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第8話 瀬川事件
穂村の突然の告白から、ちょうど一週間が経っていた。綾人は、金曜日のボランティアに顔を出し、インドネシアから留学してきた女子学生たちから、質問を受けている。大昔の御前と今のお前の違いを教えて欲しいと言われ、頭を抱えていた。これをしっかりと説明してあげられるだろうか? と悩んでいる。
「えっと、つまり、お前っていう言葉は、昔は偉い人に使っていたものなのに、今は侮辱の意味で使うものだということですか?」
「うん、そうですね。江戸時代の初め頃までは、目上の人に対する敬称で……」
この子達は割と日本語が堪能な方で、質問も難しいことが多い。「朝の挨拶はなんて言うんですか?」というレベルだと思っていた綾人は、始めたばかりの頃はこのボランティアを引き受けたことを後悔していた。
今となっては、皆と共に過ごすことが出来るこの時間を、何よりも楽しみにしている。一生懸命で無邪気な彼女たちとの勉強は、彼にとってとても楽しい時間となっていた。
食事の仕方や、宗教的な違い、それに伴う価値観の相違など、留学して経験するようなことを、ここで少し体験することが出来る。地元に居ながらにしてこんな風に過ごせる経験はとても有り難かったし、想像以上に刺激になっていてとても助かっている。
綾人が毎日普通に話していることが、日本語ネイティヴの貴重な意見として、誰かの役に立っている。その事実が、自分という存在を肯定してくれているようで、心地良くもあった。
「桂、ちょっと下向いて」
隣に座っていた穂村が、そう言いながら距離を詰めて来る。綾人の頭の方へと手を伸ばし、後頭部の髪に優しく触れた。
「もうちょっと」
そう言ったかと思うと、そのままグッと頭を引き寄せる。彼はもう一方の手でも髪を触っていた。
綾人の鼻先を、穂村の香りがふわりと包む。触れているわけではないのに、わずかに熱が伝わって来た。それは、今二人の距離がとても近いということを、はっきりと実感させる。綾人は思わず頬を染めた。
「ちょっと、近い!」
最近の綾人は、穂村にこの言葉ばかり言っている。綾人が一人でいるところへ穂村がやってきては、何かしら理由をつけて綾人に触れていくからだ。その度に心臓が暴れ、毎回同じ言葉しか返せていない。いつも突然触れて来る穂村に、たまには少し抗議してやろうかと画策しているが、全く触れられなくなるのも寂しいかもしれないと思うらしく、それも出来ずにいるようだ。
「何かついてるから。ほら、これ」
よく見ると、それはダンボールの破片のようなものだった。見覚えのあるそれは、あの作業場のゴミのようだ。
「あ! え、うそ……」
そう呟きながら、慌てて髪を掴む。家のゴミが神についているということは、つまり朝からそこにゴミがつきっぱなしだったということだろう。
「うわ、これ家からずっとついてたんじゃねえかな。恥ずかしい……」
不眠気味の日が続き、ちょっとしたミスを繰り返している自分に、綾人は少し落ち込んでいた。またかと思い、深いため息を零す。
「綾人、大丈夫? なんか最近ちょっと抜けてるよな」
ちょうどそう思っていたところを突っ込まれたからか、綾人はさらに顔を赤くする。穂村は、それを見て楽しそうにニヤリと笑った。
そうやって笑っている穂村の隣で、綾人は少し落ち着きが無い。このソワソワと浮つく気持ちがこそばゆくて、逃げたいような、もっとこうしていたような、というもどかしさを抱えている。
「だ、誰のせいで寝不足だと……」
綾人はそう言いかけて、ハッと口を噤んだ。それはつまり、自分が穂村のことばかり考えていると、白状してしまうようなものだ。
——やばい、やばい。そんなこと言ったらダメだ。もっと揶揄われるに決まってる。
この間、突然告白されてしまい、あまりのことに綾人は返事に困っていた。場所も場所だった。あの後、綾人は返事をせずにその場から逃げ出している。
背後に瀬川からの「おい! 逃げんのかよ! 返事してやれ!」の声を聞きながら、脱兎の如く逃げ出した。なんと言われようとも、彼はあの場に留まるような勇気を持ち合わせていない。
帰宅してからも、ずっと穂村のことが頭から離れず、彼は瀬川の「俺は突っ込めればなんでも……」の言葉をわーわー言いながら振り払い続けていた。色恋に慣れていない事で、困惑した日々を送っている。
「ん?」
綾人とは対照的に、穂村は最近やたらと輝いている。もしかしたら、あれは
なんだかんだと理由をつけて、口づけをしてくるわ、抱きしめられるわ、最近では当たり前のように、寝る時はいつも添い寝されている。毎日、毎日、本当に、毎日。飽きもせずにそれを続けられている。溺愛という言葉が、本当にピッタリだ。
その
「はい、そんなあなたに朗報です。今日は今から懇親会をやりまーす! めっちゃ美味い店見つけたんだよ」
モヤモヤしている綾人のところに、能天気で飲み会のことしか考えてない瀬川がやって来た。二人の間にグイグイと割って入り、まるでそこが自分の居場所だと言わんばかりに、楽しそうに笑っている。
綾人がその笑顔にジトっとした嫌味な視線を送ると、瀬川は何を思ったのか、突然綾人の口を自分の口で塞いできた。
「ふん!?」
間の抜けた声を出したことに羞恥した綾人は、思わず瀬川の鳩尾を打った。最近、せっかく磨いた彼の技も、瀬川相手に使ってばっかりだ。瀬川の行動がいつも唐突すぎて、どうしても反射的に防御から攻撃に入る流れになってしまう。
