第2話 トラウマ

 九華くうかが病院のベッドで意識を取り戻した時、世界は大きく変わっていた。


 やはり朔良さくらは、救えなかった——


 警察は男の身元を迅速に捜査していた。二十八歳、無職。アパートから発見された大量の向精神薬と、ネット掲示板への書き込み履歴が事件の全容を物語っていた。


『もう限界だ。今日で終わりにする。道連れになる奴らは運が悪かったと思えよ』


 事件の三十分前に投稿されたこの一文によって、警察は半衝動的な無差別殺人事件と結論づけた。社会から孤立し、薬物に依存し、最後は見知らぬ他人を巻き込んだ身勝手な犯行——メディアが求める分かりやすいストーリーがそこにあった。


 しかし九華にとって辛辣だったのは、別の物語が存在した事だった。


 事件を目撃した通行人の一人が、一部始終をスマートフォンで撮影していた。小柄な少女が傘で大人の男性を一撃で刺し殺す衝撃的な映像は、SNSに投稿されると瞬く間に拡散された。


『小学生が殺人犯を一撃で制圧!』

『現代の侍美少女、犯人を居合で撃退』

『無敵の人、小学生女児に返り討ちに遭いタヒぬwww』


 タイトルは次第に扇情的になり、事実は都合よく脚色されていく。プラットフォームの運営が元動画を削除したものの、既に無数にコピーされ、編集され、新たなバージョンが生産され続けていた。削除という行為はむしろ「隠蔽された貴重映像」としての価値を高めるだけだった。


 九華は一夜にして時の人となった。本人の意思とは無関係に。


 退院から一週間後、九華は学校に復帰した。

 九華の通う女学院は小中高学一貫の名門校で、生徒の大半は上流階級の子女だった。教師たちは事件について詮索することなく、同級生たちも気遣うように接してくれた。


「九華ちゃん、無理しなくていいからね」

「何か困ったことがあったら、いつでも相談して」

「一人じゃないから」


 温かい言葉が九華を包んだ。カウンセラーとの面談も定期的に設けられ、学校全体が九華を守ろうと努力してくれた。


 表面的には、学校生活は以前とほとんど変わらなかった。友人は相変わらず多く、学級委員長も務めた。学院の行事にもにも積極的に参加し、体育祭ではリレーのアンカーを任された。外から見れば、九華は事件の傷を乗り越えた強い子どもだった。


 だが変化は確実にあった。


 男性に対する恐怖心。

 調書を取りに来た男性捜査官、病院での男性医師、テレビの男性アナウンサー——それらすべてが九華の心拍数を跳ね上げた。幸い女子校という環境が彼女を守っていたが、学校外では常に心が休まらない。家族以外の男性とは会話どころか目を合わせることすら苦痛になっていた。


 しかし変化の中で変わらなかったもの——それは居合に対する情熱だった。

 龍裁無拍流りゅうさいむはくりゅう。九華の祖父が宗家を務める古流派で、実戦を重視した無慈悲な技法で知られていた。事件前から九華は稽古に通っていたが、事件後はその頻度が尋常ではなくなった。カウンセラーから居合道はやめた方が良いと忠告を受けたものの、強い希望で練習を続けていた。


「九華、あまり根をつめても体を壊すぞ。少し休んではどうだ」


 心配した祖父が声をかけることもあったが、九華は首を振った。


「ボクはもっと強くなりたい。もう二度と……」


 言葉は途切れたが、祖父には孫娘の想いが痛いほど伝わった。


 刀を抜く瞬間、世界が静寂に包まれる。呼吸を整え、精神を統一し、一瞬で勝負を決する。その刹那だけ、九華は朔良の死から、そして自分の罪悪感から解放された気がしていた。


 九華が幼い頃から慣れ親しんだ龍裁無拍流には、他流派にはない独特の特徴があった。安土桃山の時代から伝わる古流で、想定する敵は人間だけではない。獣、物の怪もののけ、妖怪そして龍さえも斬り伏せる技を想定している。


 祖父に見せてもらった古い指南書を思い出す。百を超える型が記され、歴代の宗家でさえ全てを完璧に習得することは不可能とされてきた。


 ただひとり、久遠寺九華くおんじくうかを除いては。


 祖父は孫娘の異常なまでの集中力を見て、ある決断を下した。中学進学と同時に、九華を龍裁無拍流の次期後継者に指名したのだ。


「九華には天賦の才がある。技術もさることながら、刀に対する純粋な想いが並外れている」


 門下生たちは驚愕した。十二歳での次期後継者指名は前例がなかった。しかし九華の圧倒的な実力を目の当たりにすれば、異論を唱える者はいなかった。


 事件から一年半。九華の居合は既に達人に達していた。成人の師範代でも、彼女の抜刀速度、正確性を超えることができる者は皆無だった。


 だが祖父だけは理解していた。孫娘が求めているのは単なる技術向上ではないということを。九華は刀に祈りを込めている。二度と大切な人を失わないように、今度こそ守り抜けるようにと。だがその一方で九華が何か特殊な感情に支配されつつあると気づいている様だった。


