第9話 戦いへ

「大丈夫か、綾人」


 ふうと息を吐き、ルビーのような右目を持った男が、羂索を戻しながら綾人を気遣う。しゃがむと、いつもは無いはずの錫杖が、その手の中でシャランと音を立てる。顔を近づけ、目を開けなくなったままの瀬川の様子を確認した。


「気を失っているだけみたいだな。心配無い」


 貴人たかひとは瀬川に深刻な問題がないとわかったからなのか、彼を綾人から雑に引き剥がす。そして、投げ捨てるように放置した。


「ちょ、ちょっと!」


 愛情表現がまっすぐな貴人たかひとは、こんな状況でも嫉妬することを隠さないらしい。そのいつも通りの行動により、さっきまで綾人の心にこびりついていた恐怖が、少しだけ形をひそめた。


貴人たかひと様、これ……。瀬川、本当に大丈夫なんですか? 全然目を覚ましませんけど」


「ああ、問題無い。その辺に寝かせておけばいい。お前にくっついていると、俺が燃やしてしまうぞ」


 瀬川が綾人にやたらにくっつきたがるからか、貴人たかひとは瀬川に冷たい。それを見ていると、以前の自分はこんな感じだったのかと気付かされる。それもあって、最近は瀬川に優しく出来るようになって来たのだ。


「あ、あの。さっきのはなんだったんですか? あの黒いやつ。瀬川の背中から出て来たように見えたんですけれど」


 瀬川の様子も気になるが、あの黒いモノの正体が気になる。ヌメヌメとした質感と、真っ黒で地を這うように蠢く生き物。そして恐ろしいことに、綾人はソレと一瞬目が合ってしまった。その時の感覚を思い出しただけでも、体が震えてしまうらしい。それくらい、神経に障るような、嫌な見た目をしていたのだ。


「ああ……、あれはおそらく生き霊だな。俺が唱えるモノが通じないとなると、死霊ではない。この男が、どこかの誰かに執着されているんだろう。しかし、生き霊になるということは、並大抵の執着ではないぞ。一体何をしたのか……」


「生き霊? 瀬川に? 恨まれてるとか、そういうことですか?」


「まあ、そういうことだろうな。綾人、何か思い当たる節はないのか……」


 綾人は、このひと月の間に聞いた瀬川の近況を思い出していった。瀬川には、色恋沙汰の問題が掃いて捨てるほどある。その中で大きな問題に発展しそうなことが無かったかどうか、必死に記憶を辿る。


 心理学部の子が、講義のある教室前で出待ちしているとか、文学部の女子には瀬川と一緒にいると幸せになれないという噂が出回っていたりとか、理学部の子に至っては何度か自宅を突撃されているらしいとか……そんな話ばかりが思い出された。


「それは……思い当たる事しかありません。こいつ、女性への対応に少し問題があるんですよ」


 本人の行いが悪いので仕方がないのだが、貴人たかひとの質問に迷いなく答えが出てしまった。瀬川への恨み……それは間違いなく女性関係だろう。それしかあり得ない。


「あの、アレはほっとくとどうなるんですか?」


 瀬川の行いを考えると、少し痛い目を見るくらいなら、見た方がいいと思う。この感じだと、放っておくといつか命を奪われるのではないかと心配になってしまう。


 瀬川は軽薄な奴ではあるけれど、死んでも仕方がないとは、綾人には到底思えない。ちゃんと話せば、そこそこいい奴だからだ。瀬川の言うことは、いつも表現が悪いだけで、内容は的を射ている事が多い。


「このまま何もせずにいれば、おそらく命を奪われるだろうな。羂索で救えぬのであれば、剣で斬り捨てるしかない。ただし、あまりに侵食されすぎていると、瀬川ごと斬るしかなくなる。早めに退治したほうがいいのは間違いないな。ただそれが今すぐ必要かと言われたら、そうではない」


 急がなくてもいいが、放っておくと危ないという。それはつまり、このままではいけないという事に変わりはない。それも、アレを斬り捨てる必要があるという。そんな事が出来るのだろうか。綾人は不安になった。


「もし、もし斬るとして……斬られたら瀬川はどうなるんですか?」


「斬られたこと自体のダメージはそれなりにある。それに加えて、俺やお前が斬るならば、炎で燃やされるダメージも同時に負う事になるだろう。普通の人間なら、間違いなく命を落とす」


