殺されたい少女(ボク)の勇者譚
のて。
第1話 血溜まりの記憶
あの日以来、ボクはずっと血溜まりの中にいる――
夕立の名残りがアスファルトを濡らしていた。街灯の光が水溜りに反射し、まるで地面に星が散らばったかのようだった。空気は雨上がり特有の清涼感を纏い、土と緑の匂いが微かに鼻をくすぐる。
学校指定の茶色の鞄を小さな肩にしっかりと背負った十一歳の
時間が経つにつれ、校舎の奥からかすかに聞こえるクラブ活動の声や、遠くで響く下駄箱を閉める音も無くなっていく。九華は時折壁の時計を見ながら、約束の時間を確認するように小さくうなずいた。その仕草は落ち着きを感じる。だが少しずつ、確実に胸が高鳴っていくのを九華は感じていた。
靴箱の前に立つ彼女の影が、傾きかけた陽射しによって長く伸び、昇降口の床に濃く落ちていた。
夕暮れと夜の間に包まれた廊下の奥、九華は息を切らせて向かってくる少女――
「九華ちゃん、待たせちゃってごめんね!委員会が長引いちゃって」
朔良は肩で息をしながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「気にしないでよ。ボクも朔良と一緒に帰りたかったんだから」
「時間は大丈夫?いつも木曜日は居合のお稽古でしょう?」
「大丈夫だよ。おじいちゃんには後で謝ればいいから」
本当は遅れたら祖父から強く叱られる。それでも構わなかった。
「ダメだよ、九華ちゃんの剣術、すごく上手なんだから。この前の競技会でも優勝したんだし」
「朔良が応援に来てくれたからだよ」
その答えに、朔良は花が咲くように笑う。その笑顔を見ているだけで、九華の胸は温かくなる。
ふたり並んで小学校の校門を出た。九華の後ろでまとめた長い黒髪と朔良の肩で切り揃えられた黒髪がなびく。制服のスカートの裾が歩調に合わせて揺れ、革靴が濡れた石畳を踏む音が規則正しく響いた。
並んで歩く同い年の2人。背丈は九華の方が幾分か小さい。端から見れば姉妹のようにも見えた。
「ねえ九華ちゃん、今度の日曜日、一緒に映画見に行かない?」
「いいよ!何見るの?」
「えっとね、あの魔法少女の——」
朔良が楽しそうに話し始める。九華はそれを聞きながら、小さく頷いた。
「朔良はいつも元気だね」
「だってね、九華ちゃんといると楽しいだもん!」
自然と繋いだ手のひらから伝わる温もり。何気ない会話。屈託のない笑い声。朔良の声は、いつものように優しく九華の心を包んでいた。九華は友人が多かったが、朔良は特別な存在だった。穏やかな時間が、二人の間を優しく包んでいた。
その日常を切り裂くように、背後から足音が迫った。
最初は遠くの雑踏に紛れていたそれが、急速に近づいてくる。靴音が水を叩く音。不自然なほど速く、直線的に。街灯の光を遮り、二人の足元に暗い影が落ちた。
男。濡れたフードで顔の上半分を隠し、雨に濡れた髪が額にべったりと張り付いている。荒い息遣い。右手にはナイフ。刃渡り十数センチの殺意の塊が、街灯の光を受けて鈍く光っていた。
気配に九華が振り返るより早く、男は動いた。
瞬間、咲良の細い腕を力任せに引き寄せ、首筋へ刃を突き立てる。金属が肉を裂き、骨へと達する鈍い音。咲良の口から短い悲鳴が漏れ、それは静寂に不協和音となって響いた。
「えっ――」
時間が止まったように、九華はその光景を見た。咲良の表情が驚愕から苦痛へ、そして虚無へと移り変わっていく。血が溢れ、白いブラウスを真紅に染めながら、瞳から焦点が消える。呼吸とも声ともつかない音が喉から漏れ、雨上がりの空に溶けていった。
「九華…ちゃ……」
朔良の唇が、かすかに動いた。
「逃げ…て……」
いつも笑っていた顔が、苦痛に歪む。九華と繋いでいた手が解かれ、力なく垂れ下がる。
「——っ!」
叫ぶより早く、手が動いた。持っていた傘を反射的に構え直す。柄を握る手に汗が滲み、心臓が激しく脈打つ。
男が朔良を突き放した。まるで用済みの人形のように。体が地面に崩れ落ち、水溜りに血が混じって薄い紅色に染まっていく。そして血に濡れた刃を、今度は九華に向けた。刀身がルビーのように街灯の光を妖しく反射する。
興奮した男の、軋むような呼吸が唇の隙間から漏れる。フードの奥で光る瞳。狂気に満ちた視線が九華を舐め回すように見つめていた。
