第28話 不遇のイト
イトは、生きるのを諦めたのか、剣が刺さった右肩をそのまま前へと押し出し始めた。自分の骨を使って、その剣を壁から抜こうとしているようだった。
何も見えない白い闇の中で、呻き声だけが響き渡る。悍ましくて、辛くて、聞いているだけで悲しくなる声に、綾人と陽太は耳を塞いだ。
「生まれ変わってから一生懸命に生きていたヤンの邪魔をして、思い出したくない陰間の記憶を引き摺り出そうとしたな。ヤンを陰間に落としたのはお前じゃないだろう? それなのに、なぜお前はそのことを知っているんだ? そもそもお前に呪玉の作り方がわかるわけもない。裏で手引きしているものがいるだろう? それは誰なのかを言え!」
貴人様の声は、ビリビリと肌を震わせるほどに強く大きくなっていた。体の内側から震わせられて、何も怖くないのにその揺れを止める事ができなかった。
「そんなのあなたが一番よく知ってるでしょう?」
イトは楽しくて仕方がないといった様子で、顎を上げて笑い転げていた。あまりに激しく体を振るので、傷口はさらに開いていく。見えなくても、濃くなっていく血の匂いでそれがわかってしまう。
「貴人様……ケイトの体、大丈夫ですか? あのままじゃ……」
ケイトを心配した綾人が貴人様に声をかけると、「ケイトはもう消滅するしかない」と貴人様が小さな声で答えた。それを聞いた陽太は、どこにいるのか分からない貴人様に向かって噛み付くように叫んだ。
「そんな! ケイトは悪くないんですよね? あのイトっていう人がいなくなれば、ケイトは元に戻るんじゃないんですか!?」
貴人様は、絞り出すような声でそれに答えた。
「残念だが、それはもう不可能だ。いくらイトが体を操っているからと言っても、ケイト自身が拒否をすることは出来たはずだ。それが出来なかった弱さが仇になったんだ。このまま精神も肉体もそれぞれ地獄に送るしかない。罪は償わなければ決して消えないんだ。……綾人」
綾人は真っ白な中に聞こえる優しい声の方へと顔を向けた。そして、「はい」と答えた。その先に言われる言葉は、分かっている。
「今なら前ほど難しくない。射ろ。この白闇が晴れたらすぐに、だ。いいな?」
綾人がそれに「わかりました」と答えると、目の前に以前使った弓と矢が現れた。綾人は急いでそれを掴み、構える。
——あのまま生かしておいても、結局生き地獄なんだろうから……。
弓を番えて覚悟を決めた。数回深呼吸をして、肚を決める。
——どうせ恨まれてるんだ。俺がやるのが一番だ。
そうしているうちに、白闇がうっすらと晴れていった。霧が晴れるように見えるに連れ、綾人の目の星が熱を持ち始めた。弓を持つ手が僅かに震えていた。綾人は集中を深めて、恐れを頭から追い出していく。
ふっと闇が晴れ、クリアになった。
同時に矢から手を離す。
シュッと音を立てて飛び出した矢の先には、真正面にケイトがいた。右肩はほぼ骨が見えていて、その周囲は真っ黒な血が渇き欠けてベッタリと張り付いていた。
「……!」
鈍い衝撃音が響く。
矢は、ケイトの左胸に突き刺さっていた。
「ケイトっ……!」
「ダメだ! 行くな!」
陽太がケイトの方へと走り出した。すぐにウルがそれを捕まえ、泣き叫ぶ陽太を抱きしめた。綾人は自分の放った矢が、人の体を貫いているという事実に、猛烈な吐き気を催し、その場に膝から崩れ落ちた。
「ぐえっ……オエっ……」
人を殺めたという罪悪感に、押しつぶされそうになり、涙が溢れた。
——俺……人を殺した……必要だとは言え、命を奪ったんだ……。
猛烈な嫌悪感が自分を襲う。体が震えて止まらなかった。言葉も出ず、ただ震えるしかなかった。そんな綾人を見て、貴人様が綾人の方へと駆け寄ってきた。
「綾人、大丈夫だ。あれを見ろ」
貴人様は綾人の肩を担いで立たせると、壁に磔になったままのケイトを指差した。血を流し、死にゆく姿を晒しているケイトを見るのは辛いと思いながらも目を向けると、そこには信じられない姿があった。