相手はガードが出来ないとわかっているので、力は加減してあげた。それでも、手を出すことを止めようとはどうしても思えない。承諾も無しにキスをされることは、綾人にとってはどうしても許せないことだからだ。
「おえっ!」
汚い声を上げながら、瀬川は床に転がった。身構える暇もなかったからか、ゴロゴロと床を転がりながら、涙を流している。
「おまっ……ほんと……今日絶対来いよ!」
ジタバタしながら訴える瀬川を見ていると、綾人にも罪悪感が湧く。少しだけだが、申し訳なくなって来た。
「悪い、ちょっとやり過ぎたな。わかった、今日は行くよ。それで許して」
手を合わせながら頭を下げ、綾人は久しぶりに瀬川の飲み会に参加することにした。あまりに綺麗に一撃を喰らわせてしまったので、彼の体が心配になったのだろう。様子を見るついでに、顔を立ててあげる事にしたようだ。
隣でそれを見ていた穂村が、大きな口を開けて楽しそうに笑う。
「瀬川はいつも玉砕だなー。でも毎回誘うし、今のキスもあるし。もしかして、お前綾人のことが好きなんじゃないの?」
牽制のためなのか、妙に優しい笑顔を見せながら、穂村は瀬川にとんでもないことを訊いている。でもその表情をよく見ると、内心は穏やかでは無いようだ。
——いや、お前がそうだからって瀬川もそうだと思うなよ……。
綾人がそんな風に思っていると、瀬川は真剣に悩み始めていた。
「ぶっちゃけ、顔は好き! 性格も……好き。ん? 嫌いなところは……無い! あれ、じゃあ俺は綾人を好きってことか?」
綾人は驚きすぎて声も出なかった。そんな単純な考え方で決まるほど、好きだという気持ちは簡単なものなのかと衝撃を受けている。
「そんな簡単な話なのかよ」
綾人としては、何日も眠れなくなったり、その姿を目で追い続けたり、見ると切なくなったりするだろうものが、瀬川にとってはそんなに簡単なことなのかと思うと、どうにも納得がいかない。
ただ、彼は綾人が複雑に悩んでいることの方が理解出来ないようだ。彼にとっては恋愛感情は単純明快なものらしく、
「俺はお前を好きみたいよ。綾人は? 俺のこと好き?」
そう言いながら距離を詰めて来る。
「ちょっと、離れろ!」
穂村への想いだけでも持て余しているのに、これ以上そんなことを考えることは綾人には不可能らしく、彼は背中に走った嫌悪感に従って逃げることを選んだ。
「あ! おい、待てよ! なあ、今日は絶対参加しろってば!」
瀬川も必死なのだろう。そう言いながら、走って追いかけて行く。瀬川はとても足が速い。綾人もそこそこ足は速いのだが、瀬川はまるで風のように速い。必死に逃げたにも関わらず、あっという間に追いつかれた。
「もう、お前! 本当に、冗談きついから……」
綾人は、そう言って走りながら振り向いた。瀬川を振り解こうと振り向くと、その背後に何か黒い影が見えた。瞬時に悪寒が体を駆け抜ける。
「えっ?」
驚いて足を止めると、瀬川はその急停止に対応しきれず、走った勢いそのままに綾人の胸に思い切りぶつかってしまった。綾人もそれをまともに受けてしまい、瀬川を抱き抱えたまま、勢いよく尻餅をついた。
「うわっ!」
かなりの衝撃が二人を襲ったが、立ち上がれないほどでは無い。それにも関わらず、瀬川は綾人にのしかかったまま、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「おい、瀬川? 大丈夫か? どこか痛めた?」
綾人は瀬川の肩を掴み、その体を起こそうとした。その体に手をかけた時、瀬川の背中から、勢いよく黒い影が立ち昇るのが見えた。
「え?」
驚いて頭を後ろに仰け反らせてみると、その黒い影は綾人を捉えた。そして、彼を目掛けて勢いよく飛びかかって来る。
「うわっ!」
一瞬、目が合ったような気がした。黒い影にしか見えないが、目が合ったように思った。綾人は腕を顔の前に組み、すぐに目を逸らした。
——どうしよう、なんかヤバいやつだろ、あれ!
そうは思っても体が動かない。逃げないといけないような気はしているが、瀬川が重くて動けない。置いて行くのは危険だろう。そう思って焦っていると、やや離れた場所から深い声が響いた。
「綾人、頭を下げろ!」
それは、最近聞き馴染んできた、あの雅な声だった。綾人は言われた通りに、瀬川の頭を抱えたままで取り得る可能な限りの前傾姿勢を取る。すると、頭上に鋭く空気を咲く音が駆け抜けていった。
「ぎいいいいいいぃぃ」
その音と同時に、苦しそうな呻き声と泣き叫ぶ声を合わせたような、断末魔の声が聞こえてきた。背筋が凍るようなその声に、思わず目を向けてしまう。
「なんだ、これ……」
そこには、真っ黒くて、何かヌメヌメとした、ヒトではない生き物がいた。それは、金色の矢で体を射抜かれており、ビクビクと痙攣している。
形だけで説明するとすれば、黒い鯉のように見えた。でも、魚ではないことは間違いない。痙攣しながらも、逃げようと必死にもがき続けている。その様がとても悍ましい。
綾人がソレに気を取られて呆然としていると、
「ぎいいいいいいぃぃ!」
それでもまだ、ソレは動いていた。
「お前……、これでも消えないと言うことは、生き霊だな?」
「え? あの……え?」
ソレが消えると、その場には静寂だけが残った。
綾人は、目の前で起きた出来事が理解できず、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
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