次はボクの番だ——。
自身が殺される幻視が頭をよぎる。足が竦み、呼吸が浅くなる。
雑念を払う。すぐに処置すれば朔良は助かるかも知れない。ならば目の前の“敵“をいち早く排除する必要があった。
集中する。短く息を吐き、心拍を整える。傘の重さ、握り方、相手との距離——すべてを瞬時に計算する。
狙うのは——喉。そこしかない。急所を一撃で仕留めなければ、朔良を救えないし自分が殺される。九華の心の
――男が動く
九華は同時に低く踏み込んだ。そして下方から全身のバネを使った渾身の突きを放つ。
傘の先端が喉奥に沈む。肉を裂く手応え。鉄芯が骨を砕く――
男の目が見開かれ、驚愕の表情が浮かぶ。口から血の泡が溢れ、痙攣するように震えている。
時間が動き出す。
男は膝から崩れ落ち、両手で喉を押さえて激しく咳き込む。血が噴き出し、九華の純白の制服を容赦なく染めた。温かい液体が頬にも跳ね、生々しい鉄の匂いが鼻腔をつく。
遠くで悲鳴。通りがかりの人々が事態に気づき、慌てふためく声。誰かが警察を呼ぶ。胸を灼くような感覚が九華を襲い、膝が震え始めた。足元の水溜りに赤が広がっていく。雨水と血が混じり合い、アスファルトに不気味な模様を描いていた。
ひしゃげた傘の先端が震えていた――金属の骨組みは曲がり、流行りのキャラクターがプリントされたピンク色の布には血痕がべっとりと付着し、最悪のコントラストを描き出している――それが自分の手の震えだと気づくのに、少し時間がかかった。
アドレナリンが抜けていくと共に、九華の視界がクリアになっていく。
目の前に倒れているのは、血まみれの友人。
「朔良ッ!」
九華は駆け寄った。膝をついて彼女の側に身を寄せる。白いブラウスは既に真紅に染まり、首筋の傷口からは止まることなく血が流れ続けている。
「お願い、目を開けて!朔良!!」
声が震えていた。両手で朔良の傷口を押さえ、必死に止血を試みる。でも指の間から温かい血液が容赦なく溢れ出す。まるで壊れた蛇口のように、自身の手のひらを赤く染めていく。
「だめ、だめだよ…こんなに血が…」
朔良の顔はみるみる青白くなっていた。いつも薄い赤みを差していた頬には血の気がなく、唇も紫色に変わっている。
「ねえ、朔良、ボクの声が聞こえる?」
むせ返るような血の匂い。それは九華の制服にも、髪にも、肌にも染み付いて、体に深く浸透していくように感じられた。
「嘘でしょ…嘘だよね……」
九華の涙が朔良の頬に落ちる。反応はない。呼吸を示す胸の上下も、感じられない。
血濡れの片手で朔良の手を取った。つい数分前まで温かかった手のひらが、もう冷たくなり始めている。
「お願いだから…目を開けて…ボクのこと、見て…」
声が嗚咽に変わっていく。肩が小刻みに震え、涙が止まらない。
遠くでサイレンの音が響いている。救急車だろうか。でももう手遅れだと、心のどこかが冷静に告げていた。
歩行者が駆け寄ってくる足音。
「大丈夫ですか!」「お巡りさん!こっちです!!」「救急車はまだなの⁉︎」
慌てふためく大人たちの声。でも九華には遠くに聞こえる。まるで水の中にいるかのように、すべての音がぼんやりと響いている。
「朔良…ごめん……」
九華は朔良の額に自分の額をつけた。冷たくなっていく彼女の体温を、最後に感じ取ろうとするかのように。
「ボクが守れなくて…ごめん……」
九華の意識が血溜まりの中でゆっくりと遠のく。
救急隊員の声、警察官の無線の音、野次馬の話し声。それらすべてが遠くなり、九華の世界は暗闇に落ちていく。
意識を手放す間際――心のどこかでは、殺されるのは”自分であればよかった”と願っていた。
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読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語が、あなたの心のどこかにそっと触れられていたら幸いです。
☆や♡、そしてコメントを頂けた日には、作者が静かに五体投地して感謝いたします。
更新は 木・金・土・日の21時前後に予定しています。
また覗いていただけたらとても嬉しいです。
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