或る狂人の恐怖

UldorAlberch13

告白

昔のことである。とある少女が私に言った――「好きです、付き合ってください」と。

あのときの狼狽を、私は今でもはっきりと覚えている。結論から言えば、私はその申し出を受け入れた。そう、恋愛関係を承諾してしまったのだ。

私は愚かだった。初めて異性から好意を向けられ、思考が定まらなかったのである。だが、それは所謂“嘘告白”というものであった。こうして私は、人間不信の第一歩を踏み出した。


あれから三年が経つ。今にして思えば、あの出来事は幼い精神が生み出した、どこにでもある小さな悪戯に過ぎない。だが当時の私には、それを理解することができなかった。

なぜ、あのように誰も得をしないことをするのか。被害者が怒り、報復してきたらどうするつもりだったのか。何度考えても釈然とせず、私の思考は糸の切れた毛糸玉のように乱れていった。


結局、この問題の整理に丸一年を費やすことになった。その頃には、すでに周囲の人間と話が合わなくなっていた。もともと少なかった知り合いも自然と離れ、やがて家族以外とほとんど会話をしない毎日となった。


私が最終的に至った結論を述べる前に、まず私の信条を示しておきたい。

それは――「定義し、合理性を追求すべし」というものである。

あらゆる思考において、明確な定義を基盤とすることが不可欠である。定義は明文化され、合理的であり、また公開されていなければならない。

合理的な定義の上に合理的な思考を積み重ねてこそ、最善の選択が導かれるのだ。これは十年にわたる思索の結晶である。


まず「定義」について。

一般常識という言葉で片付けてはならない。常識とは脆弱であり、時代や場所、人によって容易に変化する。

不安定な定義の上には、不安定な議論しか生まれず、欠陥のある結論が導かれる。

これは社会規範やルールにも通じる。常識に依拠したり、過程や結論を非公開としたり、定義を曖昧にした規約などは、断じて認められぬ。


次に「合理性」である。

合理性とは、あらかじめ定められた最善の基準に最も近づく思考のことである。

ただし、人の論理性を信頼するものではない。むしろ、人は感情によって動く生物である。

したがって、合理性とは人の感情の動きすら予測した上で、最善を導く思考であるべきだ。

自らを論理的存在と錯覚することは危険であり、感情的動物である自分を自覚したうえで、合理的生物に近づこうと努める姿勢が重要なのである。


この信条をもって、冒頭の嘘告白事件を解釈しよう。

あの少女がなぜそんな行為をしたのか。答えは単純である――彼女は快楽主義者だったのだ。

ただし、瞬間的な快楽のみを追求した愚か者でもある。

その一瞬の「愉しさ」のために、次の瞬間の快楽の可能性を犠牲にした。これは明らかに合理的ではない。

当時の私が理解できなかったのは、相手を“論理的生物”だと誤認していたからである。

前提が誤っていたのだから、結論に至れないのは当然のことだ。

念のため言っておくが、私はすべての人間が非論理的だと言っているわけではない。

ただ、非論理的なものとして扱った方が合理的であるというだけだ。合理性の追求において、“みなし”は極めて重要である。


こうして私は、三年の歳月を経てようやく過去から解放された。

しかし、気づけば周囲には誰もいなかった。

もともと乱暴な性格で友人も少なかったが、今や知人すらほとんどいない。

孤独が私を侵食し、思考の余裕を奪っていった。

合理的であろうとする努力にも支障をきたし、私は以前より感情的になり、短絡的になり、考えることをやめ始めた。

私は――私自身が怖い。


いつしか、恋愛という概念そのものにも恐怖を覚えるようになった。

理性ではそれを否定する理由がないと分かっていても、感情がそれを拒む。

やがて私は、「恋愛をしないための合理的理由」を探すようになった。

恋愛は必須ではなく、しばしば障害ともなりうる――そう考えれば恐怖を正当化できる。

しかし、本当にそれでよいのだろうか。

友人すらいない私が、他者との関係を構築できるのだろうか。

練習と割り切れない私には、破綻する関係を試みる勇気などなかった。

そうして恐怖は増大し、今では女性を見るだけで恐怖を覚えるほどになってしまった。


この話を聞いた「大人」は言うだろう――「若さゆえの過剰な防衛だ」と。

だが、私はそれを否定する。

なぜなら「大人」を名乗る者の中に、果たして大人らしく理性的な行動ができる者がどれほどいるというのか。

都合の良い時だけ「大人はこうあるべきだ」と語り、他者を見下ろす。

自分より若いというだけで、他人の思考を嘲笑する――これほど空虚な行為があるだろうか。


私は、合理性の欠片もない「大人」を多く見てきた。

たとえば自殺が社会問題となる現代において、自傷行為やうつ病を告白した者だけが優遇され、そうでない者は軽視される。

もちろん、例外もある。しかし私の孤独を「思春期の一過性の悩み」と断じ、真剣に耳を傾けなかった大人が多いのも事実である。

私は自傷行為をしない。ただ、それが私の信条に反するからだ。

では、自ら傷つけない者には悩む権利すらないのか。

人生のあらゆる場面で年功序列を持ち込むつもりなのか。

「自分がされて嫌なことは他人にしない」――その程度の理性も失われているのだろうか。


私は人間が怖い。

人間は、どうしようもなく愚かである。

そして私自身も、愚かである。

皆、自分を大きく見せようと必死だ。私もまた、自分の孤独を特別なものとして認識させようとしている。

――これ以上に恐ろしいことがあるだろうか。

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