第19話 新たな世界

 人々の優しさと文明は失われて、他人から奪う事が当たり前の生活が続くことになるであろう。


「便利な生活に慣れた人々は、死と隣り合わせの環境に耐え切れないでしょう。そういう人間は、死んでいきます。そして、乗り越えた人々はズルくなるのです」


 アサヒは、私の言葉の意味を理解してくれた。顔を青くして、経験したことないデストピアを恐れていた。


 豊かな世界で育ったアサヒにも、極貧状態の人がどうなるかぐらいの知識はあるらしい。けれども、それは所詮は知識がある程度のことだ。


 アサヒは、実際には人の貧しさや汚いところなど目にしたことがないに違いない。


「……なら、これからどうすれば良いんだ?」


 アサヒは、途方に暮れていた。


 私は、少しばかり考える。


 今の私たちに必要なのは、水と食料である。アサヒの家を拠点とする予定であったので、安全な場所だけは恵まれていた。


 アサヒの家のドアは丈夫そうなので、ゾンビたちの侵入を防いでくれるであろう。


 水に関しては蛇口と呼ばれるものを捻れば出てきているが、これは何時止まるかも分からないものらしい。


 蛇口の仕組みはアサヒも分かっていないようであったが、管理している人がゾンビになれば水は止まってしまう可能性があるようだ。


 蛇口から水が出なくなれば井戸を使えば良いと言ったのだが、アサヒに「そんなものはない」と言われた。


 私は驚いたが、アサヒが嘘をつくはずがない。アサヒは、生活に絶対必要な井戸の場所すら知らないのだ。


 この世界は便利すぎて、驚くことが多すぎた。井戸から水をくむときの力仕事がなくなっただけで、この世界は便利すぎる。


 食料に関しては数日分はあるが、これからの事を考えれば余裕がある内から集めておくに限る。


 空腹になってから探していては、遅すぎるのだ。空腹や喉の渇きは、一番人をおかしくさせるからである。


「商店を襲うのはどうでしょうか。食料に関しては、それで解決できると思いますよ」


 私は木剣やアサヒの弓を使えば、個人商店など簡単に制圧できるだろう。しかし、アサヒは慌てて首を横に振った。


「そんなことなんて出来るか!」


 アサヒは、今まで一番怒った。


 私としてはおかしな提案をしたつもりはなかったが、人から奪うことはアサヒの倫理観が許さないらしい。


「……おりこうさんですね」


 アサヒは、治安が良い世界で育ったのだ。犯罪を嫌悪しているのは、その育ちのせいである。


 私は貧民街で育ったので、人から奪うことに対しては良心の呵責に悩まされることがない。


 それにしても、アサヒの頑固さは厄介だ。


 こんな時でさえ、他者を強奪して生き延びるという考えを拒否するなんて……とても面倒くさい。


 私だけで商店を襲うことも考えたが、それを行えばアサヒからの信頼は失墜してしまう。


 私は、良心的な大人の振りをしなければならないのだ。そうでなければ、アサヒは私から逃げようとするかもしれない。


「しかし、こうなってくると……」


 商店を襲わないとすれば、やれることは途端に少なくなる。というか、なくなってしまう。それこそ、却下した案である避難所から物資を分けてもらうしか手がない。


「……とりあえず、この家で少しばかり休みましょう。キョウコさんも何とかしなければなりませんし」


 私はキョウコを理由にして、外に行かないことを提案した。


 物資がなくなっていくという恐怖を知れば、いくらアサヒであっても他者から強奪するという考えにもなるだろうと思ったのだ。


 その時になったら、私は悪い大人として囁やけばいいのである。他者から強奪しなければ、自分たちは生き延びることは出来ないのだと。


 そうすれば、アサヒだって人から奪うことを決心をしてくれるであろう。恵まれた育ちの人間ほど、飢えに対する恐怖心は大きいのだから。


「そ……うだな。姉さんの事もあるんだった」


 キョウコは、シーツで包んでソファーに寝かせている。だが、いつまでも室内に置いておくわけにはいかない。


 腐っていく死体と共に生活することは、衛生面から見ても避けるべきことだった。だからと言って、そのまま庭に出しても腐っていくだけである。


 庭で腐らせるままにしておくのは、さすがに死者の尊厳にかかわるだろう。ひどい匂いも発生するし、この家を拠点にするためにはキョウコの遺体の処理は解決すべき火急の問題であった。


「普通は火葬するんだけど……」


 アサヒは、不安そうだった。


 司祭もいないというのに、キョウコを見送って良いのかも分からないのであろう。


 私だって、さすがに一人で死体を処理したことはない。私はあくまで殺すのが目的で、死体を処理したことはなかった。


 同業者なかには、死体をバラバラにして捨てる者もいた。だが、キョウコの遺体を切り刻むわけにはいかない。


 この家には、包丁ぐらいしか刃物がないのだ。人間の死体をバラバラにするのは、ノコギリぐらいは必要である。


 だからこそ、火葬というのは一番理にかなっていた。


 かなりの火力は必要になるだろうが、庭に穴を掘るよりも労力がかからない。なにより、アサヒたちの宗教観からも逸脱しないだろう。


 こういうことは意外と重要で、身内をきちんと葬れなかったというのは心理的な負担になるのだ。


 葬式は、死者と別れをするための儀式である。できる限りのことをして、アサヒの心理的な負担を軽くしてやらなければならない。


「キョウコさんは、火葬にしましょう。そして、世界が落ち着いたら丁寧に埋葬すれば良いのです」


 私の意見に、アサヒは賛成した。





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