第2話 春はこぬ
「おお」
遊廓に足を踏み入れた直行は、思わず感嘆の声を上げた。江戸の空が藍色に染まり、街の喧騒が静まり始める頃、そこはまるで別世界のように灯を灯している。入口の大門をくぐれば、両脇には高くそびえる楼閣が並び、その奥には無数の妓楼が立ち並んでいる。
直行は空気の流れと、その街の掟に身を任せた。そして気づけば、遊廓での一夜が始まろうとしていた。切れ長の目をした美しい遊女は、優雅に杯を差し出す。「まずは一献」と囁く声は甘く、笑みを含んでいる。三味線の音が静かに流れるなか、直行は彼女の仕草を眺める。
「お琴」
直行は遊女の名を呼んだ。酒を重ねるうちに酔いが回り、自分の目的すら曖昧になっていた。ただ、目の前に美しい女がいて、その名がお琴である——それだけが確かな事実のように思えた。
お琴は砕けた口調で返事をし、赤らんだ頬を直行の肩に寄せた。その瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた気がした。そう感じた時には、すでにお琴を押し倒していた。
直行の手がはだけた衣の中へと滑り込む。指先が白く豊かな曲線をなぞると、直行の瞳は陶然とする。一方で、お琴の視線は挑むように鋭く、彼の肌にそっと触れた。
「あらまぁ、可愛え坊やだこと」
お琴は目を細め、直行の腕の隙間をすり抜けると、そっと彼の耳を噛んだ。驚く間もなく、お琴は素早く彼に跨り、「うぶねえ」と囁きながら、その股間を弄る。
(これは……まずい)
お琴の巧みな腕に、直行の理性は霧のように消え、すべての意識が彼女に奪われていった。
──いつ果てたのかも分からない。
目を開ければ、障子の向こうから朝日が射し込んでいた。戸の隙間から入る風が、肌にひんやりと心地よい。いつの間にか掛け布団は剥がされ、傍らではお琴が櫛で乱れた髪を整えている。
「まだ寝ていてよかったのに」
お琴は呆然とする直行に微笑みかける。そこで、直行は全てを思い出した。己がひどく酒に酔っていたことも、女に酔わされていたことも。ズキンと痛む頭を押さえて、直行はため息を吐く。昨晩の快感が頭をよぎるだけで、それ以外のことは何も覚えていなかったからだ。艶やかな女体も、それを狂わす己も夢のまた夢のようだ。
直行は無造作に銭をお琴に渡すと、逃げるように遊郭を後にした。お琴の凄技に打ちのめされ、もはや絵師としての観察眼も、男としての自信も粉々にされたようだった。やはり、俺に春画は早い――懲り懲りだというように直行はげっそりとした顔で足を引きずりながら、朝靄の中を歩いた。
ふと、背後から艶のある声が響いた。
「またお待ちしていますよ、直行さん」
振り返ることなく、ただ手を振るようにして直行は歩みを早める。
その様子を眺めながら、お琴はくすりと微笑み、深くお辞儀をした。どうやら彼女は、すっかり直行を気に入ったらしい。
自宅に戻る頃には、直行の肩はひどく重く、筆を持つ手すらも怠く感じられた。
「清吉はすげえや」
直行は朋輩の精力と筆にただただ感心しながら、早々に床についた。
遊廓での一夜を過ごした直行だったが、翌日からも普段と変わらぬ表情で絵に向き合っていた。周囲の目には、いつもの生真面目な――いや、それ以上に真剣な姿に映った。
しかし、一時も直行の頭から鳥文斎栄之の春画が離れることはなかった。何度見ても、彼の春画は直行の胸をくすぐり、妙な焦燥を掻き立てた。
(俺は本当に、春画を描かぬままでいられるのか?)
