたのは、私とやっちゃん。それに、新人ふたり。


「あなたたちも荷物の整理してね。急なことで驚いたでしょう?」


「ええ、まあ。でも、僕たち、他に行くとこあるんで。細野さんが紹介してくれたんです」


「そりゃ、よかったな。俺たちは、なんもねえよな、シノさんよ?」


 よっちゃんに言われて「うん」と答えたが、こんな状況でも細野さんは気遣いを欠かさないからすごい。余裕もなかっただろうに、仕事先を用意してあげるとは。

 入ったばっかりの子たちに悪いと思ってのことだろうけど、私だったらできなかったと思う。


「で、このあとどうする? 一度に職と住まいが無くなっちまったな。いや~まいった、まいった。しかしなあ、いつ張ってあったんだろな、張り紙とトラロープ」


 やっちゃんは夜勤明けの疲れも見せず笑っているが、店で寝泊まりしていた私たちは本当にどうしたものか。


「とりあえず、不動産屋さんにでも行こうかな」


 さっき渡された給料袋。いつも振込だったからか、しっかりしたこの茶封筒はずっしり重たく感じた。

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