「え……? わ、笑ってる?」
それは、さっきまでの蔑むような笑顔ではなく、魂が解放されたような穏やかな笑顔だった。ケイトの肉体からはもう血が流れ出てくることもなくなり、イトも意識は朦朧としているようだった。
虚ろな目の中に、ほんの僅かに希望が見出せそうな可能性が見えていた。そこで貴人様は、イトに綾人を狙う理由をはっきり言葉にさせることにした。
「イト、お前、もしやまだヤトがお前を嵌めたと思っているのか」
貴人様のその問いに、イトの目の奥に恨みの炎が戻った。でもそれは、もうほとんど消えかけていて、勢いが無いものになっている。それでも完全に消えることはなく、中心はいつまでも燻りながら燃えていた。それは、イトを苦しめる熾火のようなものになっている。
「だってそう言われたのですから、そう思うのが当然でしょう? 二度目の人生だって、ヤトだけが助かって、俺は処刑された。そんなに俺ばっかり上手くいかないなんて。おかしいじゃないですか!」
綾人は困惑していた。二人で仲良くしていた事しか知らないのに、自分がイトを嵌めたとはどういう事なんだろうか。あの夢の後に、何か重大なことがあったということなのだろうか。でも、綾人にはその記憶が全く無い。そんなに重大なことを、そう簡単に忘れるものだろうか。
「貴人様。どういうことですか」
綾人は、貴人様の後ろから声をかけた。だが、イトがどう動くかわからない限り、貴人様は振り返ることもできない。ただそれでも、綾人の声に不安と決意が入り混じっているのは分かった。
「イトが俺を狙っていて、そのせいで他の人が巻き込まれていたんですよね? 川村くんは、俺からウルを引き剥がすためだけに利用されたんですよね? だったら、俺には真実を知る義務がありませんか?」
綾人の言葉を聞いても、貴人様はすぐには答えなかった。目を閉じて唇を硬く結び、苦しそうに逡巡している。
「綾人……話している最中に記憶が全て戻る可能性もある。その恐ろしさを、お前はわかっていない。もしそれが自分の心を壊すことになったら……」
「それでも知りたいです! 他の人はメチャクチャに傷つけられているのに、自分だけ無傷でいるのは俺は嫌です!」
転生を繰り返し、少しずつ更生されたことで、今世の綾人は正義感に溢れていて、頑固だ。貴人様は頭を抱え、どうしたものかと考えあぐねていると、ずっと後ろに控えていたさくら様が前へ出てきた。
「貴人様、隠していても仕方がありません。教えましょう、全てを。イト、まずあなたの勘違いを正すべきです」
さくら様はそう言って、パッと手のひらを返すと薄紅色の水晶のようなものを取り出した。綾人は、何もないところから大きな水晶が出て来たことに驚いた。そして目を見張っていると、だんだんとその内側に映像が見えるようになり、さらに驚いた。
さくら様はそんな綾人を一瞥すると、ふわりと微笑んだ。「楽しんでいる場合ですか、あなたは」そう言って空いている方のてを水晶の上に翳した。すると、その球体の内側に人の姿がぼんやりと浮かび上がるのが見えた。
「まずは、一度目の人生の終わりを、お互いにどう迎えたのかを知りなさい」
◇
それは、男たちが体を売る茶屋の様子だった。客は男とは限らなず、時に女が買いにくることもある店だった。ただ、間違いないのは、客は全て裕福な家の者だということ。
一般的な遊郭で女郎と遊ぶよりも数段高くつく、
どうやらこの日は、以前綾人が夢で見た日よりも後のようだった。薄紅色の花がたくさん咲いている。空は水色で、抜けるように高い。たくさんの人が見守る中、綾人は綺麗に着飾り迎えの車に乗って去っていく。その後ろ姿を、イトが見送っていた。目に涙を溜めて、必死で笑顔を作っている。それを見る限り、とても仲が良かったのは間違いないようだ。
日が変わり、今度はイトが着飾っていた。イトは、紅葉の綺麗な時期の抜けるような青空の下、迎えの車に乗り、幸せそうに去っていった。身請け先の旦那さんはとても穏やかに微笑んでいて、家族は当たり障りないながらも、拒否もしないようだった。離れに囲われることになっていたので、それに従い暮らすことにした。