「そんな……」


 風鳴りがした。

 周囲の桜や芝生、小石が巻き上げられ、眠っている瀬川の顔を打つ。綾人の顔にも小さな枝や葉が当たってきて、痛みを感じた。


 それなのに、瀬川は動かない。手で避けなければ顔に痛みが走るはずなのに、それをしない。そのことが、意識が無いという事の異常性を伝えていた。本当にこのまま何もしなければ、死んでしまうのだろう。それを痛烈に感じた。


「さっきの俺の攻撃だけで、既に動けなくなるほどのダメージを受けている。もうかなりの影響を受けているのだろう。生き霊の本体を探して説得するという手もあるが……」


 貴人たかひとは視線を瀬川に向けた。それは、綾人に向けるものに比べると、とても冷たい。もしかしたら、貴人たかひとは瀬川を見捨てるつもりなのだろうか。その不安があった。


 彼にとっては、瀬川は特に縁のない男だ。切って捨てるのは簡単だろう。それでも、綾人にとっては数少ない友人のうちの一人だ。男の友人は彼しかない。何か少しでも出来ることはないのだろうかと思い悩んだ。


 そんな心中を察したのか、貴人たかひとは綾人に、ある提案をしてきた。


「綾人。お前、この男を救ってみるか?」


「えっ?」


 その言葉に、綾人は絶句して目を見開く。人助けをしろと言われてそうしては来たものの、お祓いとなればそれはまた別の話だ。彼が驚くのも無理はない。

 何を言っているのか理解出来ないといった様子で貴人を見やると、言った方の貴人の目は真剣そのものだった。間違っても揶揄っているようには見えない。


「お、お祓いを、ですか? 俺そんなこと出来ませんけれど……」


 その様子を見た貴人たかひとが、フッと笑う。それは、まるで綾人がそれを出来るのが当然だと言わんばかりの吹き出し方だった。


「何を言うんだ。お前は元々そういうことができる性質だ。霊の姿が、生きている人と同じように見えて困ったことが、何度もあるだろう? それはお前の霊力が強いということを表す指標だ。それに、俺が口付ける度にお前自身は浄化され、さらに霊力が強化されている。常に力は増しているはずだ。やろうと思えば祓いも出来る。ただし、これは楽しいものではない。その分お前には覚悟が必要になる」


 綾人は悩んだ。覚悟とはどういうことを指すのだろう。楽しい学生生活に遊べなくなるということだろうか。それとも恋愛したいのにできなくなるのだろうか。


 しかし、そんなことは杞憂だ。今の綾人は、あと二百七十日で罪を消さなければ、結局首を切られる運命なのだから。悩む余地もない。


 それでもお祓いとなると、どういったことをするのかが全くわからない。決めかねた綾人は、瀬川の顔を覗き込んだ。眠ったままの友人の顔色は、だんだんと青白くなっている。それは、生き物としての絶対的な危機を迎えている事を示していた。残された時間は、あまりないように見える。


 毎日綾人の近くに現れては、鬱陶しいほど騒いでいた瀬川。本当に、心から鬱陶しいと思っていた時期もあった。それでも、あの騒音がなくなってしまうと考えると、それはとても寂しい。


 近くにいて当然だと思っていたからこそ、うざいと思うことも出来た。そう思えたのは、瀬川との日々がこれからも続くと、彼が信じて疑わなかったからだろう。

 では、それを失うかもしれないと思うとどうだろうか。そうなると惜しくなり、手元に置いて置きたくなる。


 我儘で幼稚な発想かも知れないが、それが綾人の正直な気持ちだ。そのために出来ることがあるのであれば、それはすべき事だろうと思う。ただし、どうしてもその覚悟が決まらない。


「あの……。覚悟とは、何をすればいいのですか?」


 決めかねている綾人は、貴人たかひとに尋ねた。それを聞いた貴人たかひとはなぜか急に押し黙ってしまう。問いかけられた事へ答える事もなく、ただ綾人の目をじっと見つめている。そのうちに、彼とその周りの空間に異変が現れた。