 中学一年生の春、九華は十三歳になった。


 身長は145センチと小柄だったが、居合で鍛えられた身体は同年代の少女たちとは明らかに異質だった。しなやかでありながら芯の通った姿勢、一切の迷いを排した澄んだ瞳、そして何より、近寄りがたいほどの静謐せいひつな美しさ。


 成績優秀、容姿端麗、武芸に秀でた完璧な少女——周囲はそう認識していた。


 しかし九華自身は、自分の内側で蠢く忌まわしい感情に苦悩していた。


 あの夕暮れ、男を刺殺した瞬間の記憶。傘の先端が喉奥に沈む手応え。血飛沫が舞い散る光景。そして——自分が朔良の代わりに刺されていればという欲求。


『殺されたい願望』


 九華はその感覚を忘却することができなかった。朔良を失った悲嘆と激怒、人を殺したという罪悪感。それらに混在して、間違いなく存在していた背徳的な感情。

 あれから自分が殺害される妄想を時々するようになった。事件の影響で心が壊れてしまったのか。それとも自身が生来の異常者だからなのか。


 カウンセリングでこの感情について語ることはできなかった。話せば確実に異常者扱いされ、家族が悲しむと分かっていた。何より、この暗い衝動こそが自分の本質なのではないかという恐怖があった。


 事件の後、買い与えられたスマートフォンで『殺されたい』と検索すると、“命の電話”や”心の相談室”といったサイトがヒットする。一度だけそういったサイトの相談窓口に電話したことがある。


 震える指で画面をタッチし、表示された番号に電話をかけた。コール音が三回鳴ると、落ち着いた女性の声が響いた。


「はい、こころの相談室です。お電話いただきありがとうございます」


「あの…」九華の声は掠れていた。「ボク…」


「大丈夫ですよ。お名前は何とお呼びすればよろしいでしょうか」


 相談員の声は優しく、急かすような調子は一切なかった。九華は「ユリ」という仮名を名乗り、どうにか自分の気持ちを伝えようと必死だった。


「ボク、おかしいんです。普通じゃない感情を持ってしまって……」

「どのような感情でしょうか。できる範囲で教えていただけますか」


 九華は言葉に詰まった。事件のことは話せない。でも、この気持ちを——


「…死にたい、って思うんです。でも、ただ死にたいんじゃなくて…誰かに…殺されたい、って」


 電話の向こうで、かすかに息を呑む音がした。しかし相談員の声色は変わらなかった。


「それは、とても辛い気持ちですね。そういった想いで苦しんでいらっしゃるのですね」

「はい…」九華の目から涙が溢れた。「おかしいですよね。普通の人は、こんなこと考えないのに……」

「ユリさん、お電話をくださったことは、とても勇気のあることです。一人で抱え込まずに、誰かに話そうと思われた。それはとても大切な一歩です」


 相談員は九華に、同じような悩みを持つ人は他にもいることを教えてくれた。適切な支援を受けることの大切さについても話してくれる。


「でも、そのためには信頼できる大人の方に相談していただく必要があります。ご両親や、学校の先生に——」

「無理です…」九華の声が震えた。「家族には絶対に言えません」

「そうですか…。ご家族に話すのが難しい理由を、聞かせていただけますか」


 久遠寺家の名前を出すわけにはいかない。九華は唇を噛んだ。


「うちは…きちんとした家柄なんです。もしボクがこんなことで病院に行ったりしたら、きっと家族が恥ずかしい思いをします」


「ユリさんの気持ち、よく分かります。でも心の健康は、体の健康と同じように大切なものです。専門家に相談するのは、決して恥ずかしいことではありません」


「でも…」


「ご家族の方は、きっとユリさんを愛していらっしゃると思います。体裁よりも、ユリさんが元気になることを望まれるのではないでしょうか」


 九華は何も答えられなかった。相談員の言葉は正しいと思う。でも、現実はそう単純ではない。久遠寺の家名、社会的地位、祖父の立場——すべてが重くのしかかっていた。


「今すぐでなくても構いません。でも、いつかは勇気を出して、誰かに助けを求めてくださいね」


 最後の言葉には温かさがあった。


 電話を切った後、九華は布団に潜り込んだ。相談員の温かい言葉は確かに心に届いた。でも、その暖かさが消えると、再び暗い感情が蠢き始める。

 結局、誰にも相談することはできなかった。久遠寺九華という名前を背負っている限り、この闇は自分一人で抱え込むしかないのだと思った。


 ボクは、頭のおかしい人間なんだろうか——


 答えは出なかった。ただ皮肉なことに居合の稽古中だけはその疑問を忘れることができた。技の向上に没頭している間は、純粋に武芸と向き合える。


「久遠寺さん、最近少し痩せたようですが、大丈夫ですか?」


 担任教師の心配げな問いかけに、九華は習慣化した微笑みで応じた。


「全然大丈夫ですよ!稽古はいつも頑張ってますけど!」


 嘘ではない。真実でもない。九華は自分の内なる闇に蓋をして、刀を握り続けた。







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 読んでいただき、本当にありがとうございます。

 この物語が、あなたの心のどこかにそっと触れられていたら幸いです。

 ☆や♡、そしてコメントを頂けた日には、作者が静かに五体投地して感謝いたします。


 更新は 木・金・土・日の21時前後に予定しています。

 また覗いていただけたらとても嬉しいです。

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