数日は穏やかに過ごしたようだった。しかし、それは唐突に始まった。
ある日の夜から、旦那さんはイトに暴力を振うようになった。最初は平手打ちされるくらい。それでも驚いて呆然としていると、慌てて強く抱きしめられ、必死になって謝られた。
「何かお辛いのですか? 俺に手を挙げるくらいで気が済むなら、気にせずお好きになさってください」
そう言ったのが間違いだった。
翌日からは、地獄が始まる。
毎日、気を失うまで殴られる日が続いた。寒い季節になる頃には、殴られ続けた後罪悪感に耐えられないからと言われて、外に出された。
「あざだらけのイトを見ていると、気が狂いそうになる。見えないところに居ておくれ」
そう言われた。どれほど凍えても、旦那さんのために耐えた。それくらいしか自分が旦那さんのためにしてあげられることがないと思い、ただ言われるがままに従った。
「商売が軌道に乗れば、殴らなくて済むはずだから。我慢しておくれ」
そう言われて、ひたすら耐える冬を超えた。
「はい。俺は大丈夫です。あなたがそれで幸せなら、それでいいんです」
イトは穏やかに微笑んでいた。
——こんなに穏やかだったのに、なんでここまで変わったんだろう……。
綾人がそう思いながら水晶を眺めていると、磔になったイトは目を閉じて眉根を寄せいていた。先を知っている本人があんなに辛そうな顔をしているということは、もっと酷いことがあったのだろう。そう思うと、先を見るのが怖くなったが、貴人様にしがみつきながら見届けることにした。
そのうちにだんだんと暖かくなり、旦那さんの仕事がうまく回り始めた。言われた通りに暴力は減ってきた。あざもだんだん無くなって、元の綺麗な青年に戻って来た頃のことだった。
イトは、突然家を追い出された。
「旦那様! どうしてですか? 私が何かお気に召さないことをしたのでしたら、直しますから! 旦那様!」
必死になって叫び、旦那さんに縋りついた。すると、旦那さんはイトに一瞥もくれず、ぼそっと一言呟いた。それが、永遠にイトを縛る呪いの言葉となった。
「男はもう興味がない。お前がせめて、ヤトくらい綺麗であればな」
「えっ……?」
イトは返す言葉が見つからず、途方に暮れていた。何も言わないイトに、旦那さんは身勝手な理屈をつらつらと述べ始めた。
最初の身請け話があった時、本当なら自分のところにヤトがくるはずだったのだと旦那さんは言った。それを、ヤトが我儘を言って違うところに身請けされたと。自分は、イトには興味もなかったのだと。
「お前がいなければ、俺はヤトをもらうことができたんだ。お前なんかいなければ良かった。だから、今からでも消えてくれ」
イトはその言葉に衝撃を受け、その場にへたり込んでしまった。ぺたんと座り込んだイトを見て、旦那さんは激昂した。
「消えろと言っているのがわからないのか! そうか、それなら俺が消してやる! 毒夫は毒の中へ帰れ!」
旦那さんはそう叫ぶと、イトの髪を掴んで引きずり回した。長い髪は、土の上を引きずられる体の重さに耐えかねて、ブチブチと音を立てて切れるか、抜けていった。
「ぎゃー! お、おやめください! 旦那様! やめて……!」
痛みに耐えかねて叫ぶイトを、旦那さんは足蹴にした。イトには、それが一番痛く感じた。あの優しい旦那様が、自分を蹴ったのだという事実を、どうにも受け入れられなかった。
「うるさい! 何をしてもカンに触るやつだな、お前は! おい、誰か! こいつをあの穴に落とすぞ。手を貸せ! その方が手っ取り早い」
カッとなって捲し立てる旦那さんは再びイトを引き摺り回すと、底の見えない大穴の空いている場所まで連れて行かれた。そして、そこでまた足蹴にされ、その
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