 伏せ気味の目には、目の前の綾人ではないものを見つめるような不思議な視線が宿る。そして、彼の体を縁取るように、淡い黄金色の陽炎のようなものが見え始めた。


「うっ!」


 それが濃くなるにつれて、綾人の耳を大音量の高周波が襲う。その音に紛れるようにして、直接頭の中に響くような声が問いかけてきた。


『これは、強制ではない』


 それは貴人たかひとの声のようであって、そうではない。空間を音波が伝わって生まれる声ではなく、テレパシーと呼ばれるものだろう。畏怖と親しみの混じったようなその声は、直接精神に触れられるような、これまで聞いたことの無い不思議なものだった。


『選べ、綾人。

 この人間を救うか、救わぬか。

 救うならば、一度踏み込めば逃げられぬ。

 達成するまで、辞めることは出来ない。

 お前にそれができるか?

 お前はそれを望むか?』


 声に含まれる高い音に、綾人は目を回す。轟音のような耳鳴りがしている状態で飛び込んだ水中で、大事な話を聞き取るような難しさがあった。


 この問いかけに迂闊に答えると、自分の人生がどうなるかわからない。でも、どうせこのまま人を助けないといけないのなら、瀬川を助けない手は無い。

 綾人のこれまでは、これといって生きがいのなかった人生だ。この大変な人助けをすることで、もしかすると何かを掴めるかもしれない。


——それなら、願ったり叶ったりじゃないか。


 それでもまだ一抹の不安が拭えない。綾人には、それを一人でやれる自信がなかった。


「あの、貴人たかひと様は俺を支えてくださるのですか?」


 不安げにそう訊いた綾人に、貴人たかひとは柔和な笑みを浮かべる。そして、綾人の右目のほくろをそっと撫でた。そして、五つの点を一つずつ指先で確認するように撫でていくと、そのままその指先を自分の唇にそっと押し当てた。


『お前の祓いの力の強化を約束しよう。そして、穂村としても、俺としても、常にそばにいてやる。それならば、やれるか?』


「常に一緒に、ですか?」


 それならば不安も解消されるだろう。そうなると、迷う事は無い。綾人は、動かない瀬川の方へ向き直った。


——俺なら助けられる。それなら……。


 迷ってはいけない。人一人の命が、自分の意思にかかっている。そう考えると、ようやく覚悟は決まった。


「分かりました。俺、やります」


 その言葉を聞いた貴人たかひとは、ゆっくりと微笑んだ。それは、とても優しく穏やかで、蕩けるように美しい笑顔だった。


『では』


 そういうと、徐に口に当てた指にフーッと息を吹きかけた。そこから眩い光が弾ける。それと同時に綾人のほくろの一つが熱を持ち、赤い星状に変化した。


『桂綾人、瀬川岳斗の身体を守り、悪霊う任をお前に授ける』


 その言葉が終わると、貴人たかひとの右手に一振りの剣が現れた。その鋒を綾人に向け、目の前でピタリと静止させる。目を瞑り、集中を高めている。

 先ほどと同じような黄金色の光がどこからともなく現れ、剣の周りをくるくると回転しながら集まっていく。


 それは、まるで剣の周りにぐるぐると龍が絡みついているように見える。龍が大きくなるにつれ、貴人たかひとの周りの空気がズシリと重さを増した。圧迫感に押し潰されそうになりながら、綾人はそれに耐える。何が起きているのかは分からないが、そうしなければならないと思っていた。


「しっかりやれ」


 そう言葉をかけられた瞬間、黄金色の光が一匹の巨大な竜となり、綾人へと襲いかかってきた。その龍が口を開き、彼を飲み込んでいく。包まれた光の中は、紅蓮と黝の光に満ちていて、それが綾人の体の中へと矢のように降り注いだ。


「っ……!」


 その光が、細胞の全てに入り込んだように体を光らせている。それが体を守っている。そう思った。そして、それを実感しているうちに、彼は膝からゆっくりと頽れ、横たわる瀬川の体の上に折り重なるように重なった。


「ヤト。これが最後になる事を祈るぞ」


 貴人たかひとはそう呟くと、綾人を抱き抱えた。愛おしそうに、腕の中の寝顔を見つめる。そして、苦しげに声を絞り出し、


「必ず最後まで、信じ抜いてくれ」


 と呟いた。

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