単なる興味ではない。線の流れ、色の配し方、男女の交わる瞬間に宿る生気――そのすべてが、己の中に眠る何かを刺激してやまなかった。
窓の外から、遊郭の方角に目をやるとあの一夜の記憶がふと蘇る。夢のようなあの感触を、紙の上に刻むことはできるのか。
もし描けるなら、それは己の「筆が変わる」瞬間なのかもしれない。
清吉の何気ない一枚の絵に端を発した興味は、いつの間にか直行の内に根を張り、彼を見知らぬ境地へと駆り立てていた。
その夜、直行は師に御使いを頼まれて小石川養成所まで足を運んでいた。師の絵師仲間が持病を悪化させてここに運ばれ、見舞いの品を直行に託したのだ。直行はそれを届けると、長い廊下を抜けて外へ出た。すっかり冷え込んだ空気のなか、門前の石畳を歩きながら息をつく。
帰路につこうとしたそのとき、ふと、寺の境内からかすかな読経が聞こえた。夜更けに響くその声は、どこか異様だった。まるで己自身に言い聞かせるような、孤独な祈り。
直行は導かれるように足を向けると、灯りの消えた本堂の縁側に、ひとりの老人が座っているのを見つけた。
「……おまえさん、絵描きだね?」
唐突に声をかけられ、直行はびくりと体を震わして筋肉を固くした。思わず後退りする。
「なぜ分かるのです?」
男は静かに立ち上がると、夜の闇に沈む直行をじっと見つめた。細い目が、月光を宿して妖しく光る。
「その目が、ただの景色ではなく“形”を見ている。」
「は、はあ……」
随分と哲学的な物言いをする仏僧に、直行は眉を顰めた。その後も、仏僧は絵師の特徴をぶつぶつと語っていた。「墨の香りがする」とか、「筆を持つ者の手は、僧の数珠より雄弁だ」とか。挙句の果てには、「手先を見れば、色欲にまみれた絵を描くか、清らかな仏を描くか、わかるものよ。」と言った。
「己の手はどちらでしょうか?」
直行は興味本位で仏僧に訊ねる。月に照らされた仏僧の顔が、あまりにも優しくて恵比寿様のようで、自然と気を許してしまった。
仏僧は手招きして直行を縁側に座らせた。直行の手の甲を覗き込むと、仏僧は「ふむ」と顎を撫でた。
「これはおまえさん、真っ白じゃな」
「真っ白、ですか」
仏僧の言葉の通りだった。「生真面目な絵描きじゃ」と、仏僧はほほほ、と愉快に笑った。全て見透かされているようで、直行はぎこちなく口角を上げて手を引っ込めたが、ふとこの穏やかな老人に全てを打ち明けてみたい衝動に駆られた。
「……その真っ白さが己の悩みなのです」
「ほぉ」
仏僧は興味深そうに身を乗り出すと目を細めた。
「春画が描けません。どうしても、筆が進まないのです。」
直行は苦笑しながら、自分でも驚くほど素直に言葉をこぼした。仏僧はゆっくりとまばたきをして、微かに口元を緩めた。
「書けぬとな?」
「筆を取れば、線は引ける。だが、女の肌に血が通っていない。ただの輪郭しか描けねぇんです。」
「ほう。おまえさんは、女の色を知らぬのじゃな。」
直行は反論しようと口を開いたが、すぐに言葉を飲み込んだ。女を抱いたことは何度かある。遊郭での一夜も経験した。だが、それと「描けること」は違うのだ。
仏僧は穏やかに直行の手をとり、指の節を撫でるように押した。
「筆を握る手には、心が宿る。おまえさんの筆には、まだ”熱”が足りぬ。」
「熱……?」
「そうじゃ。情の熱、欲の熱、人の熱。春画とは、肉と心の交わりを描くものだろう。」
直行は唇を噛んだ。
「ならば、どうすればいいのですか?」
仏僧は微笑むと、夜空を見上げた。
「私に描いてみせよ。」
「……は?」
「私はこの年になるまで、女を抱いたことがない。だが、一度でいいから、心で女と契りを交わしたい。筆で叶えてくれまいか?」
月明かりの下、仏僧の表情はどこまでも穏やかだった。しかし、その言葉の意味は、直行の胸に鋭く刺さる。
「……筆で、心の交わりを?」
直行は己の手を見つめる。今の自分に、それが描けるのか――?
夜風が吹き、寺の境内の木々がざわめいた。直行は、しばらく無言で月を見上げていた。
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