第3話 挑戦

 鉄瓶の湯を注ぎ、冷めかけた飯を軽く蒸らす。昨夜の残りの味噌汁を火にかけると、湯気とともに香ばしい味噌の匂いが立ち上った。箸で鍋の中をかき混ぜながら、ぼんやりと昨日の出来事を思い出す。

 (そうだ、俺は人生で初めて絵の依頼を受けた。その人のためだけに描く絵、それも春画だ。)

「俺にはできる気がしねぇよ」

 直行は弱々しく呟いた。それでも不思議なくらい腹は減った。直行は麦飯をかきこむと、塩気の効いた沢庵をぽりぽりと噛み、ため息をつく。

 直行はよくわからなかった春画が、さらにわからなくなったような気がしたが、吉原での傷心はだいぶ癒え、いくらか心の中に引っかかっていた重りが軽くなったように感じた。

 (とにかく、もう一度仏僧を訪ねよう。)

 直行は、麦飯の米の一粒まで食べ切ると、勢いよく長屋を飛び出した。

 昨日は暗闇でよく見えなかったが、仏僧のいた寺は紅葉に染まっていて趣のある雰囲気を纏っていた。直行は、境内の庭で落ち葉を掃いている一人の娘の姿を見つけた。

 娘は気配に気づくと、そっと直行の方を振り返り、小さくお辞儀をした。彼女は小柄で、小動物のような愛らしさを持っていた。雪のように白い肌には、淡く紅が差し、その頬の色が小さな唇と美しく調和している。

 直行は娘の視線に小さく狼狽すると、慌ててお辞儀を返した。ゆっくりと近づくと、娘もこちらに向かって歩いてきた。

「あの、仏僧さんはおいでですか?」

「仏僧さん?」

 直行は「ああ」と焦ったように頭を掻いた。名前を聞いておくべきだったと今になって後悔した。

「ええと……丸坊主で、痩せているようで意外と腹は出ていて、恵比寿様みたいな顔で……」

 娘は一瞬ぽかんとした後、ふっと笑みを浮かべた。

「ああ、玄光さまのことですね。いつもあのお寺の縁側でお月様を眺めておられますよ。」

 直行は思わず肩の力を抜いた。どうやら、そう的外れな形容でもなかったらしい。

「玄光……いかにもそれらしい名ですね。でも、本人の言葉は意外と俗っぽい。」

 娘は口元に手を当てて小さく肩を揺らす。笑うと糸のように細くなる目が愛らしくて、直行は思わず名を尋ねた。

「私はこのお寺で経を読み、掃除をしております、沙月と申します。」

 沙月は琴のように儚く、しかし芯のある声をしていた。

「直行様はどのようなご用で?」

「絵画の依頼を……受けまして。」

 直行は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。「春画を描いてくれと頼まれた」、寺の娘の前でそれを言うのは憚られた。沙月の澄んだ目が、まっすぐに自分を見つめているのが、なんとなく気まずい。

「玄光さまに、少し話を伺いたくて参りました」

「絵画の依頼……? 玄光さまに?」

 当然の疑問だった。坊主が直行のような若造に絵を依頼するという違和感のある状況。ましてや画師に何を語るというのか。直行は適当に話を逸らそうとしたが、沙月はふと、思案するように口元に指を添えた。

「……玄光さまは、時折とても不思議なことをおっしゃいますからね。」

「やはり、そういうお方なのですか。」

「ええ、昔から。少々お部屋でお待ちください、玄光さまを呼んでまいります。」

 沙月は箒を縁側の近くに置くと、直行を寺の中へと案内した。「ありがたい」と、直行は胸の内でほっと息を吐きながら沙月の後ろを歩いた。

 室内は質素ながらも整えられ、几帳面に敷かれた畳がほのかに古い茶の香りを含んでいる。直行は襖の隙間から、色とりどりの葉がひらひらと舞い落ちるのを見ていた。

「直行さま、失礼いたします。」

 沙月の声がして、直行は「はい」と姿勢を正した。玄光がいるのだろうと胸を張っていた直行だったが、部屋に入ってきたのは長い髪を1つにまとめた沙月だけだった。

「玄光さまですが……」

 沙月は一息おいて口を開く。

「どうやら、直行さまとお会いになるつもりはないようです。」

 直行はゆっくりと息を吸ったまま、口をあんぐりと開けて固まってしまった。

「あ、会うつもりはない……ですか?」

「はい。私には事情は分かりませんが、『わしの姿を思い浮かべながら描いてみよ』と仰ると、そのまま奥へ籠もってしまわれました。」

 直行は、しばしの間、呆けたように瞬きをした。墨のついた小袖の端を弄りながら、沙月の言葉を頭の中で何度も反芻する。直行は膝の上で手を組み、眉を寄せながらしばらく沈思していた。

「――まったく、厄介なことになった……」

 ぽつりと呟いたその声は、自分でも思いのほか力なく響いた。そんな彼の様子を見て、沙月はさらに思い出すように目を細め、続けた。

「もうひとつ、こんなことをおっしゃっていました。」

 彼女は少し首をかしげ、玄光の言葉をそのまま口にする。

「"この身は泥のようなもの。だからこそ、女を花として咲かせてくれ。"」

 彼の胸に、玄光の言葉が深く響く。

 直行はじっと己の手を見つめた。

 泥と花、全く対照的な二つ――

 玄光はただ春画を求めたのではない。彼は己の姿を闇の中に隠すことで、殊更難しく清廉で淫靡な絵を欲している。

 そう分かった時、直行は深いため息をついた。

(ああ、よりによってこんなにも無茶で風変わりな老人に出会うとは。)

 表向きは毒づきながらも、その心の奥では好奇心が鋭く光っていた。

「感謝します、沙月さん。」

 直行は両手で頬を叩くと、挑むような笑みを浮かべて立ち上がった。沙月も慌てて立ち上がると、困ったように眉を下げて直行の名を呼ぶ。

(とりあえず、頑張ってみるか……)

 直行は大きな紅葉の木の前で両手を広げると、ゆっくりと深呼吸をする。紅葉の燃えるような色が、静かに直行の決意を映